プロローグ
幼なじみが死んだ。
その一文だけで、僕の世界はだいたい説明できるようになった。
朝が来ても、起きる理由がなかった。
夜になっても、眠る理由がなかった。
学校へ行く意味も、飯を食べる意味も、誰かに返事をする意味も、全部どこかへ落としてきたみたいだった。
それなのに、時計だけは平気な顔で進んでいた。
秒針が一つ動くたびに、僕だけが同じ場所に置いていかれる。
そんな気がした。
あいつが死んだのは、雨の日だった。
重い病気だった。
大人たちは、そう言った。
僕よりずっと詳しく、医者も、あいつの両親も、僕の両親も、病気の名前や、治療のことや、これからのことを話していた。
でも、僕に分かったのは、もっと少なかった。
あいつの手首が細くなっていったこと。
笑ったあとに、少しだけ息を整えるようになったこと。
強がるときほど、僕の顔を見なくなったこと。
最後の方は、話している途中で眠ってしまうことが増えたこと。
それくらいだった。
最後に聞いた言葉は、たしか、
「また明日ね」
だった。
本当に、いつも通りの声だった。
だから僕も、いつも通りに頷いた。
また明日。
そんな言葉を信じた僕が悪かったのか。
そんな言葉を言わせた世界が悪かったのか。
それとも、誰も悪くないのか。
分からなかった。
分からないまま、葬式が終わった。
白い花が並んでいた。
知らない親戚が泣いていた。
知っている大人たちが、僕の肩に手を置いた。
「つらかったね」
「よく頑張ったね」
「時間が解決してくれるよ」
どれも、間違ってはいないのだと思う。
でも、僕の中には入ってこなかった。
時間が解決するなら、どうして時間はあいつを連れていったのだろう。
僕の部屋には、あいつの日記があった。
あいつの母親から渡されたものだった。
「あなたに持っていてほしいの」
そう言われたとき、僕は何も言えなかった。
日記帳は、思っていたより軽かった。
両手で持たなくても、片手で持てるくらいだった。
でも、受け取った瞬間、腕が動かなくなった。
それを開いたら、本当に終わってしまう気がした。
あいつがもういないことを、文字で確かめることになる。
あいつが生きていた時間が、最後のページで止まっているのを見ることになる。
それが怖くて、僕は日記を机の引き出しにしまった。
しまったまま、何日も開けなかった。
引き出しを開けることすら、できなかった。
小さい頃、僕たちは結婚の約束をした。
何歳だったかは覚えていない。
たぶん、結婚の意味もよく分かっていなかった。
公園の砂場で、あいつが小さな石を拾った。
雨上がりで、石は少し濡れていた。
あいつはそれを僕の手のひらに乗せて、偉そうに言った。
「じゃあ、これ指輪ね」
僕は、その石を本気で受け取った。
「大人になったらな」
そう言うと、あいつは満足そうに頷いた。
「忘れたら怒るから」
忘れるわけがなかった。
僕は、ずっと覚えていた。
病室でその話をしたことがある。
白いシーツの上で、あいつは痩せた指を少しだけ動かして、僕の方を見た。
「まだ有効だから」
冗談みたいな言い方だった。
でも、目だけは少し濡れていた。
僕は、何も言えなかった。
言えばよかった。
有効だよ。
まだ終わってないよ。
忘れるわけないだろ。
そんな言葉なら、今はいくらでも思いつく。
でも、そのときの僕は、何も言えなかった。
何かを言ったら、あいつが本当に遠くへ行ってしまう気がした。
黙っていれば、まだ明日が続く気がした。
馬鹿みたいだ。
黙っていても、明日は終わった。
あいつが死んでから、僕は何度も考えた。
もう一度だけ会いたい。
声を聞きたい。
名前を呼ばれたい。
怒られたい。
くだらないことで笑いたい。
結婚の約束のことを、もう一度聞きたかった。
「まだ有効?」
そう聞いたら、あいつはきっと怒る。
「当たり前でしょ」
そう言って、少しだけ笑う。
その顔が見たかった。
ただ、それだけだった。
死にたいと思ったわけじゃない。
少なくとも、最初はそうだった。
ただ、あいつがもうこの世界にいないのなら、僕がこの世界にいる理由もないような気がした。
朝起きても、あいつはいない。
学校へ行っても、あいつはいない。
帰り道を歩いても、あいつはいない。
雨が降っても、晴れても、季節が変わっても、あいつはいない。
だったら、僕はどこに行けばいいのだろう。
あいつに会える場所があるなら、そこへ行きたかった。
この世界じゃなくてもよかった。
正しいかどうかなんて、どうでもよかった。
会いたかった。
それだけだった。
その夜、僕は眠った。
眠るつもりだったのか、ただ目を閉じただけだったのかは分からない。
気づいたとき、僕は知らない場所に立っていた。
真っ白な場所だった。
壁も、床も、天井も、境目が分からない。
どこまでも白くて、どこにも行けないみたいだった。
音がなかった。
僕の呼吸だけが、やけに近く聞こえた。
雨の匂いがした。
でも、どこにも雨は降っていなかった。
水たまりもない。
窓もない。
空もない。
ただ、雨の匂いだけがあった。
そこに、誰かがいた。
女の子だった。
十歳くらいに見えた。
けれど、子どもだとは思えなかった。
白っぽい銀色の髪が、肩のあたりで静かに揺れていた。
肌も、服も、手袋も、白い光を薄く重ねたみたいだった。
白いドレスを着ていた。
布の重なりが、夢の中とは思えないくらいはっきり見えた。
袖口の細い皺も、手袋のなめらかな光沢も、髪の一本一本も、妙に鮮明だった。
顔も見えた。
目も、鼻も、口元も。
こちらを見ている表情も。
でも、何を考えているのかは分からなかった。
優しいのか。
冷たいのか。
悲しんでいるのか。
何も感じていないのか。
分からなかった。
ただ、その子はそこにいた。
僕を待っていたみたいに。
僕は喉を動かした。
声が出るまで、少し時間がかかった。
「……誰だよ」
僕がそう聞くと、知らない女の子は、静かにこちらを見た。
そして、口を開いた。




