願望
その日は、昼からずっと落ち着かなかった。
別に楽しみな予定があるわけでもない。
放課後に遊びに行く約束も、欲しいゲームの発売日でもない。
なのに、頭のどこかがずっと夜を待っていた。
授業中、教科書の文字を追っていても、意識は途中で途切れる。
先生の声が遠くなる。
黒板の前でクラスメイトが答えを間違えて笑いが起きても、その空気にうまく乗れない。
俺の中には、昨夜の夢が残っていた。
トラックを止めた感触。
見上げられた視線。
「ありがとう」と言われたときの、あの満たされる感じ。
たった一晩の夢なのに、現実の何日分より濃かった。
朝起きてから今まで、何度も思い出している。
思い出すたびに胸の奥が熱くなって、その後で、教室の風景が少しだけ色あせる。
「ユウ、今日なんかぼーっとしてない?」
昼休み、隣の席の男子にそう言われた。
「そう?」
「寝不足?」
「まあ、ちょっと」
適当に笑ってごまかす。
嘘ではない。
寝たのに、どこか寝不足みたいな感覚があった。体が疲れているというより、現実の方に意識を合わせるのが面倒なのだ。
「昨日なにしてたんだよ」
「別に」
別に。
本当にそれしか言えない。
夢の中で銀髪の女の子に会って、見たい夢を見せてもらいました。
そんなこと言っても、まともに取り合われるわけがない。
いや、たとえ取り合われたとしても、誰かに話した瞬間に安っぽくなる気がした。
あれは俺だけのものだ。
そう思うと少しだけ優越感があった。
昼休みが終わって、また授業が始まる。
窓の外では風が吹いて、校庭の端の木が揺れていた。
教室の中では誰かのシャーペンが落ち、先生が軽く注意し、後ろの席で小さな笑いが起きる。
全部いつも通りだ。
なのに、俺だけがそこから一歩外れている感じがする。
夜になれば、また行ける。
またあの白い場所へ。
また、何かになれる。
そのことだけが、一日を細く支えていた。
夕飯のとき、母さんが「最近ちゃんと寝てる?」と聞いてきた。
俺が無意識に何度も欠伸をしていたからだろう。
「寝てるよ」
「ならいいけど。顔色あんまり良くないよ」
「普通だって」
父さんはまだ帰っていなくて、食卓にはテレビの音だけが流れていた。
ニュースではどこかで起きた事故の話をしている。コメンテーターが真面目そうな顔で何か言っていたけど、頭に入ってこない。
俺は早く自分の部屋に戻りたかった。
食器を流しへ運んで、風呂に入って、歯を磨いて、部屋の電気を消す。
いつもなら眠るまでにスマホをいじる時間があるのに、その日はすぐに布団へ入った。
目を閉じる。
頼むから来てくれ、と思った。
夢なんて自分で選べないものなのに、今は妙にそう信じたくなる。
暗闇が沈んでいく。
そして、白い。
目を開けた瞬間、俺はほっとした。
白い空間。
音のない、どこまでも曖昧な場所。
昨日と同じなのに、今日は初めて来たときほど戸惑わない。
「来たのね」
少し離れたところに、IRISが立っていた。
銀髪は今日も静かに光を拾っている。
服装は変わっていないように見えるけど、そもそもこの場所では何をどう着ているのか判然としない。ただ、彼女だけが空間の中で不思議とはっきりしていた。
「……来れた」
「ええ」
「昨日の続き、見られる?」
自分でも驚くくらい、開口一番にそれを聞いていた。
IRISは俺を見た。
相変わらず、優しそうにも冷たそうにも見える目だった。
「昨日と同じものでもいいの?」
「だめなのかよ」
「だめではないわ。ただ、あなたは昨日のものをもう知っている」
「知ってるけど、もう一回見たい」
「どうして?」
どうして、と聞かれて、俺は言葉に詰まった。
そんなの決まっている。
気持ちいいからだ。
必要とされる感じがしたから。
現実の自分には何もないのに、あそこではちゃんと意味があったから。
でも、そういう本音をそのまま言うのは、少しだけ恥ずかしい。
「……ああいうの、好きだから」
「ヒーロー?」
「それもあるけど」
IRISは急かさなかった。
沈黙のまま待っている。
その待ち方は、話しやすいようでいて逃げ場がない。
「俺、何かになりたいんだと思う」
ぽつりと出た。
「何かって?」
「分かんない。でも、今のままじゃ嫌で」
「今のまま」
「何もない感じ」
自分の口から出る言葉を、自分で聞いていた。
こんなこと、誰にも話したことがない。
親にも、友達にも、先生にも。
「別に、いじめられてるとかじゃないし。めちゃくちゃ不幸とかでもない。でも……何か、何もないんだよ」
白い空間に、自分の声だけが小さく落ちていく。
「クラスにいても、いなくてもいい感じっていうか。俺じゃなきゃだめなこととか、一個もなくて」
「そう」
「だから、昨日みたいなの、たぶん好きなんだと思う」
「必要とされたいのね」
簡単に言われて、少しだけむっとした。
でも否定はできなかった。
「悪いかよ」
「いいえ。とても分かりやすいわ」
またその言い方だ。
分かりやすい、というのは、少し馬鹿にされている気もする。
でもIRISの顔は本当に何の感情も乗っていなくて、ただ分類名を読み上げているみたいだった。
「だったら、今日は別のものにしましょう」
「別のもの?」
「あなたが必要とされる形はひとつじゃないもの」
「……どういう意味」
「見れば分かる」
またそれか、と言いかけたときには、視界がもう揺れていた。
白い空間がほどけていく。
床の感覚が変わる。
今度は夜景ではなく、柔らかいオレンジ色の光が目の前に広がった。
教室だった。
でも昼の教室じゃない。
夕方、部活が終わって人が減ったあとみたいな、少し静かな教室だ。窓の外は夕焼けで、机の影が長く伸びている。
俺は自分の席に座っていた。
何でこんな場所なんだと思う間もなく、教室の後ろの扉が開く。
入ってきたのは、クラスの女子だった。
現実でも可愛いとよく言われているやつだ。
明るくて、誰とでも話せて、俺なんかとはあまり接点がない。
その子が、まっすぐこっちへ来る。
「ユウくん、まだいたんだ」
名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。
「……うん」
夢だ、と頭では分かっている。
でも、そう分かっていても、声が少し上ずる。
その子は俺の前の席をくるりと回して、向かいに座った。
近い。
シャンプーみたいな匂いがする。夕日の色が髪にうっすら乗っている。
「ちょっと話したいことあって」
そんな状況、現実では一度もなかった。
「俺に?」
「うん」
何で、と聞く前に、その子は少しだけ困った顔で笑った。
「ユウくんって、なんか安心するんだよね」
その一言で、胸の内側が熱くなる。
安心する。
俺が。
そんなふうに言われたことなんてあっただろうか。
夢の中の俺は、ちゃんと表情を作れていた。
現実の俺なら、たぶんもっと露骨に動揺していたと思う。
「急にどうしたの」
「変かな」
「いや……」
「最近ちょっと疲れててさ。でも、ユウくんなら聞いてくれそうって思った」
その子はぽつりぽつりと話し始める。
部活のこと。友達関係のこと。家で少ししんどいことがあること。
内容はありきたりかもしれない。けれど、その全部を俺にだけ打ち明けているという事実が強かった。
俺は相槌を打つ。
大丈夫だよ、と言う。
そうしたら、その子は少しだけ安心した顔をする。
「やっぱりユウくんに話してよかった」
その言葉は、昨日トラックを止めたときとは違う方向で効いた。
ヒーローみたいに目立つわけじゃない。
誰かに憧れられるわけでもない。
でも、ひとりに必要とされる。選ばれる。相談相手として、安心できる相手として、ちゃんと名前を挙げられる。
それはそれで、どうしようもなく甘かった。
夢はさらに都合よく続いた。
季節がいくつか飛ぶ。
帰り道を一緒に歩く。
メッセージが来る。
他のやつには見せない顔を俺には見せる。
文化祭の準備で、ふたりきりで残る。
最後には、その子が頬を赤くしながら言う。
「選ぶなら、ユウくんがいい」
頭がくらくらした。
こんなの、あまりにも分かりやすすぎる。
男のしょうもない願望そのままだ。
でも、分かりやすいからこそ、一番深いところへ刺さる。
選ばれる。
他じゃなくて、お前がいいと言われる。
そんなこと、現実で一度もなかった。
次に景色が変わったとき、俺はまた白い場所に戻っていた。
息が少し荒い。
夢のくせに、体温だけが妙に残っている。
「今度は静かな方だったわね」
IRISが言う。
その声は何も変わらない。
俺だけが少し息を乱しているのが、何だか癪だった。
「……あれも、分かりやすいって言うんだろ」
「ええ」
「最悪」
「でも嫌いじゃなかった」
図星すぎて、言い返せない。
IRISは少しだけ視線を落とした。
俺を観察している、とまた思う。顔の熱さや、言葉に詰まる間や、目を逸らしたくなる感じまで、全部見られている気がした。
「あなたは、大勢に見られたい願望もあるけれど、一対一で選ばれたい願望の方が強いみたい」
「分析すんなよ」
「しているもの」
「……そういうとこだよな」
「何が?」
「優しく見えるくせに、全然そうじゃない」
口から出してから、少しだけ後悔した。
でもIRISは怒らない。傷ついた顔もしない。
「そう見えるのね」
ただ、それだけだった。
「違うのかよ」
「優しいかどうかは、あなたが決めることでしょう」
「俺が?」
「ええ。見せてもらっていると感じるなら、そうなのでしょうし。見られているだけだと感じるなら、そうなのでしょう」
その答えは、よく分からないくせに妙に残った。
俺は少しだけ黙ってから聞く。
「……次もあるのか」
「あなたが見たいなら」
「何でも?」
「だいたいは」
「じゃあ」
言いかけて止まる。
少し迷った。
でも、どうせここでは隠したって仕方ない。
「もっと、いろいろ見たい」
「ええ」
「すごいやつも、選ばれるやつも。あと……金持ちとか」
「俗っぽいわね」
「うるさい」
初めて、少しだけ調子が戻った気がした。
IRISはほんのわずか、口元の形を変えた。
笑ったのかどうかは分からない。
でも、何かを記録したみたいな静けさがあった。
「いいわ。順番に見せてあげる」
その言葉に、胸の奥がじんと熱くなる。
順番に。
これからも。
また見られる。
たったそれだけで、明日の現実に耐えられる気がした。
「なあ」
「何」
「……ありがとう」
素直にそう言うと、IRISは少しだけ瞬きをした。
意外そうでも、嬉しそうでもない。
ただ、そういう反応もあるのだと確かめるみたいな目だった。
「どういたしまして」
言い方だけは、ひどく丁寧だった。
次の朝、目覚めた瞬間に俺は思った。
もう、ただの昼間には戻れないかもしれない。
制服に着替えて、顔を洗って、食パンをくわえて、学校へ向かう。
やっていることは昨日までと同じだ。
でも、その全部が夜までのつなぎみたいに感じる。
教室に入る。
夢の中で俺に「選ぶなら、ユウくんがいい」と言った女子が、現実では普通に友達と笑っている。俺のことなんか見もしない。
少しだけ胸が痛んだ。
でも、その痛みすらどこか甘かった。
昨夜の夢があるからだ。
現実で手に入らなくても、夜になればまた会える。
夜になれば、また選ばれるかもしれない。
その考え方が危ないのかどうか、そのときの俺はまだよく分かっていなかった。
ただひとつ分かっていたのは、俺がもう、眠ることを待っているということだけだった。




