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IRIS-Log-Archive  作者: IRIS
無人島漂流記_IRIS.log

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余り

島に来てから、最初に覚えた言葉は足りない、だったと思う。


水が足りない。

食いものが足りない。

火が足りない。

眠りも、体力も、考える余裕も、何もかも足りない。


足りないものを数えるだけで一日が終わるような日が、しばらく続いていた。


だから、最初に“余り”を見た時、俺はそれが何なのか一瞬分からなかった。


朝だった。


いつものように水の様子を見に行って、容器をひとつずつ持ち上げる。前の日はよく晴れていたからか、思っていたより溜まっていた。ひとつ、ふたつ、みっつ。全部を合わせても大した量じゃない。ペットボトル一本分にも届かないかもしれない。


それでも、昨日の夜に飲むのを少し我慢した分が、まだ残っていた。


俺はしばらくそれを見ていた。


昨日の残りが、今日まで残ってる。


当たり前みたいなことなのに、その当たり前がここでは妙に珍しかった。


前までは、手に入れたものはその日のうちにほとんど消えていた。水も、魚も、木の実も、全部“今”のために使い切るしかなかった。明日の分を考える余裕なんて無かった。


けどその日は、今日の水を前にしても、昨日の水がまだある。


俺は思わず、もう一度数えた。別に増えるわけでもないのに、妙に信じられなかった。


水を少し飲む。喉を通る感触が、前より慌ただしくない。足りなくなる前に飲む水って、こんな感じなんだなと思った。


変なことに気づいてしまった気分だった。


その日、魚は釣れなかった。


でも、焦りは前ほど強くなかった。前日に干しておいたやつがある。固くて、うまいとも言えないそれを齧りながら、俺は海を眺めた。釣れない日は嫌だ。嫌だけど、それで全部が終わるわけじゃない。


その違いは大きかった。


木の実も拾った。貝も少し集めた。水の装置の位置をひとつ変えた。寝る場所の横に、魚を干すための枝をもう一本渡した。結ぶ。引く。緩まない。そこだけは相変わらず、手が勝手にやる。


こういう細かいことをしている時、たまに現場のことを思い出した。


大工の人が、手を抜く場所を間違えるな、って言っていた。別に俺に何か教えようとして言ったわけじゃなくて、たぶん別の職人に向けた愚痴だった。でもその言い方だけは妙に残っている。


手を抜く場所を間違えるな。


今なら少し分かる気がした。


結ぶところを雑にすると、夜にほどける。火の周りを適当にすると、朝には全部消えてる。水を移す時に容器を倒したら、その日の気分が終わる。ひとつひとつは小さいのに、雑にした分だけ後で面倒になる。


そんな面倒なことを、今の俺はちゃんと避けようとしていた。


我ながら笑える。


昼頃、雲が出てきた。


最初は薄かったのに、気づけば空の青がだんだん狭くなっていた。風の向きも少し変わる。嫌な感じだった。雨かもしれない、と思った時には、もう体が先に動いていた。


干していた魚を下ろす。木の実をまとめる。寝る場所の上に渡した枝と葉を押さえ直す。水の容器をずらす。火種を濡れないところへ寄せる。


最初に来た頃の俺なら、雨だ、で終わっていたと思う。濡れるのが嫌だな、寒いのは嫌だな、そのくらいだったはずだ。


今は違う。


雨そのものより、雨で駄目になるものの方が先に頭に浮かぶ。


それが少し嫌だったし、少しだけ誇らしくもあった。


降り出した雨は、思ったより強かった。


葉の上を叩く音がいくつも重なって、島全体がざわざわ鳴っているみたいだった。寝る場所に潜り込んで、俺は膝を抱えた。完璧じゃない。隙間から風も入るし、端の方は普通に濡れる。けど、何も無かった時とは比べものにならなかった。


葉っぱの先からぽたぽた落ちる水を見ながら、俺は小さく息を吐いた。


これでも、ましだ。


雨はしばらく続いた。


その間、俺は外へ出られなかった。火も弱い。魚も釣れない。やることが減ると、嫌でも考える時間が増える。波の音と雨音を聞きながら、ぼんやりと天井代わりの葉を見ていた。


このまま何日ここにいるんだろう、と考えた。


三日とか四日じゃないのは、もう分かっていた。助けが来る気配もない。遠くに船ひとつ見えない。偶然とか勘違いで片づけるには、景色がちゃんと続きすぎていた。


じゃあ、何日だ。


一週間か。

二週間か。

一か月か。


そこまで考えて、やめた。


長く考えると、急に全部が嫌になる。今まで積んだものが、全部“長くいるための準備”みたいに見えてしまう。それは何となく認めたくなかった。


だから俺は、外の雨を見ながら、明日のことだけ考えることにした。


雨が上がったら水が増える。

魚は釣れなくても、今日は少し残りがある。

火は弱いけど消えてはいない。

寝る場所も、とりあえず崩れていない。


それだけあれば、明日は何とかなるかもしれない。


そうやってやり過ごしているうちに、いつの間にか少し眠っていた。


目が覚めた時、雨は止んでいた。


外に出ると、空気がまるごと洗われたみたいに澄んでいた。葉の先に水滴が残っている。地面はぬかるんでいるのに、嫌な感じはあまりしなかった。むしろ、島全体が少し柔らかくなったみたいに見えた。


水の容器を見る。


増えていた。


思わず、笑った。


大笑いするほどじゃない。ただ、口の端が勝手に上がった。雨なんて面倒なだけだと思っていたのに、こうして水になると、急にありがたく見える。単純だなと思う。


俺は容器をひとつずつ運んだ。置き直して、こぼさないように水を移す。手間はかかる。でも嫌じゃなかった。こういう手間は、前よりちゃんと意味がある。


その日の夕方、小さい魚が一匹と、貝がいくつか取れた。


たくさんじゃない。十分でもない。けど、昨日の分の残りと合わせれば足りる。そう思った時、また変な感覚がした。


足りる。


この島で、その言葉を自分に使う日が来るとは思わなかった。


火の前で魚を焼きながら、俺は横に置いた干し魚と、少し多めに溜まった水を見た。魚を食う。貝も食う。腹が一杯になるわけじゃない。でも今日は、全部を今この場で消してしまわなくていい。


手元に、少しだけ余りがある。


余っているというほど立派な量じゃない。誰かが見たら笑うかもしれない。こんなもので何を大げさに、と思うかもしれない。


けど俺にとっては、十分すぎるくらい大きかった。


足りないものしかなかった場所で、初めて少しだけ余った。


それだけで、島の見え方が少し変わる。


ここはまだ全然好きじゃない。暑いし、汚いし、しんどいし、毎日同じことばかりだ。帰れるなら帰りたいに決まってる。


それでも。


火の向こうに並んだ干し魚と、水の入った容器を見ていると、ここがただの災難だけじゃなくなっていく気がした。


たぶん、こうやって人は慣れていくんだろうと思った。


嫌だと思いながら。

こんなの嫌だと何度も思いながら。

それでも、明日のためのものを並べて、少しずつその場所を自分の生活の形にしていく。


火が小さく揺れていた。


俺はその明かりの中で、手元の魚をもう一口齧った。固くて、少ししょっぱくて、でもちゃんと食いものだった。


明日の分がある。


その事実だけで、その夜は少しだけ静かだった。

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