壊される側
甲高い警報音は、慣れるものじゃない。
何度聞いても胃の奥が冷えるし、背骨の内側を硬い指でなぞられたみたいに体が強張る。通りにいた人間はみんな一度足を止めて、それからようやく思い出したように動き出した。子どもを引っ張る親、店のシャッターを慌てて下ろす店主、スマホを掲げてビジョンを撮り始める馬鹿。悲鳴と怒鳴り声が一気に混ざって、さっきまでただの朝だった通りが、数秒で別の場所みたいになった。
「おい、バアさん!」
パン屋の前にいたバアさんは、外した看板を抱えたまま固まっていた。俺が駆け寄ると、ようやく我に返ったみたいに目を瞬かせる。
「避難所、行けますか」
「足がねえ、遅くて」
「じゃあ裏から行きましょう。人通り少ないんで」
看板をひったくるみたいに受け取って店の中へ放り込み、俺はバアさんの腕を掴んだ。軽い。細い。骨と皮ばっかりだ。毎朝山ほどパンを焼いてるくせに、こんな細い腕でどうやって天板を持ってるのか不思議になるくらいだった。
表通りじゃ、すでに何人かが走り始めていた。避難誘導のドローンが飛び始めて、機械的な女の声が繰り返す。
『市民は最寄りの地下避難区画へ移動してください。繰り返します――』
その声を掻き消すみたいに、誰かが叫んだ。
「港湾区だ! 港湾区で反応が出たって!」
港湾区。
ここからまっすぐ行けば三十分ちょっと。近いとは言えない。でも遠いとも言えない距離だった。風向きと、戦い方次第で、こっちまで十分飛んでくる。
俺はバアさんの歩幅に合わせて路地へ入った。細い裏道は表通りほど騒がしくない。それでも、どの家の窓にも人の気配があって、カーテンの隙間から誰かが外を窺っているのが分かった。こういう時、みんな似た顔をする。怯えてるくせに、どこかでまだ「きっと大丈夫だ」と思いたがってる顔だ。
「トライアンフマン、来るかねえ」
バアさんが息を切らしながら言った。
「来るでしょ」
「来るなら安心かね」
「……どうでしょうね」
バアさんはそれ以上何も言わなかった。
地下避難区画の入り口は、古い商業ビルの裏手にある。普段は配送業者しか使わない搬入口みたいな場所だが、警報時だけ分厚い扉が開く。すでに何十人かが列を作っていて、係員が怒鳴るように案内していた。
「押さないでください! 走らないで! 老人と子どもを優先――」
そういうのを守るやつは半分もいない。
俺はバアさんを列の前の方へ押し込んだ。文句を言おうとした男がいたけど、バアさんの顔を見て、舌打ちだけして黙った。まだ理性が残ってるだけマシだ。
「お前は入らないのかい」
「店、閉めてないんで」
「そんなの今は――」
「工具もあるし。ちょっと見てきます」
半分は本当で、半分は嘘だった。
店のことも気になる。けどそれ以上に、俺は一度、表へ戻って空を見たかった。どれくらいの規模か、それを見ないと動きようがない。修理屋なんて仕事をしてると、最初に被害の形を見てしまう癖がつく。何が飛んできそうか、どこが潰れそうか、何が折れるか。嫌でも考える。
バアさんは何か言いたそうにしたけど、結局「死ぬんじゃないよ」とだけ言った。
「善処します」
俺は手を振って路地を戻った。
表通りへ出た瞬間、空気の色が変わっているのが分かった。
煙だ。
港の方角の空に、黒くて薄い筋が何本も伸びている。雲じゃない。もっと細くて、もっと不自然で、誰かが空へ黒いペンで斜めに線を引いたみたいな跡だった。大型ビジョンは緊急報道に切り替わっていて、ヘリからの映像を流している。港湾区の倉庫群。コンテナの山。逃げ惑う人間。砕けたクレーン。
その中心で、ひときわ目を引く色が揺れていた。
黒でも紫でもない。ワインみたいな、夜の布地みたいな、艶のある暗い色。
コートだ、と気づくまで少しかかった。
画面越しでしか見たことがなかったけど、あれがヴェルヴェット・レクイエムなんだとすぐ分かった。長いコートの裾が風もないのに滑るみたいに揺れていて、その立ち姿だけ妙に舞台じみていた。周りは崩れてるのに、あいつの周囲だけ絵みたいに整って見える。
キャスターが上ずった声で叫んでいる。
『ヴェルヴェット・レクイエムを確認! 繰り返します、最上位指定ヴィラン、ヴェルヴェット・レクイエムを確認しました!』
ビジョンの前で誰かが「やばい」と呟いた。
別の誰かが、「トライアンフマンはまだなのか」と言った。
その時だった。
映像の中で、逃げ遅れたらしい男がひとり、レクイエムの前で尻餅をついた。港の作業員か何かだろう。ヘルメットを落として、腰が抜けたみたいに手をついている。レクイエムはその男へゆっくり歩いていった。
周囲の人間が息を呑むのが分かった。
俺も、見ていた。
見たくないくせに、目を逸らせなかった。
レクイエムは男の前でしゃがんだ。
仕草だけ見れば、転んだ子どもに手を差し伸べる大人みたいだった。コートの裾が地面へ広がって、白い手袋がゆっくり持ち上がる。キャスターが何か叫んでいたが、耳に入らなかった。
男が何か言った。助けてくれ、かもしれない。聞こえない。
レクイエムが、少しだけ首を傾げた。
次の瞬間、男の首がすっと落ちた。
本当に、すっと、だった。
血は出た。もちろん出た。けど飛び散り方まで妙に静かで、ぐちゃっとした感じがなかった。見た瞬間、吐き気より先に「綺麗だ」と思ってしまった自分に、俺はぞっとした。
ビジョンの前で悲鳴が上がる。
誰かが顔を背ける。
誰かが泣く。
誰かがスマホを落とす。
なのに画面の中のレクイエムは、少しも慌てない。ただ立ち上がって、倒れた男を一瞥して、それからまた次の方へ歩き出した。まるで最初から終わりまで、全部予定通りみたいに。
怖い。
当たり前だ。怖いに決まってる。
あれは悪だ。人を殺す。躊躇いもなく、容赦もなく。見てるだけで喉が渇くし、足がすくむ。
でも、それでも、俺は思ってしまった。
静かすぎる、と。
少なくとも、あいつが通った後の画面には、爆炎も、瓦礫の波も、巻き込まれて吹き飛ぶ何十人もの姿もなかった。死んでいるのは目の前の一人だ。それはそれで最悪なのに、最悪の質が違う。
その違いを、たぶん俺だけじゃなく、この場の何人かは感じてしまっていた。
だから誰も、すぐには声を出せなかった。
重い沈黙をぶち破ったのは、別の音だった。
――轟音。
空が裂けたみたいな爆音が頭上から落ちてきて、通りじゅうの人間が一斉に見上げた。雲ひとつない青空を、真っ直ぐに白い軌跡が走っている。誰かが叫ぶ。
「トライアンフマンだ!」
それは歓声に近かった。
ビジョンの中でも、カメラが慌てて空へ向く。港湾区の上空、高く、高く、朝日を背負ってひとつの影が降りてくる。赤と青。金色のエンブレム。両腕を前へ突き出し、弾丸みたいな勢いで一直線に落ちてくる姿は、たしかに絵になった。
俺の隣で、さっきまで怯えていた女が泣きそうな声で言う。
「助かった……」
助かった。
その言葉がやけに早く聞こえた。
まだ何も終わってない。
まだレクイエムは立ってる。
まだ港の人間だって逃げ切ってない。
なのに、トライアンフマンが見えた瞬間、もう勝ったみたいな顔をする人間がいる。
それが悪いとは言えない。言えないけど、胸の奥で何かがざらついた。
ビジョンの中で、トライアンフマンが港の中央へ着地した。
その衝撃だけで、近くのコンテナが何段かまとめて吹っ飛んだ。
地面が揺れる。
カメラがぶれる。
悲鳴が上がる。
キャスターは興奮した声で叫んだ。
『来た、来たぁ! 我らが守護者、トライアンフマンの到着です!!』
守護者、ね。
俺は画面の端で横倒しになったコンテナを見ながら、奥歯を噛んだ。たぶんあの下にも誰かいる。いるかもしれない。でも、その確認より先に、勝利のナレーションが流れる。
レクイエムは吹き飛ばされたコートの裾を払うみたいに一度だけ身じろぎして、それからトライアンフマンを見上げた。遠目なのに、なんとなく笑ってる気がした。
その瞬間、ビジョンが一瞬だけ砂嵐になる。
次いで、街のどこか遠くで、ガラスの砕ける音がした。
一枚じゃない。何十枚も、何百枚も、まとめて割れたみたいな音だった。
俺は反射的に振り返った。二本先の通り。高層ビルの並ぶ区画から、白い鳥の群れみたいにガラス片が舞い上がっている。遅れて、地面がどん、と揺れた。
港から、ここまで?
冗談じゃない。
「おい……」
「もう来てんのか、衝撃が」
「地下へ! 早く地下へ行け!」
誰かが怒鳴る。ようやく通りの人間が本格的に走り始めた。さっきまでビジョンに見入っていた連中が、今度は我先にと逃げ出していく。押し合って、ぶつかって、転びかけて、喚きながら。
俺も走ろうとして、でも一瞬だけ足を止めた。
通りの向こうに、小さな雑貨屋がある。じいさんが一人でやってる店だ。足が悪い。こんな時、すぐには閉められない。
舌打ちして、俺はそっちへ向かった。
馬鹿だと思う。
けど、こういう時に一度見つけたものを見捨てると、あとでずっと残る。
店先まで行くと、案の定、じいさんがシャッターの途中で固まっていた。古い手動式のやつで、片側のレールが歪んで噛んでる。
「どいて!」
俺が叫ぶと、じいさんは青い顔で振り向いた。
「下りないんだよ……!」
「見りゃ分かる!」
工具箱からバールを引っ張り出して、歪んだ部分へ突っ込む。嫌な音がした。レールが少し戻る。もう一回。手のひらが痛い。じいさんが横でおろおろしている。
遠くでまた爆音が鳴った。
地面が揺れる。
通りの看板がびりびり震える。
「早くしろよ……!」
俺が自分に言い聞かせるみたいに唸った時、ようやくシャッターが最後まで落ちた。じいさんがへたり込む。
「立って! 避難所!」
「足が」
「肩貸すから!」
じいさんの腕を首に回させて、半分引きずるみたいに走る。重い。遅い。けど、置いてはいけない。通りの先では、さっきよりずっと大きい煙が上がっていた。港の方角じゃない。もっと近い。もっと嫌な位置だ。
ビジョンから、興奮と絶叫の入り混じった実況が漏れてくる。
『トライアンフマンの一撃が――』
『レクイエム回避――!』
『市街地方面へ衝撃が――』
そこまで聞こえて、俺は心の中で吐き捨てた。
ほらな。
トライアンフマンが来た。
正義の味方が来た。
これでみんな安心する。
その結果、まず最初に増えるのは、俺たちみたいな壊される側だ。
地下避難区画の扉が見えてきたところで、背後からものすごい風圧が襲ってきた。思わず足を止める。じいさんがうめく。振り向いた先、通りの空に、赤と青の光が一瞬だけ横切った。
速すぎて顔なんか見えなかった。
でも、分かった。
トライアンフマンだ。
誰かを追っている。
たぶん、レクイエムを。
その軌跡のあとを追うみたいに、街の上空で何かが弾けた。次の瞬間、向こうのビルの外壁がごっそり抉れ、粉みたいなコンクリ片が朝日に舞った。
俺はじいさんを抱える腕に力を入れた。
英雄譚の始まりみたいな光景だった。
そして、修理屋の俺には、それがもう、請求書の束にしか見えなかった。




