鮮やかな悪
地下避難区画の扉が閉まる音は、棺桶みたいだと思う。
分厚い鉄の板が唸りながら噛み合って、最後に重たい鍵の音が響く。その瞬間だけ、外の世界と切り離された感じがする。助かった、と思うやつもいるんだろう。実際、泣き出した子どもを抱きしめてしゃがみ込む母親もいたし、床にへたり込んで何度も「よかった」と呟いてる男もいた。
けど俺は、あの音を聞くたび、閉じ込められた気分になる。
じいさんをベンチへ座らせると、ようやく息がつけた。足の悪いじいさんは真っ青な顔で肩を上下させていたが、死にそうではなさそうだった。係員が毛布と水を持ってきて、俺に向かって「あなたも座ってください」と言ったけど、そんな気にはなれなかった。
頭の上で、鈍い衝撃音が何度も響く。
地下まで落ちてくるほどの音だ。床もたまに微かに震える。誰も口には出さないが、みんな何が起きてるかは分かっていた。トライアンフマンとヴェルヴェット・レクイエムが、まだ上でやり合ってる。
避難区画の奥では、小型モニターが緊急放送を流していた。音量は絞られてるのに、テロップだけで十分だった。
市街地へ戦闘拡大の恐れ
当該区画の市民は避難継続を
トライアンフマン、交戦中
交戦中、ね。
そのたった四文字のせいで、こっちはシャッターを閉めて、店を空けて、仕事道具を抱えて、地下に押し込まれてる。
俺は壁にもたれて目を閉じた。瞼の裏にさっきの映像がちらつく。しゃがみ込んだ男。白い手袋。首が落ちる瞬間。悲鳴より先に、自分が「綺麗だ」と思ってしまったこと。思い出すだけで胃がきしんだ。
「お兄ちゃん」
声をかけられて目を開けると、六つか七つくらいのガキが俺を見上げていた。避難の途中で泣き疲れたのか、鼻を赤くしている。
「トライアンフマン、勝つよね?」
母親らしい女が「やめなさい」と手を引こうとしたが、ガキはじっと俺を見ていた。
俺は少し考えてから言った。
「たぶん」
それが一番無難だった。
ガキはほっとしたみたいに頷いて、母親の方へ戻っていく。女は小さく頭を下げた。俺も会釈だけ返す。
たぶん、か。
勝つだろう。
たいてい勝つ。
いつも最後に立ってるのはトライアンフマンだ。
問題は、そのあとだ。
どれくらい壊れてるのか。
どこまで飛んでるのか。
誰の店が潰れて、誰の家の窓が全部抜けて、誰がもう立て直せないか。
そっちの方が、俺にはよっぽど現実だった。
一時間くらい経ったと思う。もっとかもしれない。地下にいると時間の感覚が狂う。外の戦闘音は少しずつ遠のいて、それでもたまに思い出したみたいに壁を揺らした。避難区画の空気は人いきれと不安で重くなり、誰もが疲れた顔をしていた。
やがて、モニターの表示が変わる。
戦闘反応、市街地外縁へ移動
一部区画の避難指示を解除します
ざわめきが起きた。
係員の説明じゃ、この区画の危険度は下がったらしい。まだ完全解除じゃないが、帰宅や営業再開は自己判断、という一番困るやつだ。責任は持たないけど好きにしろ、って意味だからだ。
俺は真っ先に立ち上がった。
「もう行くのかい」
じいさんがベンチから見上げる。
「店見てきます」
「物好きだねえ」
「仕事なんで」
じいさんは疲れた顔で笑った。
「死ぬなよ」
「今日はそればっかり言われるな」
鉄の扉が開くと、外の光がやけに白く感じた。
通りへ出た瞬間、鼻に入ってきたのは焦げた匂いだった。何かが盛大に燃えたわけじゃない。もっと薄くて広い、熱と粉塵が混ざった匂い。戦いのあとにはいつも残るやつだ。
街は、想像してたより静かだった。
人通りは少ない。みんな恐る恐る出てきて、まずは上を見上げ、それから自分の店や家の無事を確かめている。泣いてるやつも、怒鳴ってるやつも、まだ少ない。現実を飲み込みきれてない時の顔だ。
俺は通りを歩きながら、壊れた箇所を目で拾っていった。
街路樹が一本、根元から折れている。
ビルの外壁が大きく抉れている。
さっきまで無事だったはずの電器屋のショーウィンドウが丸ごと消えてる。
道路にはひびが走って、信号の柱が変な角度に傾いていた。
派手だ。
いつものことだが、やっぱり派手だ。
なのに妙に、ばらつきがある。
通りひとつ全部が吹き飛んでるわけじゃない。抉れてる場所と、ほとんど無傷の場所が、まだらに並んでいる。トライアンフマンの一撃か、レクイエムの回避の軌道か、その両方か。考えるだけで嫌になった。
自分の店へ向かう途中、港湾区の方角からパトカーと救急車が何台も上がってきた。サイレンはもう緊急時の勢いじゃなく、疲れ切ったみたいに細く鳴っている。俺はその脇を抜けて、店先まで急いだ。
シャッターは半分開いたままだった。
朝、出る時に中途半端にしてたのを思い出す。嫌な予感がして走り寄る。工具箱を足元へ置いて、軋むシャッターを持ち上げた。
中は、思ったより無事だった。
棚の上の小物はいくつか落ちてる。ガラスケースも一枚割れてる。壁にひびは入ってるが、商売が終わるほどじゃない。俺は胸の奥の力が少し抜けるのを感じた。
「……マシな方か」
言ってから、そう思ってしまう自分が嫌だった。
もっと酷い店が山ほどあるんだろう。
でも、自分のとこが無事ならそれでほっとする。
当たり前だけど、嫌な当たり前だ。
散らばった工具を拾い集めてると、店の外から足音がした。振り向くと、ガンツが立っていた。額にうっすら血がついてる。
「生きてたか」
「お前もな。その頭どうした」
「飛んできた看板がかすった」
「そりゃ災難だな」
「笑えねえよ」
ガンツは店の中を見回して、短く口笛を吹いた。
「お前んとこ、軽いな」
「運がよかっただけだ」
「オレんとこ、倉庫の窓全部抜けた」
「補償は?」
「聞くな」
二人でしばらく黙った。
外では遠くから怒号が聞こえる。誰かが店先で泣いてる声もする。街はこれから本格的に、戦闘後の顔になっていくんだろう。
「なあ」
ガンツが少し声を落とした。
「レクイエム、まだこの辺にいるって話、聞いたか」
「は?」
「港から逃げた、って」
「トライアンフマンがいるのにか」
「だからだよ。あいつ、いつもまともにぶつからねえだろ。出て、殺して、消える」
噂だ。
そう思ったが、ガンツの顔は冗談を言ってる顔じゃなかった。
「誰が言ってた」
「搬送の連中。港の外れで見失ったらしい」
「見失うなよ」
「見失うだろ。あの手のやつは」
たしかに、と思ってしまった。
トライアンフマンみたいなやつは、どこにいるかすぐ分かる。空を飛んで、光って、でかい音を出すから。けどレクイエムは違う。あいつは画面の中にいてさえ、立ってるだけで周囲から浮いていた。目立つのに、掴みどころがない。
「とにかく、しばらく外歩くなら気をつけろ」
ガンツはそう言って去っていった。額の血を袖で雑に拭いながら、次の修理先へ向かうんだろう。
俺は店の片付けを一通り終えたあと、結局また外へ出た。
こういう日にじっとしてるのが苦手だ。店にいても落ち着かないし、どうせすぐ近所から修理の声がかかる。だったら先に様子を見て回った方が早い。
通りを二本越えた辺りで、妙に静かな一角へ出た。
そこは古い劇場跡の裏手で、昼でも薄暗い。表通りの騒ぎが嘘みたいに音が遠い。足元には割れたレンガが散っていて、壁に細い傷が何本も走っていた。新しい傷だ。白く削れた断面がまだ粉を吹いている。
その時、話し声が聞こえた。
男の声が二つ。
ひとつはひどく怯えていて、早口で何か言い訳している。
もうひとつは静かで、妙に柔らかかった。
俺は反射で足を止めた。
覗くつもりはなかった。ほんの一瞬、様子を確かめて、危なそうなら引き返すつもりだった。けど、角の向こうから聞こえてきた次の一言で、体が固まった。
「そんなに震えなくても大丈夫ですよ」
柔らかい声だった。
慰めるみたいに、優しい声だった。
なのに、背中が冷えた。
そっと壁際へ寄って、角の向こうを覗く。
細い路地の先に、二人いた。
ひとりは上等なスーツの男。歳は四十前後くらいか。壁を背にして、顔色を失っていた。額の汗がここからでも見える。たぶん逃げ場を塞がれてる。
もうひとりは、長い暗色のコートをまとっていた。
風もないのに裾が静かに揺れている。
白い手袋。
夜みたいな色の布地。
横顔だけで分かった。
ヴェルヴェット・レクイエムだった。
心臓が嫌な音を立てる。
逃げろ。
そう思うのに、足が動かない。
スーツの男が何か必死に言っていた。
「ま、待ってくれ……私はただ運んだだけだ、指示された通りに――」
「ええ、知っています」
レクイエムは穏やかに頷いた。
「あなたはとても従順だった」
「なら――」
「だから、ここまで生き延びたんでしょうね」
声の調子が、あまりにも普通だった。
叱るでもなく、脅すでもなく、本当に世間話でもしてるみたいに聞こえる。そこが余計に怖い。
スーツの男が壁に手をついたまま、ずるずると崩れそうになる。
「た、助けてくれ……金なら」
「いりません」
「何でもする」
「それもいりません」
レクイエムは少しだけ首を傾げた。
「あなた、勘違いしているでしょう」
言いながら、一歩だけ近づく。
男はもう立ってるのがやっとだった。
「私は取引をしに来たんじゃない」
「ひっ……」
「あなたを殺しに来たんです」
その言い方が、あまりにもやわらかかった。
慰めるみたいだった。
眠れない子どもに「大丈夫ですよ」と言うみたいだった。
俺は喉が乾くのを感じた。
叫べない。
助けも呼べない。
ただ、見ていることしかできない。
スーツの男は最後の悪あがきみたいにポケットへ手を入れた。銃か何かだと思ったんだろう、自分でも。けど、その手が何かを掴む前に、レクイエムの白い指先がそっと男の胸元へ触れた。
触れた、ように見えた。
次の瞬間、スーツの男の体が前へずれた。
それだけだった。
派手な音も、閃光も、爆発もない。
男は自分がどうなったか分からない顔のまま一歩踏み出して、それから上半身と下半身が別々の方向へ崩れた。
あまりにも綺麗だった。
断面が、じゃない。
死に方が、だ。
糸で切ったみたいだった。
無駄がなかった。
汚さが遅れて追いついてくるまで、一瞬だけ、本当に静かだった。
血が石畳の隙間へ細く流れる。
レクイエムは一歩も下がらない。
コートの裾を汚さない。
まるでそれまで計算されていたみたいに。
俺は吐きそうになって、口を押さえた。
そのわずかな気配で、レクイエムの視線がこちらへ向いた。
終わった、と思った。
瞳の色までは分からない。
でも目が合ったのは分かった。
壁越しに、路地の奥から、真っ直ぐに見られた。
逃げろ。
今すぐ。
頭の中で誰かが叫ぶ。
けどレクイエムは動かなかった。
ほんの少しだけ、口元がやわらいだ気がした。
「見ていたんですか」
静かな声だった。
俺は返事ができなかった。
喉がひきつって、息しか出ない。
レクイエムは倒れた男を一瞥してから、また俺へ視線を戻した。
「困りましたね」
全然困ってるように聞こえない。
「でも、今日はもう十分です」
何が十分なんだ。
何人殺せば十分なんだ。
聞きたかったのに、声が出ない。
レクイエムは少しだけ考えるみたいに首を傾げ、それから信じられないほど普通の口調で言った。
「あなたは帰った方がいい」
その瞬間、背後の空が光った。
次いで、腹の底まで響く轟音。
劇場跡の壁がびりびりと震え、上から砂と欠片が降ってくる。反射で顔を庇って、もう一度前を見た時には、路地の先にレクイエムの姿はなかった。
残っていたのは、切り分けられた死体だけだった。
膝が笑った。
壁に手をつく。
息がうまく入らない。
さっきの光は、たぶんトライアンフマンだ。近い。かなり近い。
追いついたのか、追いついてないのかは分からない。
でも少なくとも、このすぐ上空か、隣の区画にはいる。
なのに、レクイエムは消えた。
あいつは人を殺した。
目の前で。
しかも、まるで気遣うみたいな声で。
それでいて最後に俺を見逃した。
見逃した、のか。
たまたま興味がなかっただけか。
どっちでもよかった。
最悪なのは、その全部を見たあとでも、俺の中に残っていた感覚だった。
怖かった。
ちゃんと怖かった。
悪だった。
人殺しだった。
吐き気がするくらい、間違いなく悪だった。
それでも。
あの死に方は、あまりにも鮮やかだった。
そのことを認めた瞬間、自分の腹の底に泥を流し込まれたみたいな気分になった。
遠くでまた歓声が上がる。
誰かが叫ぶ。
「トライアンフマンだ!」
俺は死体から目を逸らして、ふらつく足でその場を離れた。
走りながら、さっきレクイエムが言った言葉だけが、何度も頭の中で再生された。
あなたは帰った方がいい。
優しい言い方だった。
だから、余計に気持ち悪かった。




