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IRIS-Log-Archive  作者: IRIS
無人島漂流記_IRIS.log

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235/258

余りができると、人は少しだけ遠くを見るらしい。


最初の頃は、朝起きた瞬間から今日をどうやって越えるかしか考えられなかった。水があるか、火が残ってるか、腹に何か入るか。頭の中はいつもその三つでいっぱいだった。


でも今は、そこにもうひとつ入ってくる。


この先、だ。


もちろん大それた意味じゃない。明日とか、来週とか、そういうのもある。けどそれだけじゃなくて、もっと単純に、あの岩の向こうはどうなってるんだろうとか、浜辺の先まで行ったら何があるんだろうとか、そういうことを考える時間が増えた。


余裕なんて呼べるほどのものじゃない。


それでも、考えられるようにはなっていた。


その日は朝から風が弱かった。


水は昨日の分が少し残っていて、新しく溜まっている分も悪くなかった。火も起こし直すほどではなく、灰の下にちゃんと熱が残っていた。干していた魚も、昨日の木の実もある。腹いっぱいにはならないけど、出歩いている間に倒れるほどでもない。


だから、浜辺の反対側へ行ってみることにした。


普段の場所から少し離れるだけなのに、妙に支度をしてしまう自分がおかしかった。水を少し持つ。木の実をふたつポケット代わりの布に包む。火の周りは散らからないようにしておく。帰ってきてから面倒にならないように、寝る場所の端も押さえ直す。


どこへ旅行に行くわけでもないのに、と思って少し笑った。


浜辺を歩く。


波打ち際は朝の光を受けて、やけに白かった。足元の砂はまだ熱くなりきっていなくて、昼間ほど嫌じゃない。潮の匂いを吸い込んで、吐く。前はそれだけで喉のことを思い出していたのに、今はただ海の匂いだと思える時がある。


歩きながら、流れ着いたものを拾う。


相変わらず、何に使うのか分からないものばかりだった。薄い板。割れた容器。紐の切れ端。妙に丈夫そうな布。前なら見向きもしなかっただろうに、今は全部が一度手に取る候補になる。使えるかもしれないと思うだけで、とりあえず拾ってしまう。


その中に、黒い丸いものがあった。


拳より少し大きいくらいの、妙に硬い物体だった。片面だけつるつるしていて、真ん中に小さな丸いガラスみたいなものがはまっている。機械っぽいけど、何の部品かは分からない。


拾い上げて、ひっくり返してみる。砂がぱらぱら落ちる。壊れているのか、割れているのかもよく分からない。少なくとも今の俺には使えなさそうだった。


こういうの、前にも見た気がするなと思った。


いや、同じものじゃない。けど、どこかで似たような“何かの部品”を拾ったことがあった。使えなくて放り出したやつだ。海は本当に何でも流してくる。


俺はそれをしばらく眺めてから、結局持って帰ることにした。


使えるかもしれない、はほとんど癖だった。


浜辺の先は、いつもの場所より岩が多かった。ごつごつしていて歩きにくい。波が入り込む細い隙間に、小さい魚が見える。貝も少し多い。悪くないな、と思いながらしゃがみ込んでいくつか剥がした。


見える範囲が変わると、島も少し違って見える。


こっち側からだと、普段いるあたりの木々が低く見えた。寝る場所がどの辺かも何となく分かる。煙は見えない。火は小さいし、今は消してきたから当たり前だ。けど、自分が戻る場所を遠くから探すみたいなことをしていると、妙な気分になる。


戻る場所。


その言い方はまだ変だと思う。


ここに来たかったわけじゃない。帰れるなら帰りたい。こんなところ、最初はただの災難だった。


でも今、あの辺だなと目で探してしまう場所があるのは本当だった。


岩場を抜けて、少し高いところまで登ってみる。


登るというほど大げさじゃない。手をかけて、足を置いて、体を持ち上げるだけだ。こういう時、重心のかけ方みたいなものも現場で少し覚えたんだなと思う。高い足場そのものは苦手だったけど、どこに乗れば滑りにくいかとか、変なところに体重をかけると危ないとか、そのくらいは体が勝手にやる。


上まで行くと、風が気持ちよかった。


見渡してみても、海しかない。


右を見ても、左を見ても、青い水面が広がっている。遠くに陸が見えるわけでもない。船もない。煙もない。人の気配なんか当然ない。


ただ海だけがある。


分かっていたことなのに、あらためて見ると少し息が詰まった。


本当に、ここしかないんだなと思った。


誰かが来るのを待つ、という考えが頭をかすめて、すぐに消えた。待っていたって仕方ない。待つだけで水が増えるわけじゃないし、魚が釣れるわけでもない。そういうのは、もう何となく体が知っている。


俺はその場に座って、持ってきた木の実をひとつ齧った。


固くて、甘くもない。口の中の水分を少し持っていかれる。けど腹には入る。


風は気持ちよかった。空も高い。こうしてるだけなら、ひどく静かな場所だった。


前なら、この静かさが嫌だったと思う。耳鳴りみたいに、ずっと何かが足りない感じがしていた。今は少し違う。嫌じゃない、とはまだ言えないけど、前ほど落ち着かなくはない。


たぶん、やることがあるからだ。


戻ったら貝を焼く。黒い部品みたいなものも洗ってみる。水の位置も少し変えたい。干している魚も裏返した方がいいかもしれない。


考えることが、全部ここで生きるためのことになっている。


その事実に気づいて、少しだけ気分が沈んだ。


慣れてるんだな、と思った。


嫌でも、慣れる。


そうやって人は何にでも慣れていくんだろうか。もっと嫌なものにも、もっとひどい場所にも、こうして手順を作って、昨日よりましにして、少しだけ静かに生きるようになるんだろうか。


分からない。


分からないけど、少なくとも今の俺はそうだった。


高いところから降りて、また浜辺を歩いて戻る。


途中で、小さい魚が跳ねるのが見えた。水の浅いところに入ってみたら、逃げられた。貝は少し拾えた。黒い丸い部品は思ったより重くて、途中で捨てようか迷ったけど、結局持ち帰った。


寝る場所の近くまで戻ってくると、ほっとした。


それが一番嫌だったし、一番正直な気持ちでもあった。見慣れた木。見慣れた火の跡。並んだ容器。干した魚。どれもみっともない。人に見せられるようなものじゃない。


なのに、見た瞬間に肩の力が抜ける。


戻ってきた、と思ってしまう。


俺は拾ってきた貝を下ろして、黒い丸い部品も脇へ置いた。海水で軽く洗うと、つるつるした面に自分の顔がぼんやり映った。ひどい顔だった。焼けて、痩せて、髭も伸びている。誰だよこれ、と思って少しだけ笑う。


笑ったあとで、何がそんなに可笑しかったのか分からなくなった。


その日の夕方、火の前で貝を焼きながら、俺は朝より少しだけ広く見える海を眺めていた。


別の島は見えなかった。船もない。何か大きな発見があったわけでもない。拾った変な部品ひとつが増えただけだ。


それでも、行って戻ってこられた。


それが妙に大きかった。


この島の中なら、少しずつ見て回れるかもしれない。もっと先まで行けるかもしれない。近くの海がどうなってるのかも、そのうち少しずつ分かるかもしれない。


大した希望じゃない。


でも、ゼロじゃなかった。


火が揺れる。貝の口が少し開く。俺は枝でつついて、焼けたやつから順に食った。


塩気が強い。けど悪くない。


食いながら、ふと明日のことを考える。明日はもう少し別の方向へ行ってみようか。岩場じゃなく、反対側の浜辺の先でもいい。あるいは、少し沖から見たら何か分かるんだろうか。


そこまで考えて、俺は手を止めた。


沖。


その言葉だけが、妙に頭に残った

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