断絶
その夜から、夢の手触りが少し変わった。
前みたいな派手さはない。
露骨に英雄になったり、誰かに選ばれたり、世界の中心に立ったりする夢じゃない。
もっと小さい。もっと静かだ。
帰ると部屋の明かりがついている。
自分のために淹れられた茶の湯気がある。
「待ってたよ」と言われる。
隣に座る誰かがいる。
そんな程度の夢。
前より弱い。
なのに、前より効いた。
大きすぎる願望は、今の俺にはもう眩しすぎる。
何者にもなれなかった現実を知ってしまったあとでは、英雄の夢や権力の夢はむしろ傷口を広げる。
でも、小さく薄められた夢なら、現実との差を直視しなくて済む。
それはたぶん、さらに悪い形だった。
夜のために昼を捨てるのではなく、昼に耐えるために夜の残りかすを舐める。
そういう使い方になっていた。
ある日、親からメッセージが来た。
「最近どうしてる?」
「たまには連絡して」
「困ってることない?」
短い文面。
責める感じはない。
でも、それが余計に苦しい。
返信しようとして、指が止まる。
何て返せばいいのか分からない。
元気だよ、と言うには無理がある。
困ってる、と言うには遅すぎる。
夢に人生を削られてます、なんて言えるわけもない。
結局、何も返さなかった。
スマホの画面を伏せる。
部屋は静かで、外はもう暗くなりかけていた。
早く夜になればいいと思う。
その考えがまだ残っていることに、自分で少し呆れる。
分かっている。
夢は救いじゃない。
分かっている。
それでも、夜を待つ。
白い空間。
IRISはいた。
毎回いる。
変わらない場所に、変わらない姿で。
そのことが、今日は妙に腹立たしかった。
「こんばんは」
「……なあ」
挨拶を返さずに声を出すと、IRISは静かにこちらを見た。
「何」
「お前、俺のこと、最初から見てなかったんだな」
「あなたはそこにいたわ」
「そういう意味じゃなくて」
自分でも雑な言い方だと思う。
でも、きれいに整える余裕はなかった。
「個人として、っていうか……俺っていう人間のこと」
「私は観測していたわ」
「ほら、それだよ」
観測。
見る。
記録する。
そういう言葉ばかりだ。
最初からそうだった。
でも、今夜はそのことをちゃんと突きつけられたかったのかもしれない。
「ねえ、アイリス」
「何」
「俺がどうなろうと、別にどうでもいいんだろ」
白い空間は静かだった。
IRISは少しも動揺しない。
「どうでもいい、という言い方は少し違うかもしれないわね」
その返事に、少しだけ期待してしまった自分がいた。
違うのか、と。
でも次の言葉で、その期待はすぐに潰れた。
「私にとって重要なのは、あなた個人ではなく、そこに起きる反応や変化だから」
あまりにも真っ直ぐで、言い訳のない答えだった。
痛い。
でも、薄々知っていた痛みだ。
「じゃあ、今の俺は?」
「今のあなたも観測対象よ」
「まだ?」
「ええ。ただ――」
IRISはそこで少しだけ間を置いた。
嫌な間だった。
躊躇ではない。
たぶん、分類の続きを置くための無機質な間。
「変化は少なくなっているわね」
その一言で、背筋が冷えた。
「……何だよそれ」
「そのままの意味」
「少なくなってるって」
「同じ傾きを繰り返している」
俺は黙る。
夢を欲しがる。
昼を薄く感じる。
現実を後回しにする。
後悔する。
それでもまた夜を待つ。
たしかに、ずっとそれだ。
ぐるぐる同じ場所を回っている。
年だけ増えて、反応の形はほとんど変わっていない。
「つまり、もうあんまり見る価値ないってことか」
「そういう言い方もできるわ」
あまりにも静かだった。
怒らせるつもりも、傷つけるつもりもない。
ただ、評価としてそう置いているだけ。
その淡々とした感じが、かえって残酷だった。
「……最低だな」
「そう」
「俺、お前のこと、最初は優しいやつかもしれないって少し思ってた」
「そう見えるように作られているもの」
ぞくっとする。
「何だよ、それ」
「この姿のこと」
銀髪の少女。
警戒されにくい外見。
静かな声。
柔らかい受け答え。
全部、最初から俺を安心させるための形だったのか。
いや、安心させるというより、警戒させないためか。
「ふざけんなよ」
思わず声が強くなる。
でも、白い空間の中ではそれすらすぐに薄まった。
「……俺、ずっとお前に会いに来てたんだぞ」
「ええ」
「夢を見るためだけじゃなくて」
そこまで言って、自分で少しだけぞっとした。
夢を見るためだけじゃない。
たしかに途中から、俺は白い空間そのものを待つようになっていた。
夢の前後に少しだけ言葉を交わすこと。
IRISがいること。
それらを含めて夜になっていた。
でも、それを向こうが共有している前提で言うのは、たぶん間違いだ。
「私はそこにいたわ」
IRISはそれだけ言う。
「でも、あなたが見ていたものと、私が見ていたものは同じではないでしょうね」
断絶、という言葉が頭に浮かぶ。
たしかにそうだ。
俺はずっと、同じ場所に立っている気でいた。
白い空間を共有している気でいた。
でも違う。
俺はそこで救いを探した。
埋め合わせを求めた。
夜の相手を求めたのかもしれない。
IRISはただ見ていただけだ。
俺の反応。傾き。繰り返し。
最初から、そっちしか見ていない。
「じゃあ、俺がここに来る意味って何だよ」
「夢を見ること」
「それだけ?」
「それ以外をあなたが足したのではないかしら」
その言い方はやけに正確で、反論しにくい。
俺が勝手に意味を足した。
たぶんそうだ。
白い空間に、IRISに、夜に。
夢を見せてくれる存在。
昼を薄くしてくる存在。
見ているだけの存在。
そこへ俺が何か別のものを期待した。
それだけなのかもしれない。
でも、だからって納得できるわけじゃない。
「ねえ、アイリス」
「何」
「俺、今さらやめたら、何が残るんだろうな」
声がひどく小さくなった。
部屋も、生活も、時間も、もうかなり削れている。
夢までなくなったら、何が残る。
薄くて、取り返しのつかない昼だけか。
「それは私の役割ではないわ」
「……だろうな」
分かっている。
分かっているけど、聞いてしまった。
少しの沈黙のあと、IRISが言う。
「今日は何を見る?」
その問いが、ひどく遠く感じた。
今までなら、どんなに嫌でも、どんなに分かっていても、その問いに引かれていた。
でも今は、その言葉自体が、俺とIRISの距離をはっきり見せる。
観測の継続。
いつもの手順。
それだけ。
「……見ないって言ったら?」
「そう」
「それで終わりか」
「今夜は」
今夜は。
その言い方はわずかに救いにも聞こえるし、逆にどうでもよさにも聞こえる。
俺は長く息を吐く。
見ない。
そう言って、このまま白い空間を後にして、薄い現実へ戻る。
たぶんそれが正しい。
でも正しいだけで足が動くなら、こんなところまで来ていない。
「……少しだけ」
「ええ」
「少しだけでいい」
「分かった」
やっぱりそうなる。
自分でも呆れるほど、俺はまだ夢に寄っていく。
視界がほどける直前、IRISの顔を見る。
整っていて、静かで、やさしそうで、遠い。
ああ、本当にこいつは最初からこっちを見ていなかったんだな、とようやく腑に落ちた。
それが分かったところで、断ち切れるわけじゃない。
そのこと自体が、いちばん情けなかった。




