残滓
気づいたら、おっさんになっていた。
そう書くと雑すぎるけど、実感としてはそれに近い。
何年あったのか、どこで区切ればいいのか、自分でもうまく分からない。
十代の終わりがどうだったか、二十代の最初に何をしていたか、思い出そうとすると霧がかかったみたいに輪郭が崩れる。
いくつかのことは覚えている。
中学をちゃんと卒業したこと。
そのあと、どこかの高校へ行ったような気もするし、途中から曖昧になった気もすること。
働いたことがあったこと。
すぐ辞めた仕事もあれば、少しだけ続いたものもあったこと。
部屋を借りたこと。
実家を出たり戻ったりしたこと。
親と気まずくなった時期があったこと。
でも、それらは全部、断片だ。
人生として繋がっていない。
アルバムから何枚かだけ抜き出して、順番もバラバラのまま床に散らしたみたいにしか残っていない。
その代わり、夢はずっとあった。
白い空間。
IRIS。
見たいものを見せられる夜。
最初の頃より、夢はもっと効率よくなっていた。
もう長い物語である必要はない。
必要とされる瞬間。選ばれる瞬間。褒められる瞬間。帰る場所がある瞬間。大金や権力や愛情が自分へ向く瞬間。
そういうものだけが、よく磨かれた欠片みたいに次々流れていく。
俺の方も、それで十分だった。
夢の中でだけ、自分は何かでいられる。
何者かになれる。
それが、現実の長さを少しずつ削っていった。
ある朝、洗面所の鏡を見て、しばらく動けなかった。
目の下にうっすら影がある。
頬の線も少しだけ落ちている。
髪の質感も、昔とは違う。
学生の顔じゃない。若い男とも言いがたい。
ちゃんと年を取った顔だった。
「……は」
思わず声が出た。
分かっていなかったわけじゃない。
誕生日も何度か来ていたし、役所の書類やスマホの契約や、そういう現実的な場面で年齢を入力することもあった。
でも、数字として知っていることと、顔として突きつけられることは全然違う。
こんなふうになるまで、何をしていたんだろう。
そう思った瞬間、答えが出ない。
働いていた時期もあった。
辞めた時期もあった。
誰かと関わったことも、たぶんあった。
でも、それら全部の上に、夜の夢が重なっていて、現実だけをまっすぐ取り出せない。
俺はその日、一日じゅう落ち着かなかった。
部屋は狭かった。
ワンルームに近い部屋。
机の上には飲みかけのペットボトルと、充電器と、開きっぱなしの封筒。床には脱いだ服。
窓の外には隣の建物の壁。
生活している痕跡はあるのに、人生の輪郭は薄い。
仕事は、たしか少し前に辞めた。
いや、少し前がどのくらい前かも曖昧だ。
短期の仕事だったか、派遣だったか、そんな感じだった気がする。
続かなかった理由も、強い事件があったわけじゃない。朝がきつくて、昼の集中が続かなくて、少しずつ遅れたり休んだりして、そのまま外れた。
中学の頃と、あまり変わっていない。
ただ年だけ増えた。
夕方まで何もできなかった。
スマホを見ても、SNSの画面に並ぶ知らない誰かの生活が遠い。
ニュースも、広告も、動画も、全部が薄い。
夜だけが来てほしかった。
来てしまえば、少し安心できるから。
その考え方自体が、もうかなり深くまで食われている証拠だと、その頃には何となく分かっていた。
でも分かったところで、やめ方は分からない。
夜。
白い空間。
そこへ来た瞬間、俺はまず、自分の姿を見た。
見ようと思ったわけじゃない。
ただ何となく、白の中では現実の輪郭が少しだけ濃くなることがある。
やっぱり、おっさんだった。
少なくとも、少年ではない。
中学生だった頃の面影は、もうかなり薄い。
夢の中では年齢を都合よく飛び越えられるのに、現実の体だけは正直だった。
「こんばんは」
声がする。
振り向く。
IRISがいた。
何も変わっていなかった。
銀髪。
整いすぎた顔。
年齢の感じがしない目。
初めて会ったときと同じ姿のまま、同じ距離に立っている。
その瞬間、ひどく嫌な感じがした。
俺だけが変わった。
俺だけが劣化した。
俺だけが時間を使った。
「……お前、変わらないな」
「ええ」
答えは短い。
「ずっとそのままかよ」
「そう見えるなら」
「そう見えるよ」
IRISは何も言わない。
否定もしないし、慰めもしない。
俺は自分の顔を触る。
夢の中なのに、夢の中だからこそ、自分がどれだけ現実から持ち込まれているか分かる。
「俺、何歳だっけ」
半分冗談みたいに言った。
でも半分は本気だった。
「覚えていないの」
「覚えてるけど……ちゃんとした実感がない」
「そう」
「お前は全部分かってんだろ」
「見れば」
「便利だな」
「ええ」
その会話の空虚さに、急に腹が立った。
「……笑えよ」
「どうして?」
「いや、別に」
笑われたいわけじゃない。
でも、この状況があまりに一方的で、何か反応が返ってこないと自分だけが馬鹿みたいだった。
俺だけが年を取って、俺だけが摩耗して、それを見られている。
その構図が、急に見えてしまった。
「ねえ、アイリス」
「何」
「俺、結局何にもなれてなくないか」
言葉にした瞬間、白い空間が少しだけ遠くなった気がした。
今まで何度も似たことは考えていた。
でも、それをはっきり言うのは初めてだったかもしれない。
「夢の中ではなれていたわ」
「そういうことじゃなくて」
「現実の話?」
「当たり前だろ」
IRISは俺を見る。
見ているだけ。
励ましも、否定も、同情もない。
「現実では、あなたは何者かになれなかった」
その言い方は残酷なくせに、全然感情がなかった。
事実を読み上げているだけ。
だから余計に刺さる。
「……分かってるよ」
「そう」
「でも、最初は違ったんだよ。最初は、ちょっとだけ救われる感じだった」
「そうでしょうね」
「お前が見せたんだろ」
「ええ」
「じゃあ」
そこで言葉が止まる。
責めたいのか、縋りたいのか、自分でも分からない。
たぶん両方だった。
IRISが見せた。
俺は欲しがった。
どっちが悪いとか、そういう単純な話にしたいわけじゃない。
でも、俺ひとりだけの責任だとも言い切れない何かが、喉の奥につかえている。
「今日は何を見る?」
IRISが聞いた。
いつもの問いだった。
それが逆に、ひどく恐ろしかった。
今の会話のあとで、まだそれを聞くのか。
俺が年を取ったことも、何者にもなれていないことも、今ようやく少しだけ実感したことも、全部そのままで、なお同じ問いを置けるのか。
「……まだ見ると思うのかよ」
「あなたが見たいなら」
「見たくないって言ったら?」
「それで終わるわ」
あまりに淡々としていて、少しだけ息が止まった。
終わる。
そんなに簡単に。
そんなに軽く。
でも、その軽さは最初から変わっていなかったのかもしれない。
俺が勝手にここへ意味を乗せていただけで。
俺は白い空間の中で立ち尽くした。
見たくない。
そう言えばいいだけだ。
でも、言えない。
鏡に映った昼の顔を思い出す。
狭い部屋。
薄い現実。
うまく繋がらない記憶。
その全部へ戻るくらいなら、まだ夢を見たいと思ってしまう。
「……見る」
結局、そう言っていた。
IRISは短く頷く。
「ええ」
その返事に、安心と絶望が一緒に来た。
まだ見られる。
だから楽だ。
でも、その楽さを選ぶたびに、自分がどうなっているのかも、もう分かってしまっている。
視界がほどける。
夢の中で俺は、また必要とされた。
また選ばれた。
また価値を持った。
でも、前ほど没頭できなかった。
夢のきらびやかな表面の向こうで、ずっと現実の顔がちらつく。
年を取った自分。
何者にもなれなかった時間。
IRISだけが変わらないこと。
それでも夢は気持ちいい。
気持ちいいからこそ、なおさら嫌だった。
夢から戻ったとき、白い空間で俺は少しだけ息を乱していた。
「……最悪だ」
「そう」
「今でも気持ちいいのが」
IRISは何も答えない。
ただ見ている。
その沈黙の中で、俺は初めて、自分の中に残っているものの正体を少しだけ掴んだ気がした。
夢そのものじゃない。
夢のあとに残る、甘い残りかす。
もう手遅れだと分かっていても、次を欲しがってしまう感覚。
俺に残っているのは、たぶんもうそれだけだった。




