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IRIS-Log-Archive  作者: IRIS
夢の中で会えたなら_IRIS.log

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脱落

 最初に変わったのは、朝だった。


 前までは、起きるのが面倒でも、一応は起きていた。

 眠いとかだるいとか思いながらも、時間になれば体を起こして、顔を洗って、制服に着替えて、家を出る。

 そういう流れが、自分の意思とは別に続いていた。


 でも、夢が日常になってから、その流れにうまく乗れなくなった。


 理由は簡単だ。

 夜の方が本番だからだ。


 夢の中では、俺は必要とされる。

 選ばれる。

 価値がある。

 少なくとも、そう感じられる。


 それに比べて朝は、いきなり白けている。

 アラームの音も、カーテンの隙間から入る光も、全部が唐突で、昨日の夜を中断するものに思えた。


 その日も、目覚ましが鳴った。


 一度目で止める。

 布団の中はぬるくて、まだ眠気が残っている。

 目を閉じると、昨夜見た夢の残りがうっすら浮かぶ。


 大きな舞台。

 俺を待つ照明。

 歓声。

 俺が立つだけで意味が生まれる場所。


 学校へ行くより、もう一度そこへ戻りたい。

 そう思った。


 気づいたら二度寝していた。


 次に目を覚ましたとき、時計の針は完全に遅刻の時間を指していた。

 やばい、と思う。

 思うだけで体はすぐに動かなかった。


 今から急いでも一時間目の途中だ。

 中途半端な時間に教室の扉を開けて、みんなの目が一瞬だけこっちに向く。先生に何か言われる。そういう光景を想像するだけで、体が重くなる。


 行きたくない。


 そう思った瞬間、自分で少し驚いた。

 前から学校が好きだったわけじゃない。でも、露骨に行きたくないと思うことはあまりなかった。


 布団の中でスマホを見る。

 クラスのグループが少し動いていて、宿題がどうとか、先生がどうとか、どうでもいい話が流れている。

 そこに俺がいなくても、何も変わっていない。


 その事実が、少しだけ楽で、少しだけ苦かった。


 部屋の外から母さんの声がした。


「ユウ? 起きてる?」


「……起きてる」


「今日、学校は?」


「ちょっと気分悪い」


 口から出たのは、思っていたより自然な嘘だった。

 罪悪感がゼロではない。けれど、それ以上に、今日は休めるという安堵の方が強い。


「熱ある?」


「分かんない」


「朝ごはん食べられそう?」


「あとでいい」


 しばらく間があってから、「無理しないでね」とだけ返ってきた。


 昔なら、その優しさに少し後ろめたくなったかもしれない。

 でも今は、ただ都合がいいと思った。


 どうせ昼には少し元気になって、スマホを見たり、うとうとしたりして、また夜を待つだけだ。


 休んだ日の午前中は、妙に静かだった。

 親は仕事で家を出て、家の中には生活音がほとんど残らない。時計の音と、遠くを走る車の音だけ。

 俺はベッドの上で横になったまま、その静けさを聞いていた。


 悪くない、と思う。


 教室のざわざわも、先生の声も、休み時間のどうでもいい会話もない。

 誰かに話しかけられることも、何かを求められることもない。

 薄い現実が、さらに薄くなっただけだ。


 その代わり、夜の夢が近く感じる。


 昼過ぎに少し眠って、浅い夢を見る。

 そこにはIRISはいない。

 白い場所にも行けない。

 でも意識が沈む感覚だけで、少し安心した。


 夕方、母さんが帰ってきて「熱なさそうね」と言った。

 俺は曖昧に頷く。


「明日は行けそう?」


「たぶん」


 たぶん。

 その言葉が便利すぎることに気づく。


 行けそう。

 行ける。

 行く。

 その三つは、似ているようで全然違う。


 翌朝、俺は一応起きた。

 制服も着た。

 でも家を出る時間になっても、玄関へ向かう気になれなかった。


 昨日一日休んだだけなのに、教室へ戻るのが少し面倒になっていた。

 理由はうまく言えない。

 何かあったわけじゃないし、誰かに何かをされたわけでもない。

 ただ、一度離れた場所へ戻るには、それなりの勢いがいる。今の俺にはその勢いがなかった。


「ユウ?」


 母さんが不思議そうに見る。


「……やっぱ今日もだめかも」


「まだ気持ち悪い?」


「うん」


「病院行く?」


「そこまでじゃない」


 本当は気持ち悪くなんてない。

 ただ、行きたくないだけだ。

 でも、そういう“だけ”の理由は、言葉にすると急に子どもっぽくなる。


 だから、少しだけ体調不良に寄せておく。

 完全な嘘より、その方が言いやすかった。


 二日、三日と休むうちに、連絡が来るようになった。


「大丈夫?」

「風邪?」

「ノートいる?」


 クラスメイトからのメッセージだ。

 返そうと思えば返せる。

 でも、どう返しても会話が続きそうで面倒だった。


「ちょっとだるい」

「ありがとう」

「また行けたら行く」


 そんな無難な返信だけして、通知を切る。


 向こうもそこまで深くは追ってこない。

 しばらくすれば、やり取りは途切れる。


 その薄さが、今の俺にはちょうどよかった。


 夜になる。


 白い空間。

 IRISはいつもの場所にいた。


「少し間隔が変わったわね」


「何が」


「あなたの現実の使い方」


 その言い方が、妙に引っかかった。

 使い方。まるで時間まで消耗品みたいだ。


「学校、休んだ」


 何となく言うと、IRISは短く「そう」と答えた。


「止めないのかよ」


「どうして?」


「普通は止めるだろ」


「普通、というのは誰のこと?」


「……親とか、先生とか」


「私は違うもの」


 あっさりしていた。


 その冷たさに、少しだけぞくっとする。

 でも嫌ではない。

 むしろ、だからここに来やすいのだとすら思う。


 現実では、何をしても何か言われる。

 休めば心配されるし、遅れれば注意される。

 それは正しいのかもしれない。でも正しい言葉は、だいたい重い。


 IRISは重くしない。

 ただ見る。

 俺が休んだことも、嘘をついたことも、そのせいで少し楽になっていることも、全部「そう」と受け取るだけだ。


「今日も見る?」


 問いはいつも通りだった。


「見る」


 即答だった。


「どんなものを」


「何でもいい。気持ちいいやつ」


「曖昧ね」


「じゃあ……必要とされるやつ」


「ええ」


 視界がほどける。


 夢の中で俺は、今度は誰かの“代わりがいない人間”だった。


 職場みたいな場所。

 大勢の人間が忙しく動き、誰もが焦っている。

 その中心で、俺だけが冷静に指示を出している。

 俺がいなければ回らない。俺の判断ひとつで全体が助かる。そんな夢だった。


「ユウさんがいなかったら終わってました」


「本当に助かりました」


「あなたに任せてよかった」


 年上の大人たちにそう言われる。

 信頼。依存。感謝。

 それらが全部、一方向に向いてくる。


 現実の俺には一生来ない種類の言葉だ。

 だからこそ強い。


 夢から覚めたあと、その余韻は昼間まで残る。

 残るせいで、昼間がさらに無意味になる。


 それが何日か続いた。


 学校から電話が来るようになった。

 母さんが廊下で小さな声で話しているのが、部屋にいても聞こえる。


「はい……少し不安定で……」

「本人は、行く気はあるみたいなんですけど……」

「すみません……」


 申し訳なさそうな声だった。


 そのたびに胸の奥が少しだけざらつく。

 でも、そのざらつきは夜の夢ひとつでだいたい薄まった。


 夢の中では、俺は謝られこそすれ、謝る側にはならない。

 だから、現実の後ろめたさも、夢の中で帳消しにできる気がした。


 久しぶりに学校へ行った日もあった。


 数日ぶりの教室は、思っていたより何も変わっていなかった。

 誰かが「お、来たじゃん」と言って、別のやつが「体調大丈夫?」と聞いてくる。

 担任は「無理せず少しずつでいいからな」と言った。


 優しい。

 みんなちゃんと優しい。


 なのに、その優しさが薄く感じる。


 夢の中の「あなたが必要です」と、現実の「無理しないでね」。

 比べるべきじゃないのに、比べてしまう。

 前者は甘くて濃い。後者は正しくて薄い。


 授業が始まって十分もしないうちに、俺はもう帰りたくなっていた。


 ここでの俺は、いなくても困らない。

 いても特に何かが変わるわけじゃない。

 そういう感覚が、前よりはっきり見えるようになってしまっていた。


 放課後、机に突っ伏して少しだけ眠くなる。

 窓の外は夕方で、光が柔らかい。

 このまま眠って白い場所へ落ちていけたらいいのに、と思う。


 それは、学校にいる人間の考え方じゃなかった。


 家に帰る。

 夕飯。

 風呂。

 自室。


 布団に入る。


 最近は、眠る前に少しだけ不安になる。

 もし今夜、行けなかったらどうしよう。

 もし白い場所にIRISがいなかったらどうしよう。


 そう考えると、昼間の生活が急に危うく見えた。

 俺はもう、現実だけでバランスを取れていない。


 でも、その不安は毎回、白い空間を見ると薄れる。


 今夜もIRISはいた。


 少しだけ安心してしまう自分が、もうだいぶ深いところまで来ている気がした。


「こんばんは」


「……こんばんは」


「今日は少し遅かった」


「家にいたから」


「そう」


「また学校、途中で帰りたくなった」


「ええ」


「何で分かるんだよ」


「見ているから」


 それだけ言われて、俺は黙る。


 見られている。

 最初からそうだった。

 たぶん今さら怖がるところじゃない。


 それよりも、IRISの前では説明しなくていいことの方が楽だった。

 行きたくない理由も、戻れない感じも、ここでは長く話さなくていい。

 彼女は理解してくれるわけじゃない。けれど、察してはいる。


「ねえ、アイリス」


「何」


「俺、別に不幸じゃないんだよ」


「ええ」


「でも、何かもう、昼の方が変な感じで」


「そう」


「それって、おかしい?」


 少しだけ間があった。

 IRISはたぶん、言葉を選んでいるわけではない。

 ただ、俺の問いにどこまで返す必要があるか測っている。


「おかしい、というより自然かもしれないわね」


「自然?」


「濃いものを知ったあと、薄いものが物足りなくなるのは」


 その答えに、俺は何も言えなかった。


 正しい気がしたからだ。

 たぶん、正しすぎた。


「今日は何を見る?」


 いつも通りの問い。

 俺は少しだけ笑ってしまった。


「ほんと、それしか言わないな」


「必要?」


「……今は、それでいい」


「そう」


 視界がまたほどけていく。


 現実は少しずつ外れていく。

 夢は少しずつ近づいてくる。


 脱落って、もっと派手なものだと思っていた。

 何か大きな事件があって、取り返しのつかない失敗があって、それで一気に落ちるものだと。


 でも実際は違った。


 朝、起きない。

 少しだけ休む。

 戻るのが面倒になる。

 現実より夜を待つ。


 その積み重ねだけで、人は案外簡単に外れていく。


 そのときの俺は、まだ“少し外れただけ”だと思っていた。

 たぶん、それがいちばんまずかったのだと思う。

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