ひかり
いつ眠ったのか、わからなかった。
気づいたら、顔の横に土があった。湿ったにおいがして、頬が冷たかった。膝を抱えたまま、木の根元で丸くなっていたらしい。首が痛い。背中も痛い。足も痛い。痛くないところの方が少なかった。
でも、生きてた。
目を開けた時、最初にそう思った。
森はまだ暗かった。
昨日と同じ木。昨日と同じ枝。昨日と同じ葉の音。
怖い、と思った。
昨日の続きみたいに、すぐそう思った。
なのに腹は減っていたし、喉も乾いていたし、ずっとそこにいたらもっとまずい気もした。何がまずいのかは、やっぱりわからない。ただ、じっとしていたら見つかる気がした。見つける誰かがいる気がした。
俺はゆっくり起き上がった。
足に力を入れる。痺れていて、少しふらつく。近くの幹に手をついた。ざらざらしていた。冷たかった。でも、何もしてこなかった。
口の端は、まだ少し上がっていた。
もう笑ってるのか、顔がそうなったまま戻らないのか、自分でもわからなかった。頬がつっぱっていた。
また歩いた。
どこへ行くのかはわからない。ただ、木の間を抜けていく。昨日より少し明るい気がした。朝なのかもしれない。でも森の中は空が細くしか見えなくて、ちゃんとはわからなかった。
葉の上に水がついていた。
草の先にも、光る粒がついていた。
きれい、とは思わなかった。
ただ、濡れてる、と思った。触ったら冷たそうだと思った。誰もいないのに、誰かのものみたいで触らなかった。
腹が鳴る。
また、変に笑った。
何もおかしくないのに、そういう時ほど口が動く。空っぽの腹を片手で押さえる。意味はない。押さえたって減る。でも、何かしないと落ち着かなかった。
歩く。
また歩く。
同じような木ばかりだった。
細いの。太いの。曲がってるの。根が地面から浮いてるの。蔦の巻いてるの。見たことのない葉っぱ。見たことのない色の苔。知らないものばかりだった。
知らないものは怖い。
それでも、昨日よりは少しだけ足が前に出た。昨日は何を見ても、すぐ戻りたくなった。戻る場所なんてないのに。それでも、怖くて、動けなくなった。今日は、怖いままでも少し進めた。
風が吹いた。
昨日も吹いていた風だ。葉がざわざわ鳴る。枝が揺れる。最初はそれだけだった。けど、少しして、なんだか音が違う気がした。
昨日は上の方で鳴っていた音が、今日はもっと遠くまで行っているみたいだった。
うまく言えない。
森の中で跳ね返っていた音が、今日はどこかへ抜けていくみたいだった。
俺は立ち止まった。
耳をすます。
風。
葉の音。
それから、遠くの水の音。
昨日と同じはずなのに、少し違う。
前の方が、明るかった。
木と木の間に、白っぽいものが見えた。朝の光なのか、空なのか、よくわからない。でも暗い森の中に、そこだけ何かがひらいているみたいに見えた。
怖かった。
でも、昨日みたいな怖さとは少し違った。
見つかるかもしれない怖さじゃなくて、知らないものがそこにある怖さだった。
俺は少しずつ進んだ。
枝が腕に触る。葉が頬に触る。足元で草が鳴る。何度も立ち止まる。何度も振り返る。誰もいない。何も来ない。
それでも腹の中は、ずっと冷たかった。
前へ出るたび、木がまばらになった。
足元に落ちる光が増えた。土の色が見える。草の色も少しわかる。今までただ暗かっただけのものに、色があるみたいだった。
でも、まだよく見えなかった。
まだ、全部怖かった。
最後の一本みたいに、太い木が前に立っていた。
その横を抜けた時だった。
急に、何もなくなった。
いや、なくなったんじゃない。
開いたんだ、と思う。
さっきまでずっとあった木が切れて、目の前がひらけていた。
俺はそこで止まった。
動けなかった。
前に、空があった。
大きかった。
森の隙間から細く見えるやつじゃない。上までずっとつながっているやつだった。白くて、青くて、眩しかった。目が痛くなるくらい明るいのに、昨日みたいな嫌な痛さじゃなかった。
その下に、水があった。
広かった。
昨日の細い流れとは全然違う。大きくて、静かで、でも少しだけ揺れていて、光がいっぱい乗っていた。水の上で光が揺れる。きらきらして、細かく散って、また集まる。風が吹くたび、形が変わる。
湖だった。
たぶん。
そんな言葉をちゃんと考えるより先に、ただ、でかい水、って思った。
風が吹いた。
森の中を抜けてきた時より、やわらかかった。冷たいだけじゃなかった。頬を撫でて、首の横を通って、胸のあたりまで入りこんでくる。痛くない。怖くない。手みたいに掴んでこない。鞭みたいに打ってこない。
ただ、通っていった。
俺は立ったまま、それを受けていた。
葉の音がした。
後ろの森が鳴っている。水も鳴っている。風もある。光もある。空もある。全部いっぺんにあった。
なのに、怒鳴り声がなかった。
誰もいなかった。
何も命じなかった。
笑え、って言う声がなかった。
泣くな、って言う声もなかった。
走れ、働け、こっちを見ろ、そういうのが何もなかった。
何もなかった。
それが、変だった。
胸の奥がぎゅっとした。
痛いのとは違う。
腹が減ってるのとも違う。
怖いのとも、少し違った。
何かわからないものが、胸の中にいっぱいになって、息がうまくできなくなった。
俺は口を開けた。
笑おうとしたのかもしれない。
いつもみたいに、そうしておけばましだと思ったのかもしれない。
でも、うまくいかなかった。
頬が動かなかった。
口の端は少し上がったままだったのに、それ以上、もうどうしたらいいのかわからなかった。
風が、また吹いた。
湖の光が揺れた。
その向こうに、空があった。
広い、と思った。
初めてそう思った。
小屋より。
馬車より。
木のあいだから見える細い空より。
ずっと広かった。
こんなの、知らなかった。
俺は一歩、前に出た。
草が足に触れる。やわらかかった。もう一歩。地面は乾いていて、少しあたたかかった。日が当たっているんだと思った。
あたたかい。
火みたいじゃない。
殴られた後の熱さでもない。
じんわりして、痛くない。
そんなのがあるんだ、と思った。
そこで、何かが落ちた。
最初は、汗かと思った。
でも頬の横を、ゆっくり流れていった。
俺はそこでやっと瞬きをした。
指で頬を触る。
濡れていた。
水かと思った。風で飛んできたのかもしれないと思った。でも違った。触った指先が少しあたたかかった。
もう一つ、落ちた。
今度は反対の目からだった。
俺はじっとした。
何が起きてるのかわからなかった。
苦しいわけじゃない。
痛いわけじゃない。
殴られたわけでもない。
怒鳴られたわけでもない。
なのに、また落ちた。
頬を伝う。顎まで行く。ぽたりと落ちる。
俺は息を吸った。
うまく吸えなかった。
胸の奥が変だった。ぎゅっとして、それでいて、どこか広がるみたいだった。わけがわからなくて、怖いのに、目は湖から離れなかった。
光が揺れていた。
空があった。
風が吹いていた。
誰もいなかった。
誰も、何もしなかった。
俺がそこにいても、笑ってなくても、何も言わなかった。
また、涙が落ちた。
止めようと思った。
いつもみたいに、笑ってごまかそうと思った。口の端に力を入れた。でも、今度はうまくできなかった。頬がひきつるだけで、いつもの顔にならない。
代わりに、また落ちた。
何回も落ちた。
静かだった。
わんわん泣くとか、そういうんじゃなかった。声も出なかった。ただ、頬を流れていく。止まらなかった。拭っても、また落ちた。指が濡れる。袖で拭いても、また濡れる。
俺は困った。
こんなの、どうしたらいいかわからない。
でも、もう誰も教えなかった。
泣くな、とも。
笑え、とも。
何も言われなかった。
風だけが吹いた。
あたたかい光が、肩に落ちていた。湖はまだ揺れていて、空は広くて、目が痛いくらい明るいのに、見ていたかった。
ずっと見ていたかった。
俺は立ったまま、涙を流していた。
怖いのに、逃げたくなかった。
初めてそう思った。
ここから逃げたくない、と思った。
その時、やっとわかった。
俺は泣いてるんだ。
そう思ったら、また一つ落ちた。
頬を伝って、顎から落ちて、光る草の上に吸われた。
笑ってなかった。
いつもの顔じゃなかった。
何もしていないのに、ただ立っているだけなのに、涙だけが止まらなかった。
俺は初めて泣いた。




