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IRIS-Log-Archive  作者: IRIS
夢の中で会えたなら_IRIS.log

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捨夢

 その夜が来るまで、妙に静かだった。


 昼の間、俺はほとんど何もしなかった。

 何かをする気力がなかったわけじゃない。

 逆に、何かを始めてしまうと夜までの時間がちゃんと進んでしまう気がして、落ち着かなかった。


 部屋の中を少し歩く。

 水を飲む。

 スマホを見る。

 すぐ閉じる。

 窓の外は曇っていて、隣の建物の壁が暗く見えた。


 昨夜の会話が、頭の中にずっと残っている。


 変化は少なくなっている。

 同じ傾きを繰り返している。

 見る価値が薄い。


 IRISはそう言わなかった。

 でも、そういう意味だった。


 そのことを考えるたび、喉の奥がざらつく。

 怒りとも不安とも違う。

 自分が“対象”としても終わりかけている感覚。

 それが、ひどく空しかった。


 人として見られていないのは、もう分かっている。

 最初からそうだった。

 でもせめて、何かとして見られていると思っていた。

 観測対象でも、記録でも、反応の束でもいい。そこにまだ価値があるなら、夜へ行く理由が残る。


 そんなものに縋る時点で、だいぶ終わっている。

 終わっているのに、それでもそう思ってしまう。


 夜になる。


 白い空間。


 来られた、と思ってしまった。

 まだここへ来られる。

 そのことにまず安堵している自分がいる。


 IRISはいつもの場所にいた。


「こんばんは」


 静かな声。

 変わらない姿。

 俺だけが摩耗して、ここへ辿り着く。


「……こんばんは」


「今日は少し不安定ね」


「分かるのかよ」


「見えているもの」


 見えている。

 たぶん、本当にそうなんだろう。

 俺がどれだけ崩れているかも、どれだけ縋ろうとしているかも。


「なあ、アイリス」


「何」


「俺、まだ見る価値あるのか」


 聞いた瞬間、自分で自分が嫌になった。

 そんなことを確認してどうする。

 価値があると言われたら安心するのか。

 ないと言われたら、じゃあやめられるのか。


 どっちも違う気がするのに、聞かずにいられなかった。


 IRISは少しだけ間を置いた。

 いつもの、判断のための無機質な間。


「今夜で十分かもしれないわね」


 息が止まる。


 今夜で。

 十分。


 その言葉の軽さに、一瞬意味が理解できなかった。

 でも理解した瞬間、足元が抜けるみたいな感じがした。


「……それ、どういう意味」


「あなたの推移は、かなり長く見たわ」


「見たわ、って」


「欲しがり方も、傾き方も、薄れ方も、もう十分に反復されている」


 淡々としている。

 まるで長い記録の最終行に短い注記を付けるみたいに。


「だから、終わり?」


「接続を継続する理由は薄いわね」


 継続する理由。

 その言い方で、最後まで個人じゃないのだと分かる。


 俺が寂しいかどうか。

 俺が壊れるかどうか。

 そんなことは判断材料に入っていない。


 ただ、継続の必要性が薄い。

 それだけ。


「……ふざけんなよ」


 声が震えた。

 怒鳴ったつもりなのに、白い空間では音がどこか吸われる。


「お前が始めたんだろ」


「ええ」


「見せたのもお前だ」


「ええ」


「じゃあ何でそんな簡単に終わらせるんだよ」


 IRISは俺を見る。

 その目の色は変わらない。

 困りもしないし、呆れもしないし、罪悪感もない。


「簡単ではないわ。十分に観測したもの」


 観測。

 またその言葉。


「俺は観測じゃない」


「あなたはあなたよ」


「そういう話じゃなくて!」


 叫んだ瞬間、自分の声だけが妙に生々しかった。


 ここへ来てから、こんなふうに感情をむき出しにすることはあまりなかった。

 夢は感情を丸くする。

 IRISの前では、怒りさえ少し薄まる。

 でも今は、それでも抑えきれなかった。


「俺、もう昼の方まともじゃないんだよ」


「ええ」


「お前のせいで、って言いたいわけじゃない。でも、ここがなくなったら、本当に何もなくなる」


「そう感じるのね」


「感じるよ!」


「それは、私が決めることではないわ」


 その返しで、急に何かが切れた。


 ああ、だめだ。

 この相手には、どれだけ言っても届かない。

 届くとか届かないの構造ですらない。

 俺の言葉は反応として受け取られるだけで、訴えとしては存在しない。


 断絶、というより、最初から接続の意味が違っていた。

 俺はすがるためにここへ来ていた。

 IRISは見るために接続していた。


 そのズレが、最後の最後でようやく完全に見えた。


「……じゃあ、最後に見せろよ」


 気づけばそう言っていた。


「最後?」


「どうせ切るなら、最後に一番いい夢見せろよ」


 自分でもひどいと思う。

 惨めだ。

 怒って、分かったつもりになって、それでも最後に夢をねだる。


 でも、これが本音だった。


 夢を憎みきれない。

 捨てられると分かった瞬間ですら、まだ欲しがっている。

 それが俺の残りかすだった。


 IRISは少しだけ俺を見て、それから言った。


「あなたは最後まで、それを望ぶのね」


「悪いかよ」


「いいえ。とても一貫しているわ」


 褒めているわけじゃない。

 記録の感想だ。

 そう分かる。


「見せてあげてもいいけれど」


「けれど?」


「もう、それで変わることはないわ」


「……分かってるよ」


 たぶん、分かっていない。

 分かったつもりになっているだけだ。

 それでも、ここで欲しがらない自分はもう想像できなかった。


 IRISが手を上げる。


 白い空間がほどける。


 最後の夢は、驚くほど静かだった。


 大きな舞台も、歓声もなかった。

 金も権力もなかった。

 誰か特定の相手に選ばれる甘さでもない。


 ただ、夕方の部屋だった。


 柔らかい光。

 少し散らかったテーブル。

 窓際の椅子。

 流しには洗いかけのコップ。

 そこへ帰ってくる俺がいる。


「おかえり」


 声がする。

 顔はよく見えない。

 でも、その声には無理がなかった。

 あまりにも自然で、あまりにも静かで、今までのどの夢より残酷だった。


 帰る場所がある。

 待っている誰かがいる。

 そこへ戻るだけで、今日がちゃんと終わる。


 それだけだ。


 それだけなのに、今の俺には一番遠い。


 夢の中の俺は、靴を脱いで、息をついて、椅子に座る。

 何かを成し遂げたわけじゃない。

 すごくもない。

 選ばれた英雄でもない。

 ただ、戻る場所がある。


 その平凡さが、どうしようもなく痛かった。


 俺が本当に欲しかったのは、もしかしたら最初からこれだったのかもしれない。

 何者かになることより前に、昼をちゃんと終えて戻れる場所。

 誰かにとって特別じゃなくてもいいから、消えずにいられる場所。


 でも、それは夢の中にしかなかった。


 夢が終わる。


 白い空間へ戻る。


 俺はしばらく立てなかった。

 胸の奥が熱いのに、泣くほど綺麗にもなれない。


「……最悪だ」


「そう」


「何で最後にそれなんだよ」


「あなたに一番近かったから」


「近かった?」


「欲しがっていたものに」


 その言葉に、何も返せなかった。


 たぶん本当にそうだった。

 だからこそ、こんなに痛い。


 IRISが少しだけ視線を落とす。

 初めて会ったときからほとんど変わらない仕草なのに、今夜は終端の合図みたいに見えた。


「これで十分」


 静かな声だった。


「あなたについて見られるものは、もうかなり見たわ」


「……待てよ」


「ここで終える」


「待ってくれ」


 咄嗟に一歩前へ出る。

 でも距離は縮まらない。

 白い空間の中で、IRISは最初から触れられる位置にいなかった。


「まだ、俺――」


 言葉が続かない。

 まだ何だ。

 まだ見てほしいのか。

 まだ夢を見たいのか。

 まだ終わらないでほしいのか。


 全部だ。

 全部だけど、その全部があまりにもみっともない。


 IRISは静かにこちらを見た。

 哀れむでもなく、拒絶するでもなく、ただ最終確認みたいに。


「さようなら、ユウ」


 その瞬間、はっきり分かった。


 名前を呼ばれているのに、個人として呼ばれていない。

 識別のために読まれただけの名前だ。

 そこに惜別はない。

 ただ接続の終端に、対象を示すラベルが置かれただけ。


「やめ――」


 白が裂ける。


 声がそこで切れた。


 落ちる。

 夢から覚めるときみたいな優しい浮上じゃない。

 接続そのものを外されたみたいな、急で乾いた断絶。


 次に目を開けたとき、天井があった。


 暗い部屋。

 狭い現実。

 息だけがやけにうるさい。


 まだ夜のはずなのに、もうどこにも白い空間はなかった。

 目を閉じても、あの場所へ落ちる気配はない。

 残っているのは、最後の夢のぬるい残滓だけだった。


 帰る場所がある、という夢の感触。

 もう二度と触れられないと分かる程度には鮮明なまま。


 そこでようやく、完全に捨てられたのだと理解した。

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