プロローグ
俺の仕事は、朝が早い。
家の中がまだ暗いうちに起きる。
洗面所の扉は最後まで閉めない。音がするからだ。
蛇口も一気にはひねらない。水の跳ねる音で、ナツキが起きることがある。
台所に入って、弁当箱を一つ取る。
ナツキが前の晩に詰めてくれたものを、鞄の底に入れる。傾かないように、平らなところを選ぶ。
仕事に必要なものは、いつも同じ場所にある。
鍵。
財布。
携帯。
手袋。
替えのシャツ。
順番を変えない。
順番を変えると、忘れ物をする。
忘れ物は、あとで取りに戻ることになる。
それが一番よくない。
玄関で靴を履いていると、廊下の奥で小さな足音がした。
「お父さん」
ミオだった。
髪が片方だけ跳ねている。
寝ぼけた顔で、目をこすりながら立っていた。
「まだ早いぞ」
「トイレ」
「そうか」
ミオは俺の横を通り過ぎようとして、玄関に置いてあった黄色い傘を見た。
「今日、雨?」
「降るかもしれない」
「じゃあ持ってく」
「忘れるなよ」
ミオは眠そうに頷いた。
俺は立ち上がって、ミオの髪の跳ねたところを指で押さえた。
すぐ戻った。
「忘れ物はするな」
「うん」
「残したものは、あとで取りに戻ることになる」
「わかってる」
ミオはそう言って、少しだけ笑った。
わかっている顔ではなかった。
けれど、子供はそれでいい。
わかるまで、同じことを言えばいい。
俺は靴べらを戻し、傘立ての位置を直した。
玄関に余計なものが残っていないことを確認して、扉を開ける。
朝の空気は冷たかった。
俺は、誰にも見られないうちに家を出た。




