消えた絹
被害のあった屋敷は、都市の西側にある古い貴族街の一角に建っていた。
門扉は堅牢、庭はよく手入れされ、窓枠の塗装にも剥がれがない。外から見ただけでも、家人が体面を重んじる家であることが分かる。そういう家ほど、表へ出せない事件を嫌う。
私は案内された二階の私室へ入ると、まず何も触れずに室内を見渡した。
寝台、化粧台、衣装箱、窓、暖炉。
荒らされた形跡は少ない。にもかかわらず、空気には妙な乱れがある。几帳面に整えられた部屋から、そこにあるべき何かだけが抜かれた時の乱れだ。
「こちらです」
使用人長の女性が、衣装箱の一段を開いて見せた。
中には丁寧に畳まれた衣類が並んでいたが、たしかに空白がいくつかある。欠け方が不自然だ。適当に持っていったのではなく、選んで抜き取っている。
「なくなったのは、毎回ここから?」
「はい。奥様と、お嬢様方のお部屋で」
「男物は?」
「一切」
「ふむ」
私はステッキの先を床へ軽く当てた。
「窓は」
「内側から鍵が開いていました」
私は窓辺へ寄った。窓枠の下に、ごく細い擦れ跡。外側の石壁にも、靴先か道具の先でついたような、浅い傷がある。力任せに入ったのではない。慣れた侵入だ。
窓の縁を鼻先に近づけると、石と湿気に混じって、ごく微かに石鹸の匂いがした。
「洗いたてですか」
背後からワットソン君が言う。
「そう見ますか?」
「いえ、匂いが」
「その通り」
私は振り返った。
「犯人は無差別ではありません。選別している。しかも、状態を気にする程度には趣味性がある」
使用人長の女性がますます青ざめる。
「しゅ、趣味……」
「ご安心を。趣味で動く犯罪者は、信念で動く犯罪者より読みやすい」
「そういうものですか?」
「多くの場合は」
私は衣装箱の中を見つめたまま続けた。
「ただし、趣味の形があまりに俗である時、本人はかえって崇高ぶるものです。自分の行為に、もっともらしい意味を与えたがる」
ワットソン君が小声で言った。
「そこまで分かるんですか」
「まだ分かってはいません。ですが見えてはいます」
私はしゃがみ込み、床に落ちていた短い糸くずを摘んだ。白に近い薄桃色。柔らかい絹だ。被害品の一部か、あるいは犯人の衣服に付着していたものか。
「面白い」
「またそれですか」
「ワットソン君、これは単なる下着泥棒ではありません」
女性が口元を押さえた。
ワットソン君は「下着泥棒とまでは言っていなかったはずですが」と目で言った。
私は気にしない。
「いいですか。金品には触れない。男物にも触れない。洗いたての、丁寧に管理された品だけを狙う。これは所有欲だけではない。選別です。価値観の選別」
「はあ……」
「しかも貴族街ばかりが狙われている。となれば、女性たちの私的領域を侵すことで、上流階級の体面そのものを揺さぶろうとしている可能性が高い」
ワットソン君が眉を上げた。
「ずいぶん大きく出ましたね」
「事件は常に大きく捉えるべきです。小さく見る者は、小さな真実しか拾えない」
私は立ち上がり、窓の外を見た。隣家との距離、足場になりそうな装飾、街灯の位置。夜の侵入経路は十分に考えられる。
「被害の一覧をいただけますか」
使用人長はすぐに紙を差し出した。奥様、お嬢様二名、隣家の令嬢、その向かいの未亡人。年齢も立場もまちまちだが、ある程度以上の家格に属する女性ばかりだった。
私はその紙を見て、ゆっくり頷いた。
「見えましたよ」
「本当ですか!」
「ええ。犯人は、ただ盗んでいるのではない。蒐集しているのです」
「しゅうしゅう……」
「しかも、きわめて俗な対象を通じて、きわめて高尚ぶった満足を得ている。そういう手合いです」
ワットソン君がため息をついた。
「要するに、変な趣味の小泥棒では?」
「君は要約が雑すぎる」
私は帽子のつばを整えた。
「今夜、張り込みましょう。犯人はまた来ます」
「なぜそう言い切れるんです?」
「趣味で動く者は、やめ時を知りません」
それは、経験から来る確信だった。
趣味の犯罪は、効率ではなく昂ぶりで続く。だから繰り返す。だから癖が出る。だから捕まる。
本件の犯人も同じだ。
ただ一つ気になるのは、これほど俗な趣味を持ちながら、侵入の手際だけは妙に良いということだった。
そこに、まだ別の綻びがある。
私はその綻びを見つけることを、少し楽しみにしていた。




