森はまだ怖い
しばらく、動けなかった。
動いたら何かに見つかる気がした。
何に、とはうまく言えない。馬車のところにいた大人かもしれないし、あの黒いのかもしれない。どっちでもよかった。見つかったらまずい。それだけは、はっきりしていた。
俺は木の根元に膝を抱えて、小さくなっていた。
口の端はまだ上がっている。頬が痛いのに、下ろし方がわからなかった。怖い時は笑う。そうしていると、少しましだ。そうしていると、次が遅くなることがある。そういうのが、体の中にもう入ってる。
風が吹いた。
葉がざわざわ鳴る。
肩が跳ねた。
呼ばれた気がした。
でも呼ばれていない。声じゃない。ただ木が揺れただけだ。わかってるのに、腹の奥がひゅっと冷たくなった。俺はもっと笑った。歯が見えるくらいに。誰も見ていないのに。
見ていない、って思った時、ほんとかどうかわからなくなった。
森の中は暗い。昼なのに暗い。木がいっぱい立っていて、枝が重なっていて、空は細くちぎれて見えた。あちこちに影がある。影は何でも入れそうだった。人でも、獣でも、あの黒いでかいのでも。
足音がした気がして、息を止めた。
何も来ない。
また葉が鳴っただけだった。
でも、また同じような音がしたら、今度こそ来るかもしれない。そう思うと、そこから動かない方がいいのか、逆に今のうちに逃げた方がいいのか、わからなくなった。
わからないことばかりだった。
何をしていいか、誰も言わない。
じっとしてろ、とも、走れ、とも、こっちへ来い、とも、何も言わない。
それが一番怖かった。
命令がない。
怒鳴り声がない。
なのに、次に何をしたら殴られないのか、わからない。
俺は膝を抱えたまま、少しだけ顔を上げた。
木。
土。
草。
細い枝。
どこを見ても、そんなのばかりだった。
馬車も、小屋も、大人も見えない。
それなのに、まだ近くにいる気がした。背中に目があるみたいに、ずっと見られている気がした。見つかったらまずい。笑ってろ。笑ってたら少しましだ。
喉がからからだった。
口の中の血の味が、ずっと残っていた。舌で歯の裏をなぞると、ざらざらした。唇の内側も切れている。飲みこもうとしても、唾が足りなかった。
水、と思った。
思っただけで、すぐ怖くなった。
勝手に飲んでいいものなのかわからない。
どこにあるのかもわからない。
あったとして、それを飲んでいいのかもわからない。
何かを勝手にしたら怒られる。そういうのは、ずっとそうだった。
腹も減っていた。けど腹が減るのはいつものことだった。喉の方がひどかった。息をするたび、喉の中の皮が擦れるみたいだった。
また風が吹いた。
今度は少し違う音がした。
葉の音に混じって、さらさらした、細い音。何かが流れるみたいな音だった。
俺は顔を上げた。
耳をすます。
ざわざわ。
さらさら。
またする。
水かもしれないと思った。思ったけど、すぐには動けなかった。罠かもしれない。そういうものを置く大人もいた。近づいて、違うことになる時もある。
でも喉が痛かった。
俺はゆっくり立ち上がった。膝が震えた。転びそうになって、近くの木に手をつく。ざらざらしていた。手に棘みたいなのが刺さる。でも、木は何も言わなかった。
そのまま、音のする方へ一歩だけ進む。
止まる。
もう一歩。
止まる。
誰かに見つかったら、その時は笑えばいい。そう思った。今さらうまく笑えるかはわからないけど、笑うしかない。
土はやわらかいところと硬いところがあった。草が足に触るたび、びくっとした。枯れ枝を踏むたび、音がして、心臓が跳ねた。
さらさら、という音が少し大きくなる。
少しだけ明るい場所が見えた。
木と木の間が開いて、地面に薄く光が落ちている。その先に、細い水があった。川というほど大きくない。溝みたいに細くて、石のあいだを水が流れていた。
俺はそこで止まった。
近づいていいのかわからなかった。
しゃがみこむ。見つからないように、できるだけ低くする。水は透明だった。底に石が見えた。葉っぱが一枚、流れていった。
飲みたい。
でも、飲んだらだめかもしれない。
誰かのものかもしれない。
毒かもしれない。
飲んでるところを見られたら、怒られるかもしれない。
わからない。
わからないまま、喉だけが痛い。
俺は手を伸ばしかけて、引っ込めた。
もう一回伸ばしかけて、また引っ込めた。
手が震えている。
笑っていた。変な顔だと思った。誰もいないのに。水の上に、口だけ上がった顔が揺れていた。汚れて、頬の片方が赤く腫れていて、土がついていて、気持ち悪かった。
でも、それが俺の顔だった。
水の中の俺も、笑っていた。
指先だけを水に入れた。
冷たかった。
びくっとして、すぐ手を引っ込める。
何も起きない。
怒鳴り声もしない。
手も飛んでこない。
ただ水が揺れただけだった。
もう一回、指を入れる。
やっぱり冷たい。けど、痛くはない。熱くもない。叩かれた時みたいな痛さじゃない。ただ冷たいだけだ。
俺は少しずつ手を沈めた。
掌まで濡れる。
それでも何もされなかった。
水をすくう。途中で少しこぼれた。慌てて口に持っていく。泥の味がするかと思ったけど、そんなにしなかった。冷たくて、喉の中がひりっとして、それから少し楽になった。
俺は固まった。
飲んだ。
勝手に飲んだ。
でも、何もされなかった。
そのまま、もう一口飲む。今度はさっきより多くすくえた。口の端から少しこぼれて、顎を伝って落ちた。冷たい。俺はそれも拭かずに、もう一口飲んだ。
何も起きない。
誰も来ない。
俺は水辺にしゃがみこんだまま、しばらくじっとしていた。
飲んでも、殴られなかった。
それだけで、頭の中が変な感じだった。
嬉しい、とか、そういうのとは違う。わからない。ただ、次が来ないことが変だった。怖いのに、来ない。来ないから、もっと怖い。ほんとは後から来るんじゃないかって思う。
ざわ、と頭の上で葉が鳴った。
俺はまた肩をすくめた。
笑う。
反射みたいに笑う。
でも、水はそのまま流れていた。何も言わない。何も怒らない。俺が笑っていても、笑っていなくても、同じみたいだった。
俺は手を水で濡らして、口の横についた血をこすった。少ししみた。
しばらくすると、腹が鳴った。
大きな音じゃなかった。でも静かなせいで、自分にはやけに大きく聞こえた。恥ずかしいと思って、誰もいないのにまた笑った。
食べるものは見当たらなかった。
地面には草とか葉っぱとか、変な実みたいなのが落ちていたけど、どれが食べられるのかわからない。口に入れて死ぬやつもあるかもしれない。そういうのを昔、聞いたことがある。だから何も触れなかった。
水だけ飲んで、また立つ。
ずっとしゃがんでいたせいで、足がじんじんした。少しふらつく。木に手をついて、息を整える。どこへ行けばいいのかわからない。けど、この水のところにずっといるのもまずい気がした。誰かが来るかもしれない。あの黒いのが水を飲みに来るかもしれない。そう思ったら、もうそこにいられなかった。
また歩く。
森の中は、やっぱり怖かった。
明るいところは見つかりそうで怖い。暗いところは何かいそうで怖い。枝が折れる音は足音に聞こえるし、鳥が飛ぶ音も誰かが跳んだみたいに聞こえる。自分の足音まで、誰かが後ろからついてくる音みたいだった。
何度も振り返った。
誰もいない。
でも、いないことが逆に怖かった。
しばらくして、また風が吹いた。
木の葉が揺れる。ざわざわ、ざわざわ、って音がする。いっぱいの音なのに、誰もいない。そういうのが、気味悪かった。小屋の中なら、音には理由があった。誰かの足音、誰かの咳、誰かの泣き声、大人の怒鳴り声。そういうのだ。ここは違う。音だけあって、誰もいない。だから次に何が来るのかわからない。
知らない音ばかりだった。
知らないのは怖い。
俺は歩きながら、時々木の幹に触れた。細いのも太いのもある。ざらざらしていて、湿っているところもあった。触るたび、何かされる気がしてすぐ離した。でも何もされなかった。
何度か転んだ。
根っこに足を取られた。石に躓いた。手をついて、泥が掌についた。膝もまた汚れた。痛かった。でも、泣かなかった。顔だけはまだ笑っていた。
だんだん日が落ちてきたのか、森の中はもっと暗くなった。
さっきより風が冷たかった。腹の虫がまた鳴る。喉は少しましだけど、身体は重かった。足は痛いし、眠かった。どこかに隠れたい。でも、どこが隠れるのにいいのかもわからない。
やっと少し大きい木を見つけて、その根元に座り込んだ。
幹が背中に当たる。固い。冷たい。
でも後ろを何かに取られてないだけ、少しましだった。
膝を抱える。
口の端は、まだ上がっている。
もう疲れた、と思った。けどその言葉も、口には出なかった。出したら、誰かに聞かれて怒られる気がした。
葉の音がする。
遠くで水の音がする。
どこかで小さな鳴き声がする。
全部、知らない。
全部、怖い。
俺は膝に顔をうずめた。
眠ったらまずい気がした。けど、目は勝手に閉じそうになる。閉じたらそのまま何かが来るかもしれない。だから何回も顔を上げる。そのたびに、暗い木ばっかり見えた。
空は少ししか見えなかった。
細く、裂けたみたいに見えるだけだった。
箱の中よりは広いはずなのに、俺にはまだそう見えなかった。
森は、ただ怖かった。
俺は笑ったまま、暗くなる木のあいだを見ていた。




