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IRIS-Log-Archive  作者: IRIS
トライアンフマン_IRIS.log

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226/258

正義の進軍

吐いたのは、三本目の路地を曲がったところだった。


壁に手をついて、胃の中のものを全部吐き出して、それでも気持ち悪さは残った。喉が焼けて、目の奥がじんじんする。さっき見たもののせいなのか、走ったせいなのか、自分でももうよく分からなかった。


石畳の隙間に落ちた胃液を見ながら、俺は何度か息を整えようとした。


無理だった。


目を閉じると、白い手袋が浮かぶ。

男の首が落ちる。

上半身と下半身がずれる。

それがひどく静かで、ひどく綺麗だったことまで、一緒に思い出してしまう。


「……くそ」


吐き捨てた声は掠れていた。


誰かに言えばよかったのかもしれない。路地裏で人が殺されたって。ヴェルヴェット・レクイエムがまだ近くにいるかもしれないって。けど、何をどう言えばいいのか、頭の中がまとまらない。そもそも、俺が見たことを信じる人間がどれだけいるのかも分からなかった。


レクイエムに見逃された。


その事実だけでもう、妙に後ろ暗い。


俺は口元を拭って、ふらつく足で大通りへ戻った。


さっきまで戦闘の気配で張り詰めていた街は、少しずつ別の顔になり始めていた。緊急車両が行き交い、規制線が張られ、ドローンが上空を飛び回る。ビルの壁面ビジョンはさっきからずっと同じ映像を繰り返していた。トライアンフマンが港で着地した場面、空を裂くように飛ぶ場面、拳を振り抜く場面。


どの映像も、切り取られ方が上手い。


瓦礫は映る。

でも、その下にいたかもしれない誰かは映らない。


爆炎は映る。

でも、吹き飛んだ店の看板や、抉れた舗装や、割れたショーウィンドウの掃除をする人間は映らない。


代わりに、勇敢だの、守護者だの、希望だの、そういう綺麗な言葉ばかりが画面の端を流れていく。


通りの真ん中で、誰かが拍手していた。


つられて何人かも手を叩く。

まだ何も終わってないのに。

レクイエムが捕まったかどうかも分からないのに。


その輪の中で、中年の男が声を張り上げる。


「やっぱりトライアンフマンだ! あの人がいれば大丈夫なんだよ!」


周りが頷く。

そうだそうだと声が返る。


俺はその横を通り過ぎながら、妙に耳の奥だけが冷えていくのを感じていた。


大丈夫。


便利な言葉だ。


何がどれだけ壊れても、とりあえずそう言っておけば、今すぐ目の前の不安だけは誤魔化せる。


「おい!」


肩を掴まれて振り向くと、ガンツだった。さっき別れた時よりずっと顔色が悪い。額のかすり傷から血が乾いて、汚く筋になっている。


「お前、どこ行ってた」

「ちょっと様子見てた」

「顔、やばいぞ」

「そうか?」

「見りゃ分かる」


ガンツは俺の顔を覗き込んで、それから周りを一度見回した。


「何か見たのか」


返事に詰まった。


ガンツは同業で、付き合いも長い。口は悪いが余計な詮索はしない男だ。だからこそ、逆に今ここで話したら、現実になってしまう気がした。


「……レクイエムが近くにいた」


言った瞬間、自分の声がひどく小さく聞こえた。


ガンツの目が細くなる。


「どこで」

「劇場跡の裏」

「今も?」

「分からない。もういなかった」


そこまで言って、喉が詰まる。


「人が死んだ」


ガンツは何も言わなかった。

言えなかったんだろうと思う。


代わりに、ぐっと顎を引いて、それから低い声で言った。


「警備に言うぞ」

「言ってどうなる」

「言わねえよりマシだ」

「どうせトライアンフマンが追ってるって返されるだけだろ」

「じゃあ黙ってるのかよ」


その時、通りの先で歓声が上がった。


俺たちは反射的にそっちを見る。


高架道路の上に、赤と青の影が降り立っていた。


トライアンフマンだ。


陽を受けてスーツの金色がぎらつく。胸のエンブレムは遠目にもよく見えた。片膝をついた着地姿勢からゆっくり立ち上がるだけで、周囲の人間が湧く。スマホを向けるやつ、名前を叫ぶやつ、泣きそうな顔で拝むやつまでいた。


トライアンフマンは高架の上から街を見渡していた。


本当に、絵になる。


立っているだけで、あいつだけ別の作品の人間みたいだった。背筋が伸びていて、腕も脚も無駄がなくて、風に煽られるマントまで計算されてるみたいに見える。あれを見て子どもが憧れるのは、分からなくもなかった。


高架下のスピーカーが一斉に鳴る。


街頭放送に割り込む形で、男の声が響いた。

低く、よく通る、無駄に安心感のある声。


『市民諸君、安心してくれ』


通りのざわめきが静まる。


俺も、ガンツも、足を止めて聞いていた。


『ヴェルヴェット・レクイエムの所在は把握している。これ以上、犠牲は出させない』


歓声が上がる。

誰かが「トライアンフマン!」と叫ぶ。

別の誰かが泣きながら手を振る。


『君たちは下がっていてくれ。守るのは私の仕事だ』


その言葉だけ聞けば、完璧だった。


強くて。

頼もしくて。

迷いがなくて。

正義の味方そのものだ。


俺だって、言葉だけなら嫌いじゃなかった。

むしろ好きな部類かもしれない。


これ以上、犠牲は出させない。


そう言い切ってくれるやつがいたら、楽だ。

信じて、任せて、待っていればいい。

自分の生活を壊される側の人間にとって、その“待ってればいい”って感覚は甘い毒みたいなもんだ。


トライアンフマンが腕を上げる。


その手首の装甲が、かすかに唸った。

次の瞬間、高架の端から端まで白い光の線が走った。


俺は何が起きたのか一瞬分からなかった。


遅れて、通りの三つ向こうのビルが弾けた。


窓が何十枚もまとめて砕け、外壁がめくれ、粉塵が噴き上がる。悲鳴。車の急ブレーキ。ガンツが俺の腕を引く。


「伏せろ!」


しゃがみ込むのと同時に、ガラス片が雨みたいに降ってきた。背中と肩に小さな衝撃がいくつも当たる。周りでも誰かが泣き叫んでいた。さっきまで拍手してた連中が、頭を庇って地面に這いつくばっている。


俺は顔を上げた。


ビルの崩れた壁面の向こう、ほんの一瞬だけ、暗い色のコートが翻ったのが見えた。


レクイエムだ。


回避した。

トライアンフマンの攻撃を躱して、ビルの裏へ抜けた。


その軌道を追うように、トライアンフマンが高架から飛ぶ。

空気が裂ける。

着地の前にまた一発、今度はもっと太い光が走った。


レクイエムは消える。

代わりに、無人だったはずの駐車場の端がまとめて抉れる。

コンクリ片が跳ねる。

規制線が吹き飛ぶ。


『下がっていてくれ!』


街頭スピーカーから、再びトライアンフマンの声が響く。


下がれって言われても、もう巻き込まれてる。


俺は奥歯を噛んだ。

ガンツも顔を歪めている。


それでも周りにはまだ、トライアンフマンを信じた顔をしてる人間がいた。怯えてはいる。叫んでもいる。なのに、そのどこかで「きっと倒してくれる」と思ってるのが分かる。


それが悪いとは言えない。


悪いとは言えないけど。


目の前で壊れていくものが、自分の知らないどこかじゃなく、今立ってる足元と繋がった街そのものだと、いつになったら分かるんだろうと思った。


レクイエムが次に現れたのは、もっと近くだった。


交差点の向こう側、信号柱のてっぺん。

あんな細い場所に、何でもないみたいに立っていた。

コートの裾が静かに垂れて、白い手袋だけがやけに目につく。


悲鳴が上がる。


レクイエムはそれを聞いても、まるで気にした様子もない。

ただ高架の上から飛びかかってくるトライアンフマンを見上げて、ほんの少しだけ腕を広げた。


歓迎でもするみたいに。


その仕草が、ひどく腹立たしかった。


やってることは人殺しのくせに。

何もかも汚してるくせに。

なのに、こいつは自分の周りだけは綺麗なまま通り抜けていく。


トライアンフマンの拳が落ちる。


直撃したように見えた。

けどレクイエムは、その直前で細く身を滑らせた。信号柱が砕ける。交差点の舗装がめくれ上がる。停まっていた配送トラックが横転する。


その運転席から、男が転がり出た。


生きている。

頭を押さえて、半分這うみたいに逃げようとしている。


俺は息を呑んだ。


トライアンフマンの視線は、もうレクイエムしか追っていない。

レクイエムはその視線を楽しんでるみたいに、少しだけ後ろへ下がる。


その間に、運転手の男が立ち上がりかけた。


レクイエムがそっちを見た。


その時だけだった。

あいつの動きが、一瞬だけ、ほんの一瞬だけ優しく見えたのは。


白い手袋が、男の首筋へ伸びる。


俺は叫んでいた。


「逃げろ!」


声が届いたかは分からない。


男が振り向くより早く、トライアンフマンがその間へ飛び込んだ。レクイエムの腕を弾き、男の体を片手で掴んで投げるように後ろへ逃がす。


助かった。


本当に、助かった。

それは確かだった。


通りじゅうから歓声が上がる。

また拍手が起こる。

誰かが「やった!」と泣きながら叫ぶ。


トライアンフマンは運転手を背に庇うように立ち、レクイエムを睨みつけた。


「これ以上、お前の好きにはさせない」


ああ、やっぱり、正しい。


その言葉も、その立ち方も、その声も。

何も間違っていない。

正義の味方って、たぶんこういうやつのことを言うんだろう。


レクイエムは少しだけ首を傾げた。

離れた場所にいる俺には、その顔までは見えない。

でも、なんとなく笑ってる気がした。


次の瞬間、二人の姿がぶつかる。


衝撃。

爆音。

地面が跳ねる。

悲鳴。


俺の視界の端で、交差点の角にあった古い花屋の壁が、ごっそり抉れた。


色とりどりの花が宙へ舞って、白い粉塵にまみれて落ちていく。

水の入ったバケツがひっくり返り、割れたガラスの上を花弁が流れていく。


さっき助かった運転手は、道路の端で震えている。

そのすぐ横で、店の婆さんが呆然と、自分の潰れた店先を見ていた。


トライアンフマンはまだ立っている。

レクイエムもまだ消えていない。

戦いは続いている。


そして、守られたはずの場所から、また別の何かが壊れていく。


俺はその光景を見ながら、胸の奥に重たいものが沈んでいくのを感じていた。


正しい。

正しいんだろう。

でも、正しさの通り道が、あまりにも汚い。


その感覚だけが、さっきからずっと離れなかった。


ガンツが俺の袖を掴む。


「離れるぞ! 今度はこっち来る!」


俺は頷いて、走り出した。

背後ではまだ歓声と悲鳴が入り混じっていた。


トライアンフマンが市民を救った、って、たぶん今日もニュースは言うんだろう。


その横で、潰れた花屋の花びらを誰が掃くのかまでは、きっと映らない。

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