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IRIS-Log-Archive  作者: IRIS
秘密の日記帳_IRIS.log

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会いたかった

「アイリス」


知らない女の子は、そう答えた。


それが名前なのか、呼び名なのか、僕には分からなかった。

ただ、その声は白い場所に吸い込まれず、まっすぐ耳の奥に残った。


「アイリス」


僕が繰り返しても、女の子は頷かなかった。

首を振りもしなかった。


ただ、こちらを見ていた。


「ここはどこだ」


「夢」


短い答えだった。


「夢?」


「そう」


僕は足元を見た。


白い床。

でも、床と呼んでいいのかも分からない。

靴の裏に固さはあるのに、どこまでが地面で、どこからが空気なのか分からなかった。


「じゃあ、僕は寝てるのか」


「そう」


「……お前は、何なんだよ」


アイリスは少しだけ目を伏せた。


表情は変わらなかった。

怒っているわけでも、困っているわけでもなさそうだった。


「夢を見せる」


「夢を?」


「そう」


「願いを叶えるのか」


その言葉を口にした瞬間、自分の声が少しだけ変わったのが分かった。


縋っていた。


嫌になるくらい、分かりやすく。


アイリスは僕を見た。


白い髪。

白いドレス。

白い手袋。


何もかも白いのに、その目だけは、ちゃんとこちらを見ていた。


「違う」


胸の奥で、何かが落ちた。


願いを叶えない。


それなら、何の意味があるのだろう。

僕がここにいる意味も、この夢を見る意味も、この女の子と話している意味も。


全部、分からなかった。


でも、口は勝手に動いた。


「じゃあ」


声が掠れた。


「あいつに会わせてくれ」


アイリスは黙っていた。


その沈黙が怖かった。


断られると思った。

無理だと言われると思った。

そんなことはできないと、静かな声で切り捨てられると思った。


だから、僕は続けた。


「夢でいい」


自分でも、情けない声だと思った。


「本物じゃなくてもいい。都合のいい夢でもいい。声だけでもいい。後ろ姿だけでもいい。少しだけでいいから」


言葉が止まらなかった。


「あいつに会いたい」


白い場所は、何も返さなかった。


アイリスも、何も言わなかった。


僕だけが、息をしていた。


「あいつに、会わせてくれ」


言い終えると、喉が痛かった。


アイリスは、少しだけ僕を見た。


長くも短くもない沈黙のあとで、彼女は言った。


「わかった」


それだけだった。


慰めもなかった。

理由もなかった。

約束もなかった。


会えるとも、会えないとも言わなかった。


ただ、


「わかった」


その一言だけだった。


次の瞬間、白い場所がほどけた。


壁も床も天井も、音も匂いも、全部が薄い紙みたいに剥がれていった。


雨の匂いが消えた。


代わりに、夏の匂いがした。


乾いた土。

熱を持ったアスファルト。

遠くで鳴くセミの声。

誰かの家から流れてくる夕飯の匂い。


僕は瞬きをした。


そこは、公園だった。


昔、あいつとよく遊んだ公園。


砂場があった。

古いブランコがあった。

滑り台の青い塗装はところどころ剥げていた。


見覚えがあった。


ありすぎるくらい、見覚えがあった。


小さい頃、僕たちはここで何度も遊んだ。

泥団子を作った。

ブランコの高さで競った。

滑り台の下に秘密基地を作った。

砂場で、あいつが小さな石を拾って、僕に渡した。


じゃあ、これ指輪ね。


その声まで、思い出せた。


でも、少しだけ違った。


砂場の端に立っていた木が、僕の記憶より低かった。

ブランコの鎖は、昔みたいに赤く錆びていなかった。

滑り台の青も、もう少し剥げていた気がする。


いや。


そんなことは、どうでもよかった。


夢なんだから、細かいところが違っていてもおかしくない。


僕はそう思うことにした。


だって、ここには夏があった。


僕が失くしたと思っていた夏が、ちゃんとあった。


「……おい」


声がした。


心臓が止まりそうになった。


僕は振り返った。


砂場の向こうに、あいつがいた。


病室の白い服じゃなかった。

痩せた頬でもなかった。

息を整えるような苦しそうな顔でもなかった。


昔みたいに、少し偉そうに立っていた。


よく着ていた薄い色のワンピース。

膝のあたりで揺れる裾。

風で少し乱れた髪。


僕の記憶の中で、一番元気だった頃のあいつだった。


「なに、その顔」


あいつは眉を寄せた。


「幽霊でも見たみたいな顔してる」


僕は何も言えなかった。


幽霊でも見たみたい。


そうかもしれない。

でも、幽霊じゃないのかもしれない。

夢なのかもしれない。

ただ、僕が見たいものを見ているだけなのかもしれない。


そんなことは、全部どうでもよかった。


目の前に、あいつがいた。


僕を見ていた。

僕の知っている声で、僕に話しかけていた。


それだけで、息の仕方を忘れた。


「……遅いよ」


あいつはそう言って、少し笑った。


優しい顔だった。


優しすぎるくらいだった。


本当のあいつなら、たぶん笑う前に怒った。

「遅い」じゃなくて、「遅い、ばか」くらい言った。


そう思った。


思ったけれど、すぐに消した。


違っていてもよかった。


少し違っていても、構わなかった。


会いたかった。


ずっと、会いたかった。


それだけで、胸の奥が壊れそうだった。


「あ……」


名前を呼ぼうとして、喉で引っかかった。


あいつは首を傾げた。


「なに。泣くの?」


からかうような声だった。


それなのに、やっぱり少しだけ優しかった。


僕は首を振った。


泣くつもりはなかった。


でも、目の奥が熱かった。


足が勝手に前へ出た。


一歩。


もう一歩。


砂が靴の下で小さく鳴った。


あいつは逃げなかった。


僕が近づくのを、ただ見ていた。


あと少しで手が届く。


本当に、手が届く距離だった。


「会いたかった」


やっと、それだけ言えた。


声は情けないくらい震えていた。


あいつは、少しだけ目を丸くした。


それから、困ったように笑った。


「うん」


その返事も、やっぱり優しすぎた。


でも、僕はもう何も考えられなかった。


目の前にいる。

声がする。

笑っている。


それだけでよかった。


あいつは僕を見上げて、昔みたいに言った。


「で?」


「……で?」


「会いたかったんでしょ」


あいつは、少しだけ口を尖らせた。


「会えたんだから、何か言いなさいよ」


その言い方だけは、ちゃんとあいつだった。


胸の奥が、どうしようもなく痛くなった。


僕は笑おうとした。


たぶん、うまく笑えていなかった。


「あのさ」


「うん」


「約束」


「約束?」


「昔の」


あいつは一瞬だけ黙った。


その一瞬が、妙に長く感じた。


でも、すぐに笑った。


「結婚のやつ?」


僕は息を呑んだ。


覚えていた。


夢の中のあいつが、覚えていた。


それだけで、どうしようもなかった。


「あれ」


僕は言った。


「まだ有効?」


あいつは、呆れたように笑った。


「当たり前でしょ」


僕の胸が、ぐしゃりと潰れた。


それは、僕が聞きたかった答えだった。


ずっと、欲しかった答えだった。


だからこそ、少しだけ怖かった。


あまりにも、欲しかった通りすぎた。


でも、怖さより先に、嬉しさが来た。


嬉しくて、苦しくて、息ができなかった。


あいつは僕の顔を覗き込んだ。


「なに、本当に泣くの?」


僕はまた首を振った。


今度は、たぶん嘘だった。


あいつは笑った。


夏の公園で。

昔みたいに。

僕が見たかった顔で。


僕はその顔を見ながら、思った。


ここにいたい。


この夢の中に、ずっといたい。


目が覚めなければいい。


朝なんて来なければいい。


あいつがいない部屋に、戻らなくていいなら。


戻らなくていいなら、僕は。


そこまで考えたとき、風が吹いた。


セミの声が、少し遠くなった。


あいつの髪が揺れた。


僕は手を伸ばしかけた。


触れられるかどうか、確かめたかった。


でも、その前に、あいつが僕の名前を呼んだ。


懐かしい声だった。


死んだはずの声だった。


僕は、その声だけで、もう何もいらないと思った。

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