月下の蒐集家
張り込みは、被害の最も新しい屋敷で行うことになった。
奥様と使用人長の協力を得て、今夜は窓の鍵をわざと甘くし、衣装箱の一段にも分かりやすい空白を作っておく。囮としてはあまりに露骨だが、趣味で動く相手には露骨なくらいでちょうどいい。
深夜、私は庭の茂みに身を潜め、ワットソン君は裏手の塀際、巡査二名は少し離れた路地に待機した。
夜気は冷え、草の匂いが濃い。
こういう待ち時間は嫌いではない。推理は閃きの芸術だと思われがちだが、実際には待つ時間の方が長い。待つことに耐えられない者に、事件は解けない。
「シャーク」
茂み越しに、ワットソン君の低い声がした。
「ええ」
「まだですかね」
「まだでしょう」
「犯人、来ますか」
「来ます」
「根拠は」
「私が来ると思っているからです」
「その根拠、強いんだか危ういんだか分かりませんね」
私は返事をしなかった。
だが本音を言えば、根拠は十分だった。犯人は選別の癖を持ち、侵入の手際に自信があり、しかも成功を重ねている。囮があれば来る。来ない理由の方が少ない。
雲が切れ、月明かりが壁面を白く舐めた。
その時だった。
二階の窓下に、ぬるりと影が現れた。
背は高くない。動きは軽い。躊躇がない。壁の装飾に足をかけ、まるで何度もやったことがあるかのように、するすると上へ上がっていく。
私は息を潜めた。
影は窓辺で一瞬止まり、内側を窺う。次いで、何のためらいもなく室内へ滑り込んだ。
「入った」
私は囁いた。
「今ですか」
「まだ」
「まだ?」
「現行犯としては甘い。獲物を持ってからです」
ワットソン君が何か言いかけた、その直後。
窓の内側でごそりと物音がした。続いて、小さく満足げな鼻息のようなものまで聞こえる。
私は立ち上がった。
「今です」
巡査たちが一斉に動く。
私も壁際へ駆け、用意していた梯子に足をかけた。上がりきるより先に、窓から影が飛び出した。胸元に何かを抱え込んでいる。
「そこまでです!」
私は叫んだ。
影がこちらを振り向いた。
そして月明かりが、その頭上を照らした。
私は一瞬、言葉を失った。
頭に被っていたのは、白地に淡い刺繍の入った、どう見ても女性用の下着だった。
いや、女性用の下着を頭巾のようにして被っていた、と言うべきか。
目の前の人物は夜盗らしく黒衣をまとい、侵入者としての気配は十分に備えていた。だが、その全てを台無しにするほど、その頭部だけがひどかった。
「……なるほど」
思わずそう漏らした私の横で、ワットソン君が絶句している。
犯人は逃げようと身を翻したが、下で待ち構えていた巡査が足を払った。影は石畳へ転がり、抱えていた獲物を散らす。レース。絹。リボン。どれも今しがた衣装箱から抜き取られたものだ。
私が降り立つ頃には、巡査二名が犯人の腕を押さえつけていた。
「離せ! 離せと言ってるだろう!」
「観念しなさい!」
「私は盗人じゃない!」
「盗人です」
私はきっぱり言った。
犯人は地面に頬を押し付けられたまま、ぎろりと私を睨んだ。三十代半ばほどの男。顔立ちは平凡、手入れの悪い髭、そして無駄に悲壮な目をしている。
「違う……私は、ただ……」
「ただ?」
私はステッキの先で、男の頭に被さった布を軽く示した。
男は一瞬だけ目を逸らし、それでも叫んだ。
「好きだっただけなんだ!」
沈黙が落ちた。
夜気が冷える音さえ聞こえそうなほど、見事な沈黙だった。
ワットソン君が先に口を開いた。
「……だそうです」
「聞こえています」
私は静かに頷いた。
「やはりそうでしたか」
「やはり、ですか?」
「ええ。この男は蒐集家です。しかも極めて俗な部類の」
「俗なのは全く異論ありませんが」
男はなおも暴れながら叫ぶ。
「私は理解したかっただけだ! あれはただの布じゃない! 持ち主の生活が滲むんだ、趣味が、品性が、気配が――」
「なるほど」
私は真顔で言った。
「高尚ぶるタイプでした」
ワットソン君が顔を覆った。
巡査の一人は笑いを堪えるのに必死で、もう一人は職務上笑ってはいけないと己に言い聞かせている顔だった。
私は犯人の散らばった獲物を見下ろす。
「金品ではなく、こうした品ばかりを選んだのは?」
男は数秒だけ口をつぐみ、やがて観念したように吐き捨てた。
「……宝石なんかより、そっちの方がずっと、その人間のことを知れるだろうが」
「知ったところで、どうするつもりだったんです?」
ワットソン君の問いに、男は言葉を詰まらせた。
それから小さく、しかし妙に胸を張って言った。
「保管する」
「保管」
「分類して」
「分類」
「時々、見返す」
私は目を閉じた。
実にどうしようもない。
だが、どうしようもなさの中にも一貫性はある。そういう意味では、美しいとすら言えなくもない。もちろん、犯罪として許されるものでは全くないが。
「連行してください」
私が言うと、巡査たちが男を立たせた。
男は最後まで未練がましく、地面に落ちた一枚へ目を向けていた。
あれが彼にとって何であれ、法の上ではただの盗品だ。
「助かりました、シャークさん」
巡査の一人が帽子を押さえながら言う。
「このところ同じ手口が続いていて、こちらも頭を抱えていたんです」
「ええ。都市の秩序は守られました」
ワットソン君が小さく横を向いた。
おそらく笑いを堪えているのだろう。彼は案外、品がある。
もっとも、今夜の犯人には欠けていたが。




