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IRIS-Log-Archive  作者: IRIS
無人島漂流記_IRIS.log

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236/258

外側

それから、どれくらい経ったのかは、もうちゃんと分からない。


最初の頃は、朝が来るたびに一日ずつ数えていた気がする。三日目、五日目、一週間くらい、たぶん二週間、そんなふうに曖昧になりながらも、一応はまだ数えようとしていた。


けど途中でやめた。


数えたところで何かが変わるわけじゃなかったし、数が増えるほど、むしろ嫌になった。十日が二十日になって、一か月が二か月になる、その重さをいちいち考えるのが面倒になった。


だから俺は、日数じゃなく、手順で日を越えるようになった。


朝、水を見る。

火を見る。

海へ行く。

釣れるなら釣る。

駄目なら貝を拾う。

木の実を集める。

干す。

結ぶ。

直す。

食う。

寝る。


その繰り返しだった。


気づけば、水を作るやつは最初の何倍にも増えていた。ひとつじゃ足りないなら増やせばいい。それだけの話だった。見た目は相変わらずひどい。漂着物の寄せ集めで、まともな人が見たらゴミを並べてるようにしか見えないと思う。


でも、水はちゃんと溜まる。


一日の分をどうにかするだけじゃなく、少し残せる日もある。干した魚も、うまいわけじゃないが、一応は置いておける。木の実も、危なくなさそうなやつだけなら、だいたい見分けがつくようになった。釣りも、毎回じゃないけど、前よりは釣れる。


腹が減る日はある。喉が渇く日もある。波が高くて何もできない日もある。


それでも、最初の頃みたいに、今日死ぬかもしれない、ばかりではなくなっていた。


たぶん、それを安定って言うんだと思う。


その朝は、妙に空気が澄んでいた。


目を開けた瞬間、今日は気持ちがいいな、と思った。自分で思って、自分で少し驚いた。前にも似たような朝はあったかもしれないけど、その日は特にそうだった。湿り気が少なくて、風も穏やかで、空が高かった。


寝床の横には、昨日の分の水が少し残っている。新しく溜まっている分も悪くない。干していた魚もある。木の実も少しある。火も完全には消えていない。


足りる。


最近は、その感覚が少し増えた。


多いわけじゃない。豊かでもない。けど、その日を越えるだけじゃなく、少し先のことまで考えられるくらいには足りる。


俺は水を飲んで、口の中を湿らせた。ちゃんと唾が出る。それだけで、変に機嫌がよかった。


今日は少し先まで見に行こうと思った。


脱出だとか、救助を探すとか、そういう大げさな気持ちはあまり無かった。もちろん、帰れるなら帰りたい。そんなの今でも同じだ。けど、それとは別に、少しだけ外を見てみたくなった。


島の周りを、少し沖から見たらどう見えるんだろう。


前から何となく考えていたことだった。浜辺の先を歩くのとは違う。海の側から見る。近くに別の島があるかもしれないし、別の浜があるのかもしれない。もっと魚が多い場所があるかもしれないし、水場が見つかるかもしれない。


何かいいことがあるかもしれない。


根拠なんてない。


でも、その日の朝はそう思えた。


筏は前から少しずつ作っていた。


最初は漂着物をまとめるためだった。次に、浮くかどうか試した。さらに少し手を入れて、木を増やして、結び直して、またやり直した。いきなり遠くまで行くつもりなんてなかったから、本当に少しずつだった。


結ぶ時だけは、やっぱり手が覚えていた。


現場でやっていたのは、もちろん筏なんかじゃない。荷物の固定とか、養生とか、ほどけたら困る場所の結びとか、そういうものだ。けど、引かれた時にどっちへ力が逃げるかとか、どこを締めればましになるかとか、その辺の感覚は残っていた。


全部がうまくいくわけじゃない。


でも、少なくとも、火を起こす時よりは自分の手を信じられた。


筏の結び目をひとつずつ確かめる。引く。緩まない。もう一度引く。大丈夫そうだ。


水を少し積む。干した魚も持つ。戻れないほど遠くに行くつもりはない。散歩みたいなものだ。少し先を見るだけだ。そう自分に言い聞かせると、本当にそれくらいのことのように思えた。


波は穏やかだった。


筏を押して海に浮かべると、思っていたより素直に乗った。少し揺れる。けど怖すぎるほどじゃない。棒を使って岸から離れる。水がきらきらしている。朝の光を受けて、妙に綺麗だった。


俺はゆっくり進んだ。


普段いる浜辺が少しずつ遠くなる。寝床のあるあたりも、水を置いてる場所も、火の跡も、遠くから見るとよく分からない。ただ木があって、砂があって、その辺に俺の生活が埋まっているだけだ。


それでも、あの辺だ、とは何となく分かる。


戻る場所みたいに見える。


その感覚に、自分で少し笑った。こんな島、好きなわけじゃない。選んだわけでもない。帰れるなら帰りたいに決まってる。それなのに、海の上から振り返ると、ちゃんと“戻る側”に見える。


人間って勝手だな、と思った。


棒で水をかく。

少し進む。

またかく。


岸が離れるにつれて、気分が少しだけ軽くなった。


外に出てる、という感じがした。


ずっと同じ場所の中を回っていた。水と火と食いものの範囲で、ぐるぐる同じところを生きていた。けど今は、その輪っかの外に少しだけ足を出している。


それだけで、何かいいことが起きそうな気がした。


もう少し行ったら、何か見えるかもしれない。

島の形が変わって見えるかもしれない。

別の陸地が見えるかもしれない。

あるいは、本当に何も無くて、それでも少しは気が済むかもしれない。


今日はそういう朝だった。


空気がうまい、という言い方が正しいのか分からない。海の上だから潮の匂いは強いし、湿ってもいる。けど、その日は妙に胸の奥まで広がる感じがした。空は高くて、雲は薄くて、風は優しい。これから何かいいことがありそうだな、と、そんなふうに思っていた。


だから、最初は何が起きたのか分からなかった。


ごっ、と鈍い音がして、筏が急に止まった。


体が少し前に持っていかれる。慌てて重心を戻す。棒を握り直して、反射的に前を見る。


何もない。


海しかない。空しかない。


なのに、ぶつかった。


え、と声が出た。


もう一度、慎重に棒で前を突く。先端が何かに当たる。ぐ、と押し返される感触が、確かにあった。岩じゃない。浮いてる何かでもない。もっと平らで、広いものに当たっている感じがする。


何だよ。


思わずそう言って、俺は身を乗り出した。


目の前は、どう見ても空だった。薄い青に、白い雲が少し流れている。水平線の続きに、ただ空があるようにしか見えない。


でも、手を伸ばすと、そこに触れた。


ひやりとしていた。


つるつるして、平らで、妙に硬い。


息が止まる。


手を引いて、もう一度触る。やっぱりある。指先の腹でなぞると、少しざらつくところもある。塗られたみたいな感触がした。


空の模様だった。


空だと思っていたものは、近くで見ると、青が少し均一すぎた。白い雲みたいに見えていたものも、流れているわけじゃない。ただ描かれているだけのように見えた。


壁。


頭の中で、その言葉が浮かぶまで少し時間がかかった。


空の模様の壁が、海の上に立っていた。


意味が分からなかった。


俺はしばらく何もできなかった。筏の上で、片手をその壁につけたまま、ただ呆然としていた。心臓の音だけが変に大きい。喉が急に乾く。けど、目の前にあるのは確かに壁だった。


岩じゃない。蜃気楼でもない。夢でもなさそうだった。


何だこれ。


やっと出た声は、自分でも情けないくらい掠れていた。


壁は、横にずっと続いているように見えた。どこまであるのか分からない。青い空に紛れるみたいにして、海と水平線の中に立っている。さっきまで本当に気づかなかったのが、逆にぞっとした。


俺は棒で少し横へ動いてみた。


壁は消えない。


どこかに切れ目でもあるんじゃないかと思った。そうじゃなきゃおかしいだろ、と思った。こんなものがあるわけがない。あるなら、何なんだ。何でここにある。何で俺は今まで気づかなかった。


少し進んだところで、縦の線が見えた。


継ぎ目だった。


心臓が変な音を立てる。


近づく。確かめる。取っ手がある。


扉だった。


空の模様の壁の中に、扉が埋まっていた。


俺はしばらくその前で止まった。


触るべきじゃない気がした。開けたら駄目な気もした。何を見てもおかしくないし、何も見たくない気もした。


けど、ここまで来て、触らずに戻れるわけもなかった。


冷たい取っ手を握る。


手汗で少し滑る。押すのか引くのか、一瞬迷って、引いた。


扉は、あっさり開いた。


その向こうに、海は無かった。


白い通路みたいなものがあって、その先に広い空間が見えた。眩しい照明。床の上を走るケーブル。積み上がった箱。見たことのない機材。台車。布。パネル。何かの骨組みみたいなもの。


そして、人。


人がいた。


何人もいた。


誰かが箱を運んでいた。誰かが台車を押していた。誰かが紙を見ていた。誰かが走っていた。誰かが怒鳴っていた。誰かが笑っていた。慌ただしく働いている。忙しそうに動いている。何かの準備なのか、何かの後片づけなのか、それすら分からない。


誰も彼も、自分の仕事で手一杯みたいに見えた。


そこに俺が立っていることすら、まだ何人かは気づいていないようだった。


俺は扉の前で立ち尽くした。


頭がまるで回らない。


海は。

島は。

あの水は。

あの火は。

干した魚は。

寝床は。

毎日やっていたことは。

半年、だったのかどうかも分からない、あの時間は。


何だったんだ。


口を開いても、声が出なかった。


ただ、扉の向こうで、スタッフたちが慌ただしく働いていた。

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