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IRIS-Log-Archive  作者: IRIS
繋がれた心_IRIS.log

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221/258

ひかり

 いつ眠ったのか、わからなかった。


 気づいたら、顔の横に土があった。湿ったにおいがして、頬が冷たかった。膝を抱えたまま、木の根元で丸くなっていたらしい。首が痛い。背中も痛い。足も痛い。痛くないところの方が少なかった。


 でも、生きてた。


 目を開けた時、最初にそう思った。


 森はまだ暗かった。

 昨日と同じ木。昨日と同じ枝。昨日と同じ葉の音。


 怖い、と思った。


 昨日の続きみたいに、すぐそう思った。


 なのに腹は減っていたし、喉も乾いていたし、ずっとそこにいたらもっとまずい気もした。何がまずいのかは、やっぱりわからない。ただ、じっとしていたら見つかる気がした。見つける誰かがいる気がした。


 俺はゆっくり起き上がった。


 足に力を入れる。痺れていて、少しふらつく。近くの幹に手をついた。ざらざらしていた。冷たかった。でも、何もしてこなかった。


 口の端は、まだ少し上がっていた。


 もう笑ってるのか、顔がそうなったまま戻らないのか、自分でもわからなかった。頬がつっぱっていた。


 また歩いた。


 どこへ行くのかはわからない。ただ、木の間を抜けていく。昨日より少し明るい気がした。朝なのかもしれない。でも森の中は空が細くしか見えなくて、ちゃんとはわからなかった。


 葉の上に水がついていた。

 草の先にも、光る粒がついていた。


 きれい、とは思わなかった。


 ただ、濡れてる、と思った。触ったら冷たそうだと思った。誰もいないのに、誰かのものみたいで触らなかった。


 腹が鳴る。


 また、変に笑った。


 何もおかしくないのに、そういう時ほど口が動く。空っぽの腹を片手で押さえる。意味はない。押さえたって減る。でも、何かしないと落ち着かなかった。


 歩く。

 また歩く。


 同じような木ばかりだった。


 細いの。太いの。曲がってるの。根が地面から浮いてるの。蔦の巻いてるの。見たことのない葉っぱ。見たことのない色の苔。知らないものばかりだった。


 知らないものは怖い。


 それでも、昨日よりは少しだけ足が前に出た。昨日は何を見ても、すぐ戻りたくなった。戻る場所なんてないのに。それでも、怖くて、動けなくなった。今日は、怖いままでも少し進めた。


 風が吹いた。


 昨日も吹いていた風だ。葉がざわざわ鳴る。枝が揺れる。最初はそれだけだった。けど、少しして、なんだか音が違う気がした。


 昨日は上の方で鳴っていた音が、今日はもっと遠くまで行っているみたいだった。


 うまく言えない。


 森の中で跳ね返っていた音が、今日はどこかへ抜けていくみたいだった。


 俺は立ち止まった。


 耳をすます。


 風。

 葉の音。

 それから、遠くの水の音。


 昨日と同じはずなのに、少し違う。


 前の方が、明るかった。


 木と木の間に、白っぽいものが見えた。朝の光なのか、空なのか、よくわからない。でも暗い森の中に、そこだけ何かがひらいているみたいに見えた。


 怖かった。


 でも、昨日みたいな怖さとは少し違った。


 見つかるかもしれない怖さじゃなくて、知らないものがそこにある怖さだった。


 俺は少しずつ進んだ。


 枝が腕に触る。葉が頬に触る。足元で草が鳴る。何度も立ち止まる。何度も振り返る。誰もいない。何も来ない。


 それでも腹の中は、ずっと冷たかった。


 前へ出るたび、木がまばらになった。


 足元に落ちる光が増えた。土の色が見える。草の色も少しわかる。今までただ暗かっただけのものに、色があるみたいだった。


 でも、まだよく見えなかった。


 まだ、全部怖かった。


 最後の一本みたいに、太い木が前に立っていた。


 その横を抜けた時だった。


 急に、何もなくなった。


 いや、なくなったんじゃない。

 開いたんだ、と思う。


 さっきまでずっとあった木が切れて、目の前がひらけていた。


 俺はそこで止まった。


 動けなかった。


 前に、空があった。


 大きかった。


 森の隙間から細く見えるやつじゃない。上までずっとつながっているやつだった。白くて、青くて、眩しかった。目が痛くなるくらい明るいのに、昨日みたいな嫌な痛さじゃなかった。


 その下に、水があった。


 広かった。


 昨日の細い流れとは全然違う。大きくて、静かで、でも少しだけ揺れていて、光がいっぱい乗っていた。水の上で光が揺れる。きらきらして、細かく散って、また集まる。風が吹くたび、形が変わる。


 湖だった。


 たぶん。


 そんな言葉をちゃんと考えるより先に、ただ、でかい水、って思った。


 風が吹いた。


 森の中を抜けてきた時より、やわらかかった。冷たいだけじゃなかった。頬を撫でて、首の横を通って、胸のあたりまで入りこんでくる。痛くない。怖くない。手みたいに掴んでこない。鞭みたいに打ってこない。


 ただ、通っていった。


 俺は立ったまま、それを受けていた。


 葉の音がした。


 後ろの森が鳴っている。水も鳴っている。風もある。光もある。空もある。全部いっぺんにあった。


 なのに、怒鳴り声がなかった。


 誰もいなかった。


 何も命じなかった。


 笑え、って言う声がなかった。

 泣くな、って言う声もなかった。

 走れ、働け、こっちを見ろ、そういうのが何もなかった。


 何もなかった。


 それが、変だった。


 胸の奥がぎゅっとした。


 痛いのとは違う。

 腹が減ってるのとも違う。

 怖いのとも、少し違った。


 何かわからないものが、胸の中にいっぱいになって、息がうまくできなくなった。


 俺は口を開けた。


 笑おうとしたのかもしれない。


 いつもみたいに、そうしておけばましだと思ったのかもしれない。


 でも、うまくいかなかった。


 頬が動かなかった。


 口の端は少し上がったままだったのに、それ以上、もうどうしたらいいのかわからなかった。


 風が、また吹いた。


 湖の光が揺れた。


 その向こうに、空があった。


 広い、と思った。


 初めてそう思った。


 小屋より。

 馬車より。

 木のあいだから見える細い空より。


 ずっと広かった。


 こんなの、知らなかった。


 俺は一歩、前に出た。


 草が足に触れる。やわらかかった。もう一歩。地面は乾いていて、少しあたたかかった。日が当たっているんだと思った。


 あたたかい。


 火みたいじゃない。

 殴られた後の熱さでもない。

 じんわりして、痛くない。


 そんなのがあるんだ、と思った。


 そこで、何かが落ちた。


 最初は、汗かと思った。


 でも頬の横を、ゆっくり流れていった。


 俺はそこでやっと瞬きをした。


 指で頬を触る。


 濡れていた。


 水かと思った。風で飛んできたのかもしれないと思った。でも違った。触った指先が少しあたたかかった。


 もう一つ、落ちた。


 今度は反対の目からだった。


 俺はじっとした。


 何が起きてるのかわからなかった。


 苦しいわけじゃない。

 痛いわけじゃない。

 殴られたわけでもない。

 怒鳴られたわけでもない。


 なのに、また落ちた。


 頬を伝う。顎まで行く。ぽたりと落ちる。


 俺は息を吸った。


 うまく吸えなかった。


 胸の奥が変だった。ぎゅっとして、それでいて、どこか広がるみたいだった。わけがわからなくて、怖いのに、目は湖から離れなかった。


 光が揺れていた。


 空があった。


 風が吹いていた。


 誰もいなかった。


 誰も、何もしなかった。


 俺がそこにいても、笑ってなくても、何も言わなかった。


 また、涙が落ちた。


 止めようと思った。


 いつもみたいに、笑ってごまかそうと思った。口の端に力を入れた。でも、今度はうまくできなかった。頬がひきつるだけで、いつもの顔にならない。


 代わりに、また落ちた。


 何回も落ちた。


 静かだった。


 わんわん泣くとか、そういうんじゃなかった。声も出なかった。ただ、頬を流れていく。止まらなかった。拭っても、また落ちた。指が濡れる。袖で拭いても、また濡れる。


 俺は困った。


 こんなの、どうしたらいいかわからない。


 でも、もう誰も教えなかった。


 泣くな、とも。

 笑え、とも。


 何も言われなかった。


 風だけが吹いた。


 あたたかい光が、肩に落ちていた。湖はまだ揺れていて、空は広くて、目が痛いくらい明るいのに、見ていたかった。


 ずっと見ていたかった。


 俺は立ったまま、涙を流していた。


 怖いのに、逃げたくなかった。


 初めてそう思った。


 ここから逃げたくない、と思った。


 その時、やっとわかった。


 俺は泣いてるんだ。


 そう思ったら、また一つ落ちた。


 頬を伝って、顎から落ちて、光る草の上に吸われた。


 笑ってなかった。


 いつもの顔じゃなかった。


 何もしていないのに、ただ立っているだけなのに、涙だけが止まらなかった。


 俺は初めて泣いた。

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