プロローグ
世界は、ときどきよくできた舞台のように見える朝がある。
窓の外には薄い霧。石畳は昨夜の湿気を少しだけ残し、通りを行く馬車の車輪は、まだ眠たげな音を立てていた。向かいの家の煙突からまっすぐ煙がのぼり、角のパン屋は扉を開けたばかりらしい。あれだけ雑多な都市だというのに、こういう朝に限って、世界は妙に整って見える。
私はその整いを好む。
整っているものは、美しい。
美しいものは、観察に値する。
観察に値するものは、いずれ必ず何らかの綻びを見せる。
そして綻びは、大抵の場合、私のところへやって来る。
「シャーク、朝からずいぶん満足そうですね」
向かいで新聞を広げていたワットソン君が、半ば呆れた顔でそう言った。
「当然です、ワットソン君。静かな朝ほど、事件の匂いが濃い」
「私には紅茶の匂いしかしませんが」
「それは君の感覚が健全である証拠です。ですが、名探偵には健全だけでは足りない」
私はカップを持ち上げ、琥珀色の液面を一度だけ傾けた。香りは上々。温度もいい。こういう小さな正しさの積み重ねが、推理の精度を支えるのだ。
その時、階下で呼び鈴が鳴った。
しかも一度ではない。焦った者に特有の、短く、せわしなく、間の悪い鳴らし方だった。
私は静かにカップを置いた。
「ほら、来ましたよ」
「本当に事件なら、あなたも少しは予知じみて見えるんですがね」
「事件とは予知するものではありません。匂いで察するものです」
やがて扉が開き、年のころ五十前後と思しき女性が通された。上等な生地の外套を着てはいたが、手袋の指先は落ち着きなく震えている。使用人長か、それに近い立場の者だろう。気丈さを装ってはいるが、明らかに取り乱していた。
彼女は室内へ一歩踏み入れるなり、私とワットソン君を交互に見た。
「……名探偵のシャーク様、でいらっしゃいますか」
「ええ」
私は椅子に座ったまま頷いた。
「私に任せてください。全て解決しますよ」
その言葉に、女性は明らかに安堵した。
人は確信を与える声に弱い。確信が本物であるかどうかは、その次の問題なのだ。
「実は、お屋敷で妙な盗難が続いているのです。旦那様にも警察にも知られたくないと奥様が……ですが、もう二度、三度では済みません」
「ほう」
「金目の物は盗られません。銀器も、宝石も、現金も。なのに、なくなる物だけが毎回おかしくて……」
そこで彼女は言い淀み、視線を下げた。
私は静かに言った。
「なるほど。あまり大きな声では言えない種類の私物、ということですね」
女性は顔を赤くし、それでも小さく頷いた。
ワットソン君が咳払いをした。
私は背もたれに身を預け、目を閉じる。
金品に手をつけず、名誉だけを掠め取る盗み。繰り返される羞恥。表に出しにくい被害。これは単なる窃盗ではない。もっと象徴的な、もっと社会的な、何かだ。
「面白い」
「面白い、ですか……?」
女性が怯えたように言う。
「ええ。これは単なる盗難ではありません。都市の品位を揺るがす種類の事件です」
ワットソン君が小さく眉をひそめたが、私は構わなかった。
「現場を見せていただきましょう」
女性は慌てて立ち上がる。
「では、すぐに馬車を」
「結構。移動中に、過去の被害の詳細を伺います」
私は帽子を取り、ステッキを手にした。
世界は整って見える朝ほど、その綻びが鮮やかだ。
そして今日の綻びは、どうやら絹でできているらしい。




