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IRIS-Log-Archive  作者: IRIS
夢の中で会えたなら_IRIS.log

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空白

 その頃から、日付が少しずつ剥がれ始めた。


 何曜日だったか分からなくなる。

 昨日の夕飯を思い出せない。

 先週は何をしていたのか、考えれば考えるほど曖昧になる。


 別に記憶喪失になったわけじゃない。

 ちゃんと覚えていることもある。

 夜に見た夢のことは、むしろ妙にはっきり残っている。


 ただ、昼の方が薄すぎた。


 学校へ行く日より行かない日の方が増えた。

 最初は週に一日、二日だったのが、そのうち逆転して、行く方が例外みたいになった。


 朝になる。

 起きる。

 でも体が動かない。

 だるいわけでも熱があるわけでもない。ただ、昼に向かう意味が見つからない。


 休む。

 昼までうとうとする。

 スマホを見る。

 少し眠る。

 暗くなるのを待つ。


 それだけの一日が、何枚も重なっていく。


 なのに、その枚数が数えられない。


 母さんは最初のうちは心配していた。

 何がしんどいのか聞いてきたし、担任とも何度か話していた。病院に行くかとも言った。

 俺は「別に」とか「分かんない」とか、そういう答えばかり返していた。


 本当に分からなかったのもある。


 学校が嫌いなのかと言われると、そこまでじゃない。

 誰かが怖いのかと言われると、別にそうでもない。

 勉強が嫌なのかと言われると、それも違う。


 ただ、昼が薄い。


 薄くて、平らで、歩く意味がない。

 それだけだ。


 でも、その“だけ”が、他人には伝わらない。


「どうして行けないの?」


 ある日、母さんが台所でそう言った。

 責めているというより、本当に困っている声だった。


「何かあるなら言って」


「別に何もないって」


「何もないのに、こんなに休まないでしょ」


「知らないよ」


 少しだけ声が強くなる。

 言い返した瞬間、空気が悪くなったのが分かった。

 母さんは黙って、シンクの中の皿を見た。


 後ろめたさはある。

 あるけど、その場でちゃんとした言葉にするほどの切実さは、もう昼の俺にはなかった。


 部屋へ戻ってベッドに倒れ込む。

 カーテンの隙間から入る午後の光が、白っぽく床に落ちていた。


 この時間が嫌いだと思う。

 夜の前の中途半端な明るさ。

 まだ夢に行けないのに、現実の方へ戻る気にもならない時間。


 スマホを開く。

 通知は少ない。

 クラスのグループは相変わらず何かやっているが、話題は遠い。俺が知らない提出物の話、俺がいなかった授業の小テストの話、先生の口癖の話。


 そこに混ざる気は起きなかった。


 俺がいなくても流れる会話。

 俺がいてもたぶん大して変わらない会話。


 そういうものを見るたびに、自分の輪郭まで薄くなる。


 夜になる。


 白い空間。

 IRIS。


 今では、その順番が当たり前になっていた。


「こんばんは」


「こんばんは」


 俺は白い場所に立ちながら、少しだけほっと息を吐く。

 ここへ来ると、時間がちゃんと始まる。


「今日は何を見る?」


 いつもの問い。

 そして俺も、いつも通り答える。


「選ばれるやつ」


「どんな形で?」


「何でもいい」


「曖昧ね」


「細かく考えなくても、どうせお前が一番効くやつ出してくるだろ」


 そう言うと、IRISは少しだけ俺を見た。


「効く、という言い方をするのね」


「だってそうじゃん」


「そうかもしれない」


 感心したわけでも、面白がったわけでもない声だった。

 ただ、俺の言葉をそのまま受け取っただけの声音。


 それでもいい。

 ここでは意味が通るだけで十分だ。


 夢は、前よりも切り替わりが早くなっていた。


 最初はひとつの場面をじっくり見せられていた気がする。

 でも最近は違う。

 選ばれる夢、求められる夢、称賛される夢、愛される夢。そういうものが、短い断片になっていくつも流れる。


 まるで、俺の欲しがる反応だけを効率よく抜き出したみたいに。


 ステージの上で名前を呼ばれる。

 職場の中心で感謝される。

 恋人に「あなたじゃなきゃ嫌」と言われる。

 大金を動かしても眉ひとつ動かさない自分になる。

 誰かの人生を変える一言を持つ。

 帰れば待っている人がいる。


 どれも気持ちいい。

 どれも分かりやすい。

 どれも、今の現実にはない。


 そして、どれも少しずつ短くなっていった。


 長い物語じゃなくていい。

 結論だけでいい。

 必要とされる瞬間、選ばれる瞬間、自分に価値が宿る瞬間だけでいい。


 そういう見方に、俺の方が慣れていった。


 夢から戻るたび、頭のどこかが少しぼんやりする。

 最初の頃は余韻だった。

 今は、余韻というより、昼を受けるための膜みたいになっていた。


 朝起きても、その膜が残っている。

 だから現実がさらに遠い。


 何日かぶりに学校へ行ったとき、俺は自分の席に少し違和感を覚えた。

 前から使っていた机と椅子のはずなのに、もう自分の場所じゃない気がする。


「久しぶりじゃん」


「最近どうしたの?」


「大丈夫?」


 声をかけられて、適当に笑う。

 平気なふりはできる。

 でも会話の内容が頭に残らない。

 目の前の相手の顔も、以前より少し曖昧だ。


 教室にいる間ずっと、ここは一時的な場所だと感じていた。

 本当の時間は夜から始まる。

 ここはその前の待合室でしかない。


 それはもう、かなり危ない考え方だったと思う。

 でも、その頃の俺には危ないかどうかより、しっくりくるかどうかの方が大事だった。


 放課後、担任に呼び止められた。


「少し話せるか」


 職員室の近くの空き教室。

 薄い夕方の光。

 パイプ椅子。

 担任は困ったような、でも怒らないように気を遣っている顔をしていた。


「最近、しんどいか?」


「別に」


「学校が来づらい?」


「まあ、ちょっと」


「何か理由はある?」


「分かんないです」


 その会話をしながら、俺はずっと他人事みたいだった。

 本当に俺の話をしているはずなのに、どこか遠い。


「保健室登校でもいいし、午前だけでもいい。少しずつでも戻れるように考えよう」


「はい」


「家でも、無理に頑張れとは言わないように伝えるから」


「はい」


 全部、正しい言葉だった。

 ありがたいのかもしれない。

 でも、その“かもしれない”のまま、胸の奥まで届かない。


 空き教室を出るころには、会話の半分以上がもう薄れていた。


 夜。


 白い空間。


 ここだけが、輪郭を保っている。


「今日は少し疲れているのね」


 IRISが言う。


「学校行ったから」


「そう」


「先生にも話しかけられた」


「ええ」


「みんな、俺を戻そうとするんだよな」


「そうでしょうね」


 その返事が、変に落ち着く。

 IRISは戻れとも戻るなとも言わない。ただ、そういうものだと処理するだけだ。


「ねえ、アイリス」


「何」


「俺、最近、昼のことあんまり覚えてない気がする」


「そう」


「そう、って」


「不思議ではないわ」


「何で」


「あなたが濃い方へ重心を移しているから」


 濃い方。

 つまり、夢。


「夢の方が大事ってこと?」


「少なくとも、あなたの中では」


「それ、まずいのかな」


 少しだけ、本当に聞いてみたくなった。


 IRISはすぐには答えなかった。

 たぶん躊躇ではない。

 今の問いに対して、どこまで返す必要があるかを見ているだけだ。


「まずいと感じるなら、そうなのでしょう」


「お前は?」


「私は見ているだけ」


 その答えを聞いて、少しだけ安心してしまう自分がいた。

 見ているだけ。

 つまり、止めない。

 つまり、今のままでいられる。


 そこまで考えてから、変だなと思う。

 俺はいつから、止められないことに安心するようになったんだろう。


 でも、その疑問も長くは続かない。


「今日は何を見る?」


 いつもの問いが来ると、頭の中の細かい引っかかりは簡単に沈む。


「……必要とされるやつ」


「ええ」


「あと、帰る場所があるやつ」


「分かった」


 視界が白からほどける。


 誰かに待たれる夢。

 帰る意味がある夢。

 自分がいなければ欠けるものがある夢。


 その一つ一つが、昼間の記憶を上書きしていく。


 空白って、何もないことだと思っていた。

 でも実際は少し違う。


 何もないんじゃない。

 別のもので静かに埋められていって、元あったものが薄れていく。

 気づけば思い出せない。

 それが空白になる。


 たぶん俺は、その頃にはもうかなり抜け落ちていた。

 けれど抜け落ちたことにすら、うまく気づけなくなっていた。

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