依存
その日から、夜が一日の中心になった。
朝起きて、学校へ行く。
授業を受ける。
帰って、飯を食って、風呂に入る。
それだけなら前と同じはずなのに、全部が夜までのつなぎに変わっていく。
たとえば数学の時間。
先生が黒板に一次関数を書いている。前の席のやつが半分寝ていて、後ろでは消しゴムを落とす音がした。窓の外は曇っていて、校庭の色が薄い。
そんな、どこにでもある授業の最中に、俺はふと昨夜のことを思い出す。
金を持つ夢。
昨日、俺はそれを見た。
高層ビルの最上階みたいな部屋で、俺は大きなガラス窓の前に立っていた。下には街の夜景。机の上には鍵、時計、札束、見たこともないカード。
大人たちが俺に頭を下げて、何かを決めるたびに「承知しました」と答える。欲しいものは、口に出す前にもう用意されている。
必要とされる、というより、逆らえないほど価値がある存在。そういう夢だった。
その前の日は、また別の夢だった。
大勢の前で演説して、歓声を浴びる夢。
マイク越しの自分の声ひとつで、空気が変わる。拍手が起きる。人が期待する目でこっちを見る。
そのまた前は、ひとりに選ばれる夢。
夢の種類はばらばらなのに、気持ちよくなる場所はだいたい同じだった。
俺がすごい。
俺だからいい。
俺が必要だ。
そういう方向へ、どの夢もまっすぐ伸びている。
「ユウ、ここ答えて」
先生に当てられて、俺ははっとした。
教室じゅうの目が一瞬だけこちらを向く。
「あ……」
黒板を見る。
何をやっていたのか、頭が全然追いついていない。
数秒の沈黙のあと、前の方で小さな笑いが起きた。
別に馬鹿にされているほどじゃない。誰にでもある失敗だ。先生も軽く苦笑して、別のやつを指しただけだった。
でも、その一瞬が妙に刺さる。
夢の中では、皆が俺を見ていた。
今は違う。
今こっちを見ているのは、答えられなかったやつを見る目だ。
比べるな、と思う。
比べても仕方ない。
夢と現実なんて、同じ土俵に乗せる方がおかしい。
それでも比べてしまう。
昼休み、パンをかじりながら、俺は無意識に眠気を待っていた。
今すぐ寝られたらいいのに、とまで思う。
夜を待つというのは、思っていたより簡単に癖になった。
最初は、たまたま良い夢を見られたから気になっているだけだと思っていた。
そのうち飽きるだろうとも思っていた。
けれど飽きるどころか、夢の方が少しずつ現実に食い込んでくる。
帰宅して、靴を脱いで、自分の部屋に入る。
鞄を床に放り出して、そのままベッドに倒れ込む。まだ夕方だ。眠るには早い。
なのに、目を閉じてしまう。
さすがにその時間はIRISのいる場所へは行けなかった。
ただ少し浅く眠って、曖昧な夢を見て、起きる。
夕飯のときに母さんから「寝てたの?」と聞かれて、「ちょっと」と答える。
「夜、寝られなくなるよ」
「大丈夫」
実際には、夜こそ寝たい。
あの白い場所へ行くために。
夜になって、布団へ入る。
目を閉じるまでの数分間が、一日の中でいちばん濃くなっていく。
来る。
きっと来る。
今夜もまた、あの場所へ行ける。
そう思うだけで、昼間の薄さが少しだけましになる。
白い。
目を開けた瞬間、胸の奥がほっとした。
もう何度目か分からない。けれど、この白い空間を見るたびに、現実からひとつ上の層へ上がれたような気がする。
少し離れたところにIRISが立っていた。
「こんばんは」
いつも通りの声だった。
「……こんばんは」
「今日は少し早く待っていたのね」
「分かるのかよ」
「見れば」
「それ便利すぎるだろ」
文句を言いながらも、少しだけ気分は軽い。
現実では誰と話していても、こんなふうに無駄な返しをすることは少ない。相手がどう受け取るか気にしてしまうからだ。
でもIRISには、そういう気遣いがあまり要らない。
怒りもしないし、笑いもしない。
ただ、そのやりとりがあったことをそのまま受け取る。
「今日は何が見たい?」
その問いがもう、挨拶みたいになってきている。
俺は少し考える。
考える、といっても、道徳的な迷いとか遠慮とかは、ここに来るたびに少しずつ薄れていた。
「……金持ちのやつ、もう一回見たい」
「前と同じもの?」
「同じでもいいし、別でもいい」
「どうして?」
「気持ちいいから」
今度は素直に言えた。
IRISは少しだけ俺を見た。
その目には評価も軽蔑もない。ただ、言葉と反応が結びついていくのを見ているような静けさだけがある。
「そう」
「そう、って」
「あなたは自覚が早いのね」
「何の」
「夢に求めているもののこと」
その言い方は少し嫌だった。
夢に求めているもの。
まるで俺が何か単純な実験材料みたいに聞こえる。
「お前、ほんとそういう言い方するよな」
「事実でしょう」
「そうだけど」
「嫌?」
嫌か、と聞かれて、少し考える。
嫌ではある。
でも、それで見るのをやめるほどじゃない。
結局俺は、どう言われようが見たいのだ。
「……見せてくれるなら、別に」
「ええ」
IRISが手を軽く上げる。
その瞬間、白がほどけた。
今度の夢は、前よりもっと露骨だった。
巨大なパーティー会場。
シャンデリア。ワイングラス。磨かれた床。高そうな服を着た大人たち。
その真ん中に、俺がいる。
俺が歩くたび、人が道をあける。
誰もがこちらを見ている。媚びるような目、羨む目、警戒する目。
それら全部が、俺の価値を証明していた。
「お待ちしておりました」
「こちらです」
「次の件ですが――」
大人たちが次々に話しかけてくる。
俺は短く頷くだけでいい。
それだけで相手は満足そうに動く。
権力と金が一緒になった夢だった。
気分がいい。
いや、そんな言い方では足りない。
自分の存在がそのまま重さを持っている感じが、どうしようもなく快い。
夢の中の俺は、少しだけ笑っていた。
次に見たのは、もっと俗っぽかった。
大きな家。
帰ると、誰かが待っている。
玄関で、リビングで、キッチンで、俺を見て「おかえり」と言う。
疲れているなら休んで、無理しないで、あなたがいてくれるだけでいい――そんな言葉が自然に出てくる。
そこでは俺は、外で戦って帰ってくる存在だった。
少し傷つきながら、それでも必要とされる男。
待っている人がいるから帰る意味がある、という夢。
その甘さは、前の恋愛の夢と少し似ていた。
でももっと根深い場所に届いた。
居場所。
帰る先。
ここにいていいと言われる感じ。
夢の中では、それが何の努力もなく、当たり前みたいに与えられる。
また白い空間へ戻る。
「どうだった?」
IRISの問いに、俺はしばらく答えなかった。
夢の余熱が強すぎて、うまく言葉にならない。
ただ胸のあたりが熱くて、現実へ戻る前からもう戻りたくないと思ってしまう。
「……ずるい」
やっと出た言葉が、それだった。
「何が?」
「こんなの見たら、昼がつまんなくなるに決まってる」
IRISは少しだけ間を置いた。
考えているというより、その発言自体を受け取って整理しているみたいな間だ。
「もう少し早くそうなると思っていたわ」
「何だよそれ」
「あなた、我慢強いから」
「褒めてんのかけなしてんのか分かんない」
「どちらでもない」
本当にそうなのだろう。
IRISの言葉には、最初からそういう温度しかない。
けれど、そのことを今の俺は前ほど気にしなかった。
夢の方が強いからだ。
気味の悪さも、引っかかりも、夢の魅力の前では後ろへ下がる。
「ねえ、アイリス」
初めて、その名を口にした。
自分でも少し不思議な感じがした。
ただの呼びかけなのに、この白い場所では妙に輪郭を持つ。
「何」
「これ、いつまで見られる?」
「あなたが見る価値を持つあいだ」
「……何それ」
「そのままの意味」
意味が分かるようで分からない。
でも詳しく聞く気にはなれなかった。聞いて答えが返ってきたところで、どうせ気持ちよくはならない気がしたからだ。
「じゃあ、見られるだけ見る」
「そう」
「駄目って言わないんだな」
「どうして言うの」
逆に聞き返されて、少し黙る。
普通はこういうとき、ほどほどにしろとか、現実を大事にしろとか、そういうことを言うものじゃないのか。
でもIRISは言わない。
止めもしないし、促しもしない。
ただ、俺が欲しがるものを見せるだけだ。
だからこそ、俺はここで楽だった。
現実には、何をするにも評価がつく。
勉強が足りない、姿勢が悪い、もっとちゃんとしろ、将来のことを考えろ。
そういう言葉は正しいのかもしれないけど、全部、今の俺が足りないと突きつけてくる。
IRISは違う。
足りないとか、間違っているとか言わない。
そのかわり、救おうともしない。
その距離が、今は心地よかった。
「次、また違うやつ見たい」
「ええ」
「もっとすごいの」
「分かった」
「あと……必要とされるやつ」
「それも」
「あと、選ばれるやつも」
「ええ」
IRISは短く答える。
まるで注文を受けるみたいに自然だった。
そのたび、俺の中で何かが緩んでいく。
夢を欲しがることへの抵抗が、少しずつなくなる。
気づけば、現実で一日頑張る理由が変わっていた。
将来のためでも、誰かに認められるためでもない。
ただ夜まで辿り着くためだ。
白い空間が薄れていく。
目覚める直前、IRISの姿が少し遠く見えた。
手を伸ばせば届きそうで、届かない。
でも、その距離すらもう気にならない。
また夜になれば会える。
そう思えるだけで十分だった。
朝、目を覚ます。
天井。
カーテン。
散らかった机。
いつもの部屋。
でも、昨夜までと違うことがひとつだけあった。
現実より夢の方が、少しだけ大事になっていた。
その差はまだ小さい。
けれど、一度傾いたものは、たぶん簡単には戻らない。
学校へ行く支度をしながら、俺は時計を見る。
朝の七時。
ここから夜までが、妙に長い。
早く終われ、と初めて思った。




