平和な日常
事務所へ戻るころには、空気はさらに冷えていた。
私はコートを脱ぎ、帽子を卓上へ置き、いつもの椅子に腰を下ろした。ポットの湯はまだ使える。こういう時のために、私は保温という文明の知恵を信頼している。
カップへ紅茶を注ぐと、琥珀色が柔らかく揺れた。
事件の後の一杯は良い。世界の乱れがひとまず片付いたことを、舌で確認できるからだ。
向かいに座ったワットソン君が、長く息を吐く。
「しかし、あなたの推理は相変わらず妙ですね」
「どのあたりが」
「途中までは、ずいぶん大きな陰謀に見せるでしょう」
「実際、陰謀は大きく見るべきです」
「今回は陰謀ですらありませんでしたが」
「俗な趣味もまた、個人の内側における陰謀です」
「便利な言い回しですねえ」
私はカップを持ち上げた。
「ですが、見たでしょう。私は犯人像を見抜いていた」
「ええ、まあ。『高尚ぶる俗物』という意味では、たしかに」
「その通りです」
「ただ、私は途中で何度か、もっと単純な話ではないかと思ったんですよ」
「単純な話ほど、人は複雑に見たがるものです」
「あなたが言うと妙にややこしいですね」
私は微笑した。
ワットソン君は私を過小評価しがちだが、実際のところ、私はかなり当てている。事件の核を掴む力については、自負がある。
もっとも、細部が多少派手になることは否定しない。
窓の外は、すでに夜明け前の静けさへ傾きつつあった。
こうして一件が終わるたび、私は思う。都市は騒がしい。醜い。くだらない。だが観察には飽きない。
人間は高価な宝石のためではなく、レース一枚のためにも罪を犯す。
そういうものだ。
そういうものだから、面白い。
その時、通りの向こうで、女の悲鳴が上がった。
続けて、何人もの足音。怒鳴り声。何か重いものが倒れる音。まだ夜の薄闇が残る街路の向こうで、突然、騒ぎが膨らんでいく。
「何でしょう」
ワットソン君が立ち上がり、窓へ寄る。
次の瞬間、はっきりとした声が通りを裂いた。
「強盗だ!!」
さらに別の誰かが叫ぶ。
戸を閉める音。駆ける音。犬まで吠え始めた。
ワットソン君が振り返る。
「シャーク! 今のは――」
私は紅茶をひとくち飲んだ。
香りは悪くない。温度もちょうどいい。
そして、窓の外を見ることもなく、静かに言った。
「今日も平和だ」




