俺の街
離れたつもりでも、戦闘音はどこまでも追いかけてきた。
一本路地を曲がって、さらに二本先まで走って、ようやく少しだけ呼吸が整った頃にも、空のどこかで鈍い音が鳴っていた。地面の底から叩かれるみたいな重い音だ。トライアンフマンの一撃か、レクイエムの回避か、その両方か。もう考えるのも嫌だった。
ガンツとは途中ではぐれた。
あいつはあいつで請けた修理先があるらしく、「生きてたら後で連絡しろ」とだけ言って走っていった。俺は返事もしないまま、自分の店へ戻る道を選んだ。どこにいたって同じなら、せめて自分の街にいたかった。
通りを渡るたび、街の顔が少しずつ変わっていくのが分かった。
港に近い方は、派手に抉れている。
中心街は、人と警備と規制線だらけだ。
そこから少し外れたこの辺りは、一見するとまだ無事に見える。
けど、無事に見えるだけだった。
歩道の端には細かいガラスが散っていて、靴底でしゃりしゃり鳴る。二階の窓が何枚か抜けてる家。壁に見たことのない亀裂が走ってるビル。焦げた匂いより、粉っぽい匂いの方が強い。まだ壊れ切ってない分だけ、かえって生々しかった。
俺の店がある通りへ入った時、最初に見えたのは人だかりだった。
嫌な予感というより、もう答えを見せられた気分だった。
足が勝手に速くなる。
走る。
人を掻き分ける。
そのたび、誰かの肩にぶつかって舌打ちされる。謝る余裕もなかった。
「すみません、通して」
「おい、危ないぞ」
「そこ、近づくなって――」
声を無視して前へ出た。
それから、止まった。
俺の店は、店じゃなくなっていた。
正面の壁が、斜めにごっそり消えている。
シャッターは半分千切れて、ぐしゃぐしゃにねじれていた。
看板は文字の途中から折れて、道の真ん中に落ちている。
中の棚も、机も、工具箱も、何もかも粉と瓦礫に埋もれていて、どこまでが店でどこからが外なのか、一瞬分からなかった。
親父が作った作業台だけが、奥の方で変な角度のまま引っかかっている。
見覚えのある木目だった。
それでようやく、これは本当に俺の店なんだと分かった。
「おい、あんた」
「近づくな、危険だ!」
警備員らしい男が腕を伸ばしてきたが、俺はそれを振り払った。足元の瓦礫を蹴散らして、店の前まで行く。靴の下で何かが割れる。工具か、ガラスか、もうどうでもよかった。
さっきまであったものが、なくなっている。
頭の中で、その事実だけが変に静かに繰り返される。
朝出る時、壁際に立てかけてあった脚立。
窓際に置いていた細いパイプ材。
親父の代から使ってる溶接機。
最近買い替えたばかりの小型コンプレッサー。
奥の棚に積んでた請求書の控え。
その全部が、今は見つける方が難しい。
「……なんだよ、これ」
自分の声が、自分のものじゃないみたいに遠く聞こえた。
警備員が後ろから何か言っている。
「戦闘の余波です、危険ですから」
「余波?」
「トライアンフマンがレクイエムを――」
そこで言葉が途切れたのは、俺の顔を見たからだと思う。
余波。
便利な言い方だ。
台風みたいだ。
事故みたいだ。
仕方なかったことみたいに聞こえる。
俺は崩れた壁の縁へ手を置いた。ざらざらしていた。ついさっきまでまっすぐ立っていたはずのコンクリが、変な角度で断ち切られている。熱で溶けた跡がある。トライアンフマンの光の線だ。見慣れてる。見慣れたくなんかないのに、見慣れてしまった。
レクイエムを追った一撃が、こっちまで抜けたんだろう。
たぶん、狙い自体は外してない。
たぶん、レクイエムが躱した。
たぶん、トライアンフマンは悪くない。
その“たぶん”が、余計に腹立たしかった。
店の隣のクリーニング屋の親父が、少し離れたところから俺を見ていた。言葉を選ぶみたいな顔で、何度か口を開いて、結局こう言った。
「命があってよかったな」
そうだ。
本当に、その通りだ。
朝、俺が店にいなくてよかった。
ここにいたら、たぶん死んでた。
命があるだけマシだ。
分かってる。
分かってるけど。
「……そうっすね」
それしか言えなかった。
クリーニング屋の親父は気まずそうに視線を逸らした。悪気はない。慰めようとしてくれただけだ。そういうのも分かる。分かるから、余計に何も返せない。
「補償、出るといいな」
「でしょうね」
「トライアンフマンも守るためにやってるんだろうし」
「そうでしょうね」
自分でも驚くくらい平坦な声が出た。
怒鳴る気力もなかった。
その時、規制線の向こうで誰かが叫んだ。
「映る? こっちの角度の方がよくない?」
「待って、今ライブ入れてる」
若い男女が二人、スマホを構えて俺の店を撮っていた。瓦礫の前で、自分たちがフレームに入る位置を探している。背景に壊れた店。口元だけ引き締めた顔。たぶん“現場”の空気を出したいんだろう。
俺はそっちを見た。
男の方が一瞬だけ気まずそうにしたが、すぐに視線を逸らした。女は小声で「やば」と笑って、少し位置をずらしただけだった。
もう一度、店を見る。
不思議なくらい実感がなかった。
泣くとか、怒るとか、そういうのじゃない。ただ、頭の中で何かが遅れている感じだった。目の前の光景に、気持ちが追いつかない。
親父が死んだ時も少し似ていた。
葬式の間、俺はずっと変に冷静だった。手続きして、頭下げて、連絡して、店をどうするか考えて、全部終わった夜にようやく、作業台の上に残ってた古い煙草の箱を見て、膝から崩れた。
今もたぶん、そういう遅れ方をしているんだと思う。
警備員が近づいてきて、今度は少し柔らかい声で言った。
「お店の方ですか」
「……そうです」
「危ないので、中には入れません。崩落の可能性があります」
「道具だけでも」
「今は無理です。あとで調査が入ります」
「あとでって、いつですか」
「それは……順番があるので」
順番。
また便利な言葉だ。
補償も順番。
調査も順番。
復旧も順番。
そうしてる間に、店は冷えて、客は離れて、請求書だけが積もる。
「すぐ必要なものがあるなら、申請を」
「紙ですか」
「はい」
「どこで」
「区役所の臨時窓口か、オンラインで」
「壊れた店の店主が、今この場で?」
警備員は口をつぐんだ。
責めても仕方ない。
この男が店を壊したわけじゃない。
分かってるのに、言葉が勝手に尖る。
俺は深く息を吐いた。粉っぽい匂いが肺に入る。咳が出る。崩れた壁の隙間から、見慣れたものが少しだけ見えていた。親父が使ってた古いスパナだ。持ち手のところに、小さな欠けがあるやつ。
それだけで胸の奥がずるっと重くなる。
「……あれだけでも」
「危険です」
「見えてるんです」
「分かります。でも今は――」
「俺のなんです」
たぶん、少しだけ声が大きくなっていた。
周りの視線が集まる。
やめろ、と思う。
みっともない。
けど止まらない。
「俺の店で、俺の道具で、俺が使ってたやつなんです。朝までそこにあったんですよ」
警備員は困った顔をした。
それから、小さく息を吐いて言った。
「……少しだけなら」
崩れた正面の一番手前、踏み込まなくても届く場所だけ。そう念を押されて、俺は瓦礫の縁へしゃがみ込んだ。伸ばした手の先、粉だらけのスパナを指先で引っ掛ける。あと少し。もう少し。
その時、上の方でぱき、と嫌な音がした。
「下がれ!」
警備員に肩を掴まれて後ろへ引かれる。ほぼ同時に、崩れた壁の一部が内側から落ちてきた。粉塵が舞い上がる。視界が白く濁る。咳き込む。
スパナは、見えなくなった。
俺はその白い粉の向こうを見つめたまま、立ち尽くしていた。
「だから危ないって……!」
警備員が怒ったように言う。
正しい。
全部正しい。
俺は小さくうなずいて、一歩下がった。
もういい、と思った。
どうでもいい、じゃない。
もうこれ以上、何かを取り戻そうとする気力が湧かなかった。
午後になると、街のそこかしこで「トライアンフマンがまた市民を救った」という速報が流れ始めた。
大型ビジョンでは、さっき交差点で助けられた運転手のインタビューが繰り返し流れている。顔に絆創膏を貼った男が、泣きながら言う。
『あの人がいなかったら、俺は確実に死んでました』
それも本当だ。
誰も嘘は言っていない。
『トライアンフマンは、やっぱりこの街の誇りです』
その言葉に、画面の横で派手なテロップが躍る。
街を守る希望の象徴!
勝利は目前か!
俺は通りの向かいからその画面を見た。
その下にあるのは、俺の壊れた店だった。
通りかかった主婦二人組が、店を見てひそひそ話している。
「ここもやられたのね」
「気の毒だけど、もっと大きい被害のとこもあるしねえ」
「トライアンフマンも大変よね」
「ほんとほんと、あんな危ない相手と戦って」
店の前に立ってる俺には、気づいてないみたいだった。
責める気にもなれない。
たぶんあの人たちは、悪い人じゃない。
ただ、自分の生活がまだ壊れてない側の人間なだけだ。
それだけの違いだ。
日が少し傾いた頃、区の職員らしい男がやってきた。タブレットを持って、被害状況の簡易確認をして回っている。俺の店の前でも立ち止まり、写真を撮って、何かを入力していた。
「営業再開の見込みは?」
見込み。
その言葉に、思わず笑いそうになった。
「ありませんよ、見ての通り」
職員は気まずそうに咳払いした。
「一応、暫定の被害分類では中規模以上になると思います」
「大規模じゃなくて?」
「全壊ではないので」
「これで?」
「躯体の一部が残っているので」
残っている。
たしかに、作業台の端とか、奥の壁とか、そういうものは残っている。
だから何だ。
「補償の申請は」
「しますよ」
「必要書類が――」
「分かってます」
職員は何か言いかけて、やめた。
代わりに事務的な声で、窓口の場所と受付時間だけ伝えて去っていった。
その背中を見送りながら、俺はふと思った。
この街は、何でも名前をつけたがる。
余波。
中規模。
一部損壊。
戦闘拡大。
市民保護。
そうやって名前をつければ、現実の触り心地が少し薄くなる。店が壊れたんじゃなくて、一部損壊になる。暮らしが潰れたんじゃなくて、被害になる。もう元には戻らないかもしれないのに、書類の上では次の項目へ進める。
気づけば、通りの反対側で子どもがトライアンフマンの真似をしていた。
片腕を上げて、空を飛ぶふりをする。
もう一人がヴィラン役になって、わざと大げさに吹き飛ばされる。
母親がスマホでその様子を撮って、笑っている。
そのすぐ横に、俺の潰れた店がある。
何だか全部が遠く感じた。
同じ街にいるはずなのに、見えてる景色が違いすぎる。
夕方近くになって、ようやくガンツから連絡が来た。
『生きてるか』
それだけだった。
俺は少し考えてから、短く返した。
『店が死んだ』
すぐに電話が鳴った。
出ると、ガンツはしばらく何も言わなかった。たぶん何て言えばいいか分からなかったんだろう。俺も同じだった。
『……どのくらいだ』
「かなり」
『そうか』
「うん」
『お前、今どこだ』
「店の前」
『まだいるのかよ』
「ここ以外、行くとこないだろ」
『避難所でも友達んとこでもあるだろ』
「今日はここがいい」
電話の向こうで、小さくため息がした。
『飲むか』
「今そんな気分じゃない」
『そうじゃねえよ。飯だ』
「……腹減ってない」
『減ってなくても食え。倒れるぞ』
しばらく黙ったあと、俺は言った。
「後で考える」
『考えるな。食え』
そう言って、ガンツは電話を切った。
少しだけ、ありがたかった。
でも結局、その場を動く気にはなれなかった。
瓦礫の前にしゃがみ込んで、崩れた店をぼんやり見る。通りを行き交う人間は少しずつ減っていった。日が落ちるにつれて、街の騒ぎも別の種類の疲れに変わっていく。
どこかでまた拍手が起きた。
大型ビジョンを見ると、トライアンフマンが空へ拳を突き上げていた。どうやらレクイエムを市街地外へ追い出したらしい。司会者が熱狂した声で叫んでいる。
脅威は去りました!
トライアンフマンの勝利です!
周囲から安堵の声が上がる。
よかった、という声。
助かった、という声。
明日からまた頑張ろう、という声。
俺はその画面を見て、それから自分の店を見た。
頑張るって、何をだ。
また直すのか。
また書類を出すのか。
また元通りにするのか。
何度でも。
頭の中に、言葉がひとつ浮かぶ。
また復興かよ。
それだけだった。
怒りより、先に来たのは疲れだった。
もう嫌だ、とかでもない。
ふざけるな、とかでもない。
ただ、ひどく疲れていた。
壊されるたびに、直して。
称賛の声を聞きながら、請求書を書いて。
守られたってことにして、飲み込んで。
また次が来たら、同じことをする。
その繰り返しが、急に果てしなく見えた。
親父の作業台の端が、瓦礫の中から少しだけ見えている。
さっき取れなかったスパナは、もうどこにあるのか分からない。
明日になれば、調査だの申請だので人が来るんだろう。
誰も悪くない顔で、必要な手続きを説明していくんだろう。
その全部が、急に遠かった。
俺は膝に肘を乗せて、顔を伏せた。
泣く気にはなれなかった。
泣くほどきれいに悲しくもなかった。
ただ、自分の街だと思っていた場所が、いつの間にか俺のものじゃなくなっていた気がした。
守られる側って、こういうことなんだろうかと思った。
助けられるたびに、自分の暮らしの形を少しずつ削られていく。
それでも感謝しろって顔をされる。
正しいから、何も言えない。
その正しさが、今日はひどく冷たかった。




