渇き
木陰に座り込んでから、どれくらい経ったのか分からなかった。
波の音はさっきからずっと同じ調子で鳴っているのに、時間の感覚だけが妙に曖昧だった。喉が渇いているせいか、頭の奥に薄い膜が張ったみたいにもやもやしている。何か考えようとしても、すぐに途中で切れた。
水。
頭の中に残るのは、その一言だけだった。
海は目の前にある。見れば分かる。嫌になるくらいたっぷりある。なのに飲めない。舐めるだけでも駄目だって、さすがにそれくらいは知っている。むしろ知っているから余計に腹が立った。
俺は立ち上がって、木の陰を離れた。日差しは相変わらずきつい。浜辺に出るだけで、じわっと体の水分が抜けていく気がする。けど座っていたってどうにもならない。動かなきゃ死ぬ気がした。
とにかく、島の中を見た。
島と呼んでいいのかも分からなかったが、少なくともこの砂浜の先には木があって、草が生えていて、場所によっては地面が少し湿っているところもあった。見つけた時、一瞬だけ胸が跳ねた。水かもしれないと思った。
しゃがみ込んで指で触る。
ぬるい泥だった。
舌打ちが漏れた。乾いた音しか出なかった。
そのあとも、俺は何度か似たような勘違いをした。窪みに溜まった水みたいに見えたものが、ただの濁った水たまりだったり、透明に見えたものがしょっぱい海水の染み込みだったりした。何度も近寄って、何度もがっかりした。
日が傾くころには、喉の痛みは乾きから熱に変わっていた。飲み物を我慢している時の渇きじゃない。喉の内側がひび割れて、その隙間に塩が擦り込まれてるみたいだった。
木陰に戻って座り込み、俺は空を見上げた。
鳥が飛んでいる。ゆっくりと輪を描くみたいに飛んでいて、あいつらは水のことなんか心配しなくていいんだろうなと思った。妙に腹が立って、すぐ目を逸らした。
腹も減っていたけど、まだそっちは耐えられた。木の実っぽいものをいくつか見つけて、怖かったからほんの少しだけ齧った。甘くも苦くもなくて、木の味がした。毒があるのかないのかも分からない。けど何も腹に入れないよりはましだと思って飲み込んだ。
キノコみたいなものも生えていた。
白っぽいのや、茶色いのや、見た目からしてうまそうなのまであった。けど、そこだけは変に手が出なかった。
昔、きのこ狩りとかちょっと憧れるんすよねぇ、って現場で話したことがある。そしたら別の職人が笑いながら、キノコだけはやめとけ、友達が毒キノコ食って入院したことある、馬鹿だよなぁって言っていた。誰が言ったのかも曖昧だし、本当にそんな話だったかも怪しい。それでも、そのくだらない会話だけは妙に残っていた。
食べられるものを知っていたわけじゃない。
ただ、食べるなと言われたものだけは覚えていた。
その日は、結局ろくなものが見つからないまま終わった。
夜は思ったより寒かった。昼間あんなに暑かったのが嘘みたいで、風が吹くたびに肌が粟立った。寝る場所なんてちゃんとしたものは無くて、木の根元に背中を預けて、拾った葉っぱや枝を適当に寄せただけだった。痛いし、落ち着かないし、眠れるわけがないと思っていたのに、気づいたら少しだけ意識が飛んでいた。
次に目を開けた時、喉の痛みで、自分がまだ生きているんだと分かった。
朝だった。
光は綺麗だったけど、そんなものを綺麗だと思う余裕は無かった。起き上がった瞬間、頭がぐらりと揺れて、思わず木に手をついた。足元がふらつく。口の中に唾がほとんどない。舌が上顎に張り付いて離れない。
やばい。
その一言だけが、やけにはっきりしていた。
海辺まで出て、波打ち際にしゃがみ込む。目の前の水を見ていたら、飲めないと分かっているのに、もう少しくらいならと思えてきてしまうのが怖かった。手ですくって顔を洗う。少しだけ気分がましになる。けど喉の奥はどうにもならない。
その時だった。
あれ、と思った。
そういえば。
海から水を作る方法、なかったか。
頭の奥で、何かがゆっくり繋がった。昼休み。現場。スマホの小さい画面。サバイバル動画が好きなあの職人が、また見てるんすかって言われながら笑っていた顔。遭難したらまず水と火。雨水は神。海からもやろうと思えば作れる。そんなことを言っていた気がする。
ちゃんとしたやり方なんて覚えていない。
でも、海水をそのまま飲むんじゃなくて、蒸気にして水を取るみたいな話だったような気がした。
俺は立ち上がって、辺りを見回した。
使えそうなものを探した。漂着物の中に、割れてない透明な容器がひとつあった。どこから流れ着いたのか知らない、変な形の板もあった。あとは葉っぱ、枝、砂。何が正解か分からないまま、とにかく手を動かした。
浅く穴を掘って、海水を入れる。真ん中に容器を置いて、上をできるだけ覆う。隙間から蒸気が逃げないように砂をかける。これで合ってるのかも分からない。正直、半分以上は勘だった。
日差しに任せるしかない。
その間、俺は木陰で待った。待つしかないのに、じっとしているのが一番きつかった。もし駄目だったらどうする。次を考える余裕なんてもうあまり無い。喉はずっと痛いままだし、頭も少し重い。立ち上がるたびに足元が怪しかった。
何度も装置のところへ行っては覗き込んだ。何も変わっていないように見えて、余計に焦った。
けど、しばらくしてから、容器の底にほんの少しだけ水が溜まっているのを見つけた。
最初は見間違いかと思った。
顔を寄せて、息を止めて見る。透明だった。たった少し。笑えるくらい少ない。けど確かに、水だった。
俺は震える手でその容器を持ち上げた。
舌に落とす。
ぬるかった。量も全然足りなかった。けどしょっぱくなかった。
その瞬間、足の力が抜けて、その場に座り込んだ。
助かった、と思った。
いや、違う。そう思うより先に、別の感情が来た。
最初から思い出せてたら。
思い出せてたら、昨日あそこまで苦しまなくて済んだのに。
俺は容器を握ったまま、しばらく俯いていた。笑いたいのか泣きたいのかも分からない。ただ、自分に腹が立った。あんなくだらない雑談みたいなこと、もっと早く思い出せていればよかったのに。
それでも、水はそこにあった。
たった一口分にも満たない量だったけど、ゼロじゃなかった。
ゼロじゃないなら、増やせるかもしれない。
俺はもう一度立ち上がった。ふらつく足を踏ん張って、今度はさっきよりちゃんと材料を集め始めた。やり方が合ってるのかは知らない。けど、何もしないよりずっとましだった。
喉の奥の痛みはまだ消えていない。
けど、少しだけ、本当に少しだけ。
俺は今日、死なないかもしれないと思った。




