夢
その夜、俺はいつもより早く寝た。
別に、明日に備えてとか、体調を整えようとか、そういう殊勝な理由じゃない。
ただ単純に、起きている時間がつまらなかったからだ。
スマホの画面を見ていても、流れてくる動画はどれも似たようなものに見えた。
おすすめ欄に出てくるヒーローものの切り抜きも、最初の頃みたいに素直に楽しめなくなっていた。選ばれた主人公、特別な力、敵を倒して、仲間に認められて、最後にはちゃんと名前を呼ばれる。
好きなはずなのに、見れば見るほど、そこに自分がいないことだけがはっきりした。
電気を消して、布団に入る。
薄いカーテンの向こうで、どこかの家の窓明かりが揺れていた。道路を走る車の音が遠く聞こえる。時計の針がやけにうるさい。
俺は目を閉じた。
寝つきは悪くなかった。
意識が沈んでいく途中で、ふと、あの古本屋の本のことを思い出した。
――あなたが本当に望むものは、目覚めた先にありますか?
あんな胡散臭い一文を、どうしてまだ覚えているのか分からない。
分からないまま、意識が沈む。
その沈み方が、いつもの眠りと少し違った。
最初に気づいたのは、音がないことだった。
静か、というより、音そのものが最初から存在しない場所にいるみたいだった。
風の音もない。遠くの車も、人の声も、部屋の時計もない。なのに耳が詰まる感じはしない。
次に気づいたのは、白さだった。
目の前に広がる空間は、どこまでも白かった。
霧の中にいるようにも見えるし、光の中に立っているようにも見える。天井も壁も、あるのかないのか分からない。地面さえ曖昧なのに、不思議と足元は不安定じゃなかった。
夢だ、と思った。
そう思うには、あまりにも鮮明だった。
でも現実じゃないことだけは分かる。こんな場所、どこにもない。
「こんばんは、ユウ」
声がして、俺は反射的に振り向いた。
女の子がいた。
最初に目に入ったのは髪だ。
銀色だった。真っ白じゃない。月の光を少し閉じ込めたみたいな、冷たくてきれいな色。長すぎず短すぎず、肩のあたりで静かに揺れている。
顔立ちは整いすぎていた。可愛いというより、きれいだと思う方が近い。年は俺と同じくらいにも見えるし、少し上にも見える。なのに、その目だけが年齢の感じをほとんど持っていなかった。
俺はしばらく言葉が出なかった。
知らないやつだ。
なのに、初対面のはずなのに、相手は俺の名前を知っている。
「……誰」
やっとそれだけ言うと、彼女は当たり前みたいに答えた。
「IRIS」
聞いたことのない名前だった。
「は?」
「私の名前」
「いや、そういう意味じゃなくて」
「そう」
軽く流された。
ふざけている感じではない。ただ、本当にその程度の問いは重要じゃないと思っているみたいな顔だった。
俺は改めて周囲を見る。
やっぱり白い。どこを見ても白い。遠くも近くも曖昧で、自分だけが妙にはっきりしている気がする。
「ここ、どこだよ」
「夢の中に近いところ」
「近いところって何だよ」
「今はそのくらいで十分でしょう」
言い方は柔らかいのに、妙に突き放している。
けれど嫌な感じではなかった。怖くもない。むしろ、この空間全体が、眠りの続きを邪魔しないように整えられているみたいで、変に落ち着いた。
俺は少し警戒しながら彼女を見る。
「なんで俺の名前知ってるんだよ」
「見れば分かるもの」
「意味分かんない」
「分からなくても困らないわ」
その返し方に、少しだけ腹が立った。
でも、それ以上に妙だったのは、怒る気力がうまく続かなかったことだ。ここでは感情まで少し白く薄まるみたいに、鋭さが出ない。
「……俺、寝てるんだよな」
「ええ」
「じゃあ、これ夢?」
「そう呼んでもいいわ」
「お前は何なんだよ」
「IRIS」
「だからそれ以外で」
IRISはそこで、ほんの少しだけ首を傾げた。
その仕草は年相応の少女みたいなのに、意味は全然読めない。
「あなたにとって必要なのは、私が何者かより、ここで何が見られるかでしょう」
「何が見られるって」
「見たいもの」
言葉がひどく簡単だった。
「見たい夢を見せてあげる」
俺は黙った。
そんなことを急に言われても、普通なら信じるわけがない。
夢の中だとしても、なおさらだ。うますぎる話だし、都合がよすぎる。
でも、目の前のIRISには、こちらを騙してやろうみたいな熱がまるでなかった。
売り込みたい感じもない。引っかけようとしている感じもない。
ただ、本当にそのくらいならできる、と言っているだけの静けさがあった。
「……何でも?」
「だいたいは」
「金持ちになる夢とか」
「ええ」
「有名になる夢とか」
「ええ」
「選ばれる夢とか」
そこで、IRISの目が少しだけ細くなった気がした。
「そういうのが一番分かりやすいわね」
馬鹿にされた、と思って少しむっとする。
けれど反射的に否定できなかった。
分かりやすい。
たしかにそうだ。
金とか人気とか恋愛とか、そういうのは分かりやすくて、子どもっぽくて、口に出した瞬間に薄っぺらくなる願いだ。
でも、だからこそ、本音に近い。
「別に、いつもそんなこと考えてるわけじゃないし」
「そう」
「ていうか、お前に見透かされてるみたいで嫌なんだけど」
「見ているもの」
「……は?」
「あなたのことを」
それはさらっと言う言葉じゃないだろ、と言い返したくなった。
けれど、じっと見つめ返してくるその目には、好意とも悪意とも違う、妙に乾いた興味しかなかった。
見られている。
たしかにその感じはある。
でも、それは恋愛的な意味でも、敵意でもなく、もっと別の、分類とか観察とか、そういう方向の視線だった。
「何でそんなことするんだよ」
「退屈そうだったから」
「……それだけ?」
「それだけで足りるでしょう」
俺は返事に詰まる。
退屈だった。
それはそうだ。
毎日が薄くて、何も起きなくて、自分がそこにいる意味もよく分からなくて、でも大した不幸でもないから文句も言えない。
そういう感じは、たしかにずっとあった。
IRISは少しだけ近づいた。
近づいたと言っても、手を伸ばせば触れられる距離ではない。視界の中ではっきり顔が見える、そのくらいだ。
「いらないなら、やめてもいいわ」
言い方は穏やかだった。
「見たいなら見せる。いらないなら、あなたは朝までただ眠るだけ」
「……代わりに何か払えとか、そういうのは」
「特に」
「何で」
「私は、見たいだけ」
「何を」
「あなたが何を欲しがるのか」
その答えは少し気味が悪かった。
でも、気味が悪いだけで終わらない程度には、魅力的でもあった。
もし本当に見たい夢が見られるなら。
もし、ほんの少しでも、自分が望む側へ行けるなら。
そんなの、断る理由があるだろうか。
白い空間は静かで、俺の考えを急かさない。
IRISも急かさなかった。
ただ、こちらが答えるのを待っている。
「……一回だけ」
気づいたら、そう言っていた。
「一回だけ、試してみる」
「ええ」
「変な夢だったら、もうやめる」
「いいわ」
「ていうか、本当に見せられるのかよ」
「見れば分かる」
IRISの返事は、またそれだった。
けれど今度は腹が立たない。
白い空間の向こうで何かがわずかに動き始めた気がしたからだ。
「最初は軽いものにしましょう」
「軽いもの?」
「あなたが一番喜びそうなもの」
言い返す前に、視界の白がほどけた。
霧みたいだったものが風みたいに流れていく。
足元の感覚が消えて、代わりに高いところへ立っている感覚が生まれる。
夜の空気。街の光。遠くの喧騒。
目の前の景色が一気に変わった。
高いビルの屋上だった。
フェンスの向こうに街が広がっている。車のライトが線になって流れていて、看板のネオンが滲む。
風が強いのに、寒くない。
それどころか、体は妙に軽かった。
自分の手を見る。
黒と銀の、見たことのない装具みたいなものが腕を覆っている。服も、いつものパジャマでも制服でもない。映画かアニメに出てくるヒーローみたいな服装だった。
「……え」
その瞬間、下の通りから悲鳴が上がった。
大型トラックが信号を無視して突っ込んでいく。ブレーキ音。逃げる人。誰かが転ぶ。
考えるより先に体が動いた。
飛べる、と思った。
その感覚に驚く前に、俺の体は屋上から躍り出ていた。
怖くない。落ちるんじゃない。むしろ、自分は最初からこうやって動ける体だったんじゃないかと思うくらい自然だった。
次の瞬間、俺は道路の真ん中に立っていて、片手でトラックを止めていた。
金属が軋む。タイヤが火花を散らす。
衝撃が腕を伝ってくるのに、全然痛くない。
むしろ、ひどく気持ちよかった。
周りからどよめきが広がる。
「すご……」
「助かった……!」
「誰だよ、あの人!」
人が見る。
人が息を呑む。
人が自分を必要とする。
それだけで胸の奥が熱くなる。
歩道で尻もちをついていた女の子が、震えながら俺を見上げた。
学校で見かける可愛い子によく似ていた。いや、たぶんそっくりだった。現実では俺なんかにろくに話しかけもしない相手が、今は泣きそうな顔で、まっすぐこっちを見ている。
「ありがとう……助けてくれて……」
その一言で、頭の中が真っ白になる。
嬉しい。
笑いたくなるくらい、嬉しい。
世界の中心に立つって、こういうことなんだろうかと思った。
強いとか、有名とか、それだけじゃない。
ちゃんと見られる。ちゃんと求められる。自分がいた意味が、その場で分かる。
夢はさらに続いた。
テレビ局のカメラ。
街頭モニターに映る自分。
憧れの目。
感謝の声。
俺が来れば安心する人たち。
俺にしかできないことがあるという確信。
それは馬鹿みたいに分かりやすくて、分かりやすいからこそ、抗えないほど気持ちよかった。
そして、ふっと景色が切り替わる。
また白い空間だった。
IRISが少し離れたところに立っている。
「どうだった?」
喉が渇いていた。
いや、実際に渇いていたのかは分からない。けれど何かを飲み込もうとして、うまくできない感じがあった。
「……すごかった」
それしか言えなかった。
「そう」
IRISはいつも通り静かに頷く。
俺がどれだけ動揺していても、彼女の方は何も変わらない。
「これ、本当に夢?」
「ええ」
「こんなの、ありかよ」
「あなたは見たかったのでしょう」
その通りだった。
否定できない。
見たかった。
こういうのをずっと見たかった。
選ばれて、必要とされて、自分だけができることを持っている世界を。
IRISは俺をじっと見ていた。
その視線はやっぱり乾いていて、優しそうに見えるのに、手を伸ばせばすり抜けそうな距離があった。
「また見たい?」
その問いに、俺は少しだけ黙った。
普通なら、もっと警戒するべきなのかもしれない。
都合がよすぎるし、うますぎる。
けれど、そんな理屈は、夢の余熱の前ではあまり意味を持たなかった。
「……見たい」
自分でも驚くほど素直に、そう言っていた。
「そう」
IRISはそれだけ言った。
嬉しそうでもなく、満足そうでもなく、ただ記録にひとつ印をつけるみたいな、静かな声だった。
それでも、その夜の俺には十分だった。
目が覚めたとき、自分の部屋の天井は、少しだけ薄汚れて見えた。
朝の光。
散らかった教科書。
いつものカーテン。
いつもの部屋。
何も変わっていない。
なのに、変わってしまった気がした。
夢の中の熱が、まだ体の奥に残っている。
腕を握れば、さっきまで本当にトラックを止めていたような錯覚がある。
学校へ行く支度をしながらも、頭のどこかはずっと昨夜の夢に触れていた。
通学路を歩き、教室へ入り、いつもの席に座っても、景色の全部が一枚薄いフィルター越しみたいに見える。
窓に映る自分は、ただの中学生だった。
でも昨夜、俺は違った。
その差が、思っていたよりずっと大きかった。
授業中、先生の声が遠く聞こえる。
ノートを取る手が少し遅れる。
視線だけが窓の外へ逃げていく。
早く夜にならないかな、と考えている自分に、そのとき初めて気づいた。
放課後、帰り道でコンビニのガラスに映る自分を見た。
そこにいるのは相変わらず、特徴のない、どこにでもいる男子中学生だった。
でも、昨夜の夢を知ってしまった今、その顔は前より少しだけ空っぽに見えた。
夜になれば、また会えるだろうか。
またあの白い場所へ行けるだろうか。
また欲しいものを見せてもらえるだろうか。
その考えが、胸の奥に小さく残り続けた。
たぶん、その時点でもう、少しだけ遅かったのだと思う。




