火と腹
水ができると分かってから、俺は同じようなものをいくつか増やした。
最初のひとつは、ほとんど奇跡みたいなものだった。ちゃんと覚えていたわけでもないし、やり方が合っているのかも分からない。ただ、出た。なら増やせばいい。そう思った。
使えそうな容器は多くなかったけど、漂着物を漁れば何かしらは見つかった。割れたプラスチックのかけらとか、変な形の透明な蓋みたいなやつとか、正体の分からない器みたいなものとか。昨日までならゴミにしか見えなかったものが、今日は少し違って見える。
役に立つかもしれない。
それだけで、拾う理由には十分だった。
水ができるまでの間、俺は別のことも考えなきゃいけなかった。腹だ。喉ほどじゃないにせよ、空腹もじわじわと嫌な形で効いてくる。何も食わないまま動いていると、手足の先から力が抜けていく感じがする。
木の実みたいなものは、見つけたら少しずつ食べた。最初は怖かったから本当に少しだけだった。しばらく様子を見て、腹を壊さなければもう少し食う。そんなみみっちいことを何度も繰り返した。情けないと思う余裕も、もうあまり無かった。
貝も拾った。
波打ち際の岩に張り付いているやつや、砂の浅いところに埋まっているやつを見つけるたびに集めた。生のまま口に入れるのはさすがに嫌で、何とか火を起こせないかと考えた。
火。
また、あの職人の声が頭をよぎる。
遭難したらまず水と火。
水は何とかなり始めた。じゃあ次は火だろう。分かってる。分かってるけど、火なんて普段はボタンかライターで点くものだった。木を擦って火を起こすなんて、サバイバル番組の中の話でしかない。
けど、やるしかない。
乾いていそうな枝を集めた。葉っぱも集めた。細いもの、少し太いもの、折ると軽い音がするものを選んだつもりだった。こすればどうにかなるかと思ったけど、全然ならなかった。手が痛いだけだった。木の粉みたいなものは出るのに、そこから先に進まない。
腹が立って、枝を投げた。
投げたあとで、無駄にするなよと思ってまた拾った。
その繰り返しだった。
日が落ちる前に諦めて、生ぬるい貝をひとつだけ無理やり飲み込んだ。うまいわけがない。塩っぽくて、生臭くて、歯の裏に変な感触が残った。吐きそうになりながら飲み込んで、しばらく膝を抱えていた。
夜になると寒い。昼間の熱が嘘みたいに抜けて、風がじわじわ体温を持っていく。火があれば違うんだろうなと思うたび、余計に悔しくなる。
三日目も、四日目も、似たようなものだった。
朝、溜まった水を確かめる。少し飲む。材料を探す。木の実を食う。貝を拾う。火を試す。うまくいかない。日が暮れる。寒い。眠れない。少し眠る。起きる。
その繰り返しの中で、棒にツルを結んだだけのものを作った。
釣り、のつもりだった。
現場で覚えた結び方だけは、考えるより先に手が動いた。そこだけ妙に自分でも可笑しかった。火はまるで駄目なのに、結ぶ時だけ手つきが少しだけ迷わない。
けど、結べるから釣れるわけでもない。
浅瀬に垂らしてみても何も起こらない。場所を変えてみる。餌になりそうな貝の欠片をつけてみる。少し待つ。何も起こらない。上げる。餌だけなくなってる気がする。気のせいかもしれない。
またやる。
そんなことを何度もやった。
五日目くらいには、釣りをしているのか、海に馬鹿にされてるのか分からなくなってきた。波はいつも同じ顔をしていて、俺だけが勝手に腹を立てていた。
それでもやめなかったのは、他にやることがなかったからだ。木の実は毎日同じだけ見つかるわけじゃない。貝もそうだ。何より、魚が取れたら少し違う気がした。何が違うのかは分からないけど、少しだけ“生きてる側”に寄れる気がした。
六日目の夕方、火がついた。
いや、火というほど立派なものじゃなかった。小さく、赤く、情けないくらい頼りない種みたいなものだった。何度も失敗して、腕も指も痛くて、半分意地になって枝を擦っていたら、乾いた葉の端がじわっと黒くなった。
息を止めた。
怖くて、逆に動けなかった。
それから思い出したように、そっと息を吹きかける。消えるな、消えるなと心の中で何度も言いながら、乾いた細いものを寄せる。赤が少し広がる。煙が出る。咳き込む。涙が出る。けど、今度は消えなかった。
火だった。
ちゃんとした火だった。
俺はしばらくしゃがみ込んで、それを見ていた。別に感動的な音楽が流れるわけでもないし、腹が一杯になるわけでもない。ただ目の前で、小さな火が揺れていた。たったそれだけなのに、周りの景色が少しだけ違って見えた。
その日の貝は、少しだけましな味がした。
焼けているのかも怪しいくらいだったけど、生よりはずっとよかった。温かいものが腹に入ると、それだけで人間は少し黙るんだなと思った。
それから一日か二日して、ようやく魚が釣れた。
一週間くらい経っていたと思う。
大した大きさじゃなかった。手のひらより少し長いくらいで、細くて、暴れる力も弱かった。けど、棒を引き上げた時、先で確かに銀っぽいものが跳ねていた。
俺は一瞬、何が起きたのか分からなかった。
それから、慌てて棒を引いた。途中で外れるんじゃないかと思って、手が変に震えた。岸まで引きずって、砂の上に落ちたそれは、ばちばちと情けなく跳ねた。
魚だった。
ちゃんと魚だった。
俺はしばらく黙ってそれを見ていた。嬉しいとか、やったとか、そういうのとは少し違った。ただ、手の届くところに食えるものがある、という事実がうまく頭に入ってこなかった。
食える。
明日も、少しは生きるかもしれない。
その夜、俺はその魚を焼いて食った。焼き方なんてまともに分からないから、焦げたところもあったし、生っぽいところも少し残っていた。でもうまかった。たぶん、今まで食った魚の中で一番うまかった。
腹が満ちたわけじゃない。全然足りない。
それでも、ゼロじゃなかった。
水がゼロじゃなくなって、火がゼロじゃなくなって、食いものもゼロじゃなくなった。
その夜、火の前で膝を抱えながら、俺はようやく少しだけ思った。
もしかしたら俺は、ここでしばらく生きるのかもしれない。




