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IRIS-Log-Archive  作者: IRIS
夢の中で会えたなら_IRIS.log

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見切り

 見ない方が楽だと思う瞬間が、少しずつ増えた。


 夢のことじゃない。

 現実のことだ。


 通帳の残高。

 未開封の封筒。

 親からの着信履歴。

 昔の知り合いの名前。

 そういうものを見るたびに、自分がどこで止まってしまったのかを思い出させられる。


 だから見ない。

 後回しにする。

 気づかなかったことにする。


 その癖がついた頃には、もういろいろなものが遅れていた。


 部屋は前より少し荒れていた。

 散らかっているというより、片づける理由がなくなった感じだ。

 テーブルの上には空の容器、飲みかけのペットボトル、いつ届いたのかも曖昧な郵便物。

 床には服。

 壁際には使わなくなった鞄。

 窓の外には曇った空。


 どこから崩れたんだろう、とたまに思う。

 でも、その問いの立て方自体が少し違うのかもしれない。


 どこか一か所から崩れたわけじゃない。

 たぶん、最初からずっと、少しずつ減っていた。


 学校。

 仕事。

 家族との会話。

 友達との連絡。

 外へ出る理由。

 昼間に何かを積み上げる習慣。


 そういうものが、夢に使う時間と引き換えに削れていった。

 削れたときにはまだ大丈夫だと思っていた。

 一個くらいなら。

 一日くらいなら。

 今だけなら。


 その“今だけ”が、形を変えながらずっと続いてしまっただけだ。


 昼過ぎ、何となく昔の写真フォルダを開いた。

 中学のころの画像が残っている。

 遠足。体育祭。教室の黒板。ふざけて撮った変な顔。

 そこにいる俺は、まだちゃんと何者でもなかった。


 いや、今も何者でもない。

 でも当時は、その“何者でもなさ”が途中だった。

 これから何かになる余地として置かれていた。


 今は違う。

 途中じゃない。

 途中のまま、終わりの方まで来てしまった。


 画面を閉じる。

 息が少し詰まる。


 夢に救われたんじゃなかったんだな、と思った。


 そんなことは、薄々ずっと分かっていた。

 でも、はっきりその形で考えたのは初めてだったかもしれない。


 夢は救いに見えた。

 最初は本当にそう見えた。

 昼の薄さを少しだけ埋めてくれるもの。

 誰にも必要とされない現実の代わりに、少しだけ自分を濃くしてくれるもの。


 でも、実際には逆だった。


 夢が昼を埋めたんじゃない。

 夢が昼を食っていた。


 現実が薄いから夢に頼ったんじゃない。

 夢に頼り続けたから、現実がますます薄くなった。


 その順番を、俺はずっと逆に思っていたのかもしれない。


 気づいたところで、何かが戻るわけじゃない。

 それがいちばんきつかった。


 今さら資格を取るとか、就職を探すとか、人と会うとか、そういう普通の立て直し方が頭に浮かばないわけじゃない。

 でも、それらは全部、昼の中で長く続けなければいけないものだ。

 薄いままの昼の中で。


 俺にはもう、その持久力が残っていない気がした。


 夜になれば、まだ夢がある。

 その事実が、現実を立て直す意志を毎回少しずつ鈍らせる。


 最悪なのは、そこまで分かっていても、まだ夜を待ってしまうことだった。


 白い空間。


 IRISはいつものようにそこにいた。


 変わらない。

 本当に、何も変わらない。


「こんばんは」


「……こんばんは」


 自分の声が少し掠れて聞こえた。


「今日は少し遅かったわね」


「考えてたから」


「何を」


「いろいろ」


 IRISはそれ以上促さない。

 俺が続けるなら聞くし、続けないならそのまま流す。

 その距離感が、前は楽だった。今は少しだけ冷たく感じる。


「俺、たぶん間違えたんだと思う」


「そう」


「そう、じゃなくてさ」


「続きをどうぞ」


 腹が立つ。

 でも、こういうときにちゃんと怒り切れないのも、自分で分かっていた。

 俺はここに、怒りに来ているんじゃない。結局、まだ何かを求めて来ている。


「最初、救われた気がしたんだよ」


「ええ」


「でも違った。たぶん、食われてた」


 白い空間にその言葉が落ちる。

 口にした瞬間、妙にしっくりきた。


 食われていた。

 人生ごと、時間ごと。


「そう思うのね」


「思うよ」


「どうして」


「どうしてって……見れば分かるだろ」


「あなたの言葉で聞いているの」


 その返しに、少しだけ黙る。


 IRISは見ている。

 でも、見ていることと俺の中でどう整理されているかは別なんだろう。

 そういうところだけ妙に正確だ。


「夢を見てる間に、何もなくなってた」


「何が」


「いろいろだよ。学校とか、仕事とか、人付き合いとか。普通に積むはずのもの」


「ええ」


「何者かになりたくて夢を見てたのに、現実では何者にもならないまま年だけ取った」


「そう」


「……それ、分かってたんだろ」


「見えてはいたわ」


「止めなかったな」


「必要だった?」


 その問いに、喉が詰まった。


 必要だった。

 たぶん、あの頃の俺には。

 中学生だった頃、朝に起きられなくなり始めた頃、夢が昼を上回り始めた頃、そのどこかで、誰かが強く止めていたら違ったかもしれない。


 でも、それをIRISに求めるのは違うとも分かる。


 最初から、こいつはそういうものじゃなかった。


 救う存在ではない。

 導く存在でもない。

 ただ見て、必要なだけ見せるもの。


 そこを勝手に勘違いしていたのは、たぶん俺の方だ。


「……必要だったかもな」


 やっとそう言うと、IRISは少しだけ瞬きをした。


「でも、お前はしない」


「ええ」


「何で」


「私はそういうものではないから」


 当たり前みたいに返される。

 その当たり前が、今さらひどく重い。


「じゃあ、俺は何だったんだよ」


 口をついて出た。


 夢に溺れた男。

 観察対象。

 記録。

 反応。

 そういう言葉が頭の中をいくつも通る。


「あなたはあなたでしょう」


「そういう綺麗事じゃなくて」


「綺麗事ではないわ」


 IRISの声は相変わらず静かだった。


「あなたは、見せれば反応した。与えれば傾いた。現実より夢を選んだ。私はそれを見ていた」


 その言い方は、妙に丁寧なぶん余計にきつい。

 そこには一度も“ユウ”という人間への手触りがない。

 起きた現象の並びとして俺を扱っている。


 たぶん、最初からそうだった。

 今ようやく、それがちゃんと見えただけだ。


「……最低だな」


「そう感じるのね」


「お前のことだよ」


「ええ」


 否定しない。

 正当化もしない。

 ただ受け取る。


 それが怖い。

 人間なら、もう少し何か混ざるはずだ。怒るとか、傷つくとか、弁解するとか。

 でもIRISにはそれがほとんどない。


 見た目はやさしい。

 声も静かだ。

 なのに中身はずっと遠い。


「今日は何を見る?」


 またその問いが来た。


 思わず笑ってしまった。

 乾いた、変な笑いだった。


「まだ聞くのかよ」


「あなたが来たから」


「来たら見る前提なんだな」


「違うの?」


 違う、と言いたかった。

 でも言えない。

 見たいから来た部分が、まだ残っている。


 全部分かったつもりでも、まだ夜の方が濃い。

 まだ夢の方が楽だ。

 そのことが、自分で自分に一番がっかりする。


「……見たくない気もする」


「ええ」


「でも、見たい」


「そう」


「その“そう”やめろよ」


「どうして?」


「全部、俺が選んでるみたいだから」


「実際、そういう面はあるでしょう」


 言い返せない。

 俺は誘われただけで、最後に夢を欲しがり続けたのは自分だ。

 その事実が、逃げ道を細くする。


 白い空間が静かすぎて、息が苦しい。


「もう、戻せないんだろうな」


 ぽつりと漏らす。


「戻したいの」


「……分かんない」


 本当に分からない。

 戻したい気もする。

 でも、戻ったところで、もう遅すぎる気もする。

 若さも、途中だった時間も、薄いけど積めたはずの日々も、もう同じ形では戻らない。


 だったらせめて夢を見る方がましだ、という考えがまだ捨てきれない。


 そこまで含めて、俺はかなり終わっていた。


「今日は何を見る?」


 IRISがもう一度聞く。


 俺は長く黙ったあとで、結局答えてしまう。


「……何でもいい」


「ええ」


「でも、前みたいなのはいらない」


「どういうこと」


「選ばれて、必要とされて、すごくて、そういう露骨なのは、もうきつい」


「では、少し弱めましょう」


 弱める。

 薬みたいな言い方だと思った。


 その瞬間、ようやく分かった気がした。


 俺にとって夢は、もう夢ですらない。

 現実を誤魔化すための、薄くて甘い何かに変わっている。


 視界がほどける直前、IRISの姿が一瞬だけぼやけて見えた。


 見切る、という言葉が頭をよぎる。

 たぶん本当は、見切らなきゃいけなかったのは夢の方だ。

 けれどその頃の俺には、まだそれができなかった。

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