表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
IRIS-Log-Archive  作者: IRIS
繋がれた心_IRIS.log

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

220/258

森はまだ怖い

 しばらく、動けなかった。


 動いたら何かに見つかる気がした。

 何に、とはうまく言えない。馬車のところにいた大人かもしれないし、あの黒いのかもしれない。どっちでもよかった。見つかったらまずい。それだけは、はっきりしていた。


 俺は木の根元に膝を抱えて、小さくなっていた。


 口の端はまだ上がっている。頬が痛いのに、下ろし方がわからなかった。怖い時は笑う。そうしていると、少しましだ。そうしていると、次が遅くなることがある。そういうのが、体の中にもう入ってる。


 風が吹いた。


 葉がざわざわ鳴る。


 肩が跳ねた。


 呼ばれた気がした。


 でも呼ばれていない。声じゃない。ただ木が揺れただけだ。わかってるのに、腹の奥がひゅっと冷たくなった。俺はもっと笑った。歯が見えるくらいに。誰も見ていないのに。


 見ていない、って思った時、ほんとかどうかわからなくなった。


 森の中は暗い。昼なのに暗い。木がいっぱい立っていて、枝が重なっていて、空は細くちぎれて見えた。あちこちに影がある。影は何でも入れそうだった。人でも、獣でも、あの黒いでかいのでも。


 足音がした気がして、息を止めた。


 何も来ない。


 また葉が鳴っただけだった。


 でも、また同じような音がしたら、今度こそ来るかもしれない。そう思うと、そこから動かない方がいいのか、逆に今のうちに逃げた方がいいのか、わからなくなった。


 わからないことばかりだった。


 何をしていいか、誰も言わない。


 じっとしてろ、とも、走れ、とも、こっちへ来い、とも、何も言わない。


 それが一番怖かった。


 命令がない。


 怒鳴り声がない。


 なのに、次に何をしたら殴られないのか、わからない。


 俺は膝を抱えたまま、少しだけ顔を上げた。


 木。

 土。

 草。

 細い枝。

 どこを見ても、そんなのばかりだった。


 馬車も、小屋も、大人も見えない。


 それなのに、まだ近くにいる気がした。背中に目があるみたいに、ずっと見られている気がした。見つかったらまずい。笑ってろ。笑ってたら少しましだ。


 喉がからからだった。


 口の中の血の味が、ずっと残っていた。舌で歯の裏をなぞると、ざらざらした。唇の内側も切れている。飲みこもうとしても、唾が足りなかった。


 水、と思った。


 思っただけで、すぐ怖くなった。


 勝手に飲んでいいものなのかわからない。

 どこにあるのかもわからない。

 あったとして、それを飲んでいいのかもわからない。


 何かを勝手にしたら怒られる。そういうのは、ずっとそうだった。


 腹も減っていた。けど腹が減るのはいつものことだった。喉の方がひどかった。息をするたび、喉の中の皮が擦れるみたいだった。


 また風が吹いた。


 今度は少し違う音がした。


 葉の音に混じって、さらさらした、細い音。何かが流れるみたいな音だった。


 俺は顔を上げた。


 耳をすます。


 ざわざわ。

 さらさら。


 またする。


 水かもしれないと思った。思ったけど、すぐには動けなかった。罠かもしれない。そういうものを置く大人もいた。近づいて、違うことになる時もある。


 でも喉が痛かった。


 俺はゆっくり立ち上がった。膝が震えた。転びそうになって、近くの木に手をつく。ざらざらしていた。手に棘みたいなのが刺さる。でも、木は何も言わなかった。


 そのまま、音のする方へ一歩だけ進む。


 止まる。


 もう一歩。


 止まる。


 誰かに見つかったら、その時は笑えばいい。そう思った。今さらうまく笑えるかはわからないけど、笑うしかない。


 土はやわらかいところと硬いところがあった。草が足に触るたび、びくっとした。枯れ枝を踏むたび、音がして、心臓が跳ねた。


 さらさら、という音が少し大きくなる。


 少しだけ明るい場所が見えた。


 木と木の間が開いて、地面に薄く光が落ちている。その先に、細い水があった。川というほど大きくない。溝みたいに細くて、石のあいだを水が流れていた。


 俺はそこで止まった。


 近づいていいのかわからなかった。


 しゃがみこむ。見つからないように、できるだけ低くする。水は透明だった。底に石が見えた。葉っぱが一枚、流れていった。


 飲みたい。


 でも、飲んだらだめかもしれない。


 誰かのものかもしれない。

 毒かもしれない。

 飲んでるところを見られたら、怒られるかもしれない。


 わからない。


 わからないまま、喉だけが痛い。


 俺は手を伸ばしかけて、引っ込めた。


 もう一回伸ばしかけて、また引っ込めた。


 手が震えている。


 笑っていた。変な顔だと思った。誰もいないのに。水の上に、口だけ上がった顔が揺れていた。汚れて、頬の片方が赤く腫れていて、土がついていて、気持ち悪かった。


 でも、それが俺の顔だった。


 水の中の俺も、笑っていた。


 指先だけを水に入れた。


 冷たかった。


 びくっとして、すぐ手を引っ込める。


 何も起きない。


 怒鳴り声もしない。

 手も飛んでこない。

 ただ水が揺れただけだった。


 もう一回、指を入れる。


 やっぱり冷たい。けど、痛くはない。熱くもない。叩かれた時みたいな痛さじゃない。ただ冷たいだけだ。


 俺は少しずつ手を沈めた。


 掌まで濡れる。


 それでも何もされなかった。


 水をすくう。途中で少しこぼれた。慌てて口に持っていく。泥の味がするかと思ったけど、そんなにしなかった。冷たくて、喉の中がひりっとして、それから少し楽になった。


 俺は固まった。


 飲んだ。


 勝手に飲んだ。


 でも、何もされなかった。


 そのまま、もう一口飲む。今度はさっきより多くすくえた。口の端から少しこぼれて、顎を伝って落ちた。冷たい。俺はそれも拭かずに、もう一口飲んだ。


 何も起きない。


 誰も来ない。


 俺は水辺にしゃがみこんだまま、しばらくじっとしていた。


 飲んでも、殴られなかった。


 それだけで、頭の中が変な感じだった。


 嬉しい、とか、そういうのとは違う。わからない。ただ、次が来ないことが変だった。怖いのに、来ない。来ないから、もっと怖い。ほんとは後から来るんじゃないかって思う。


 ざわ、と頭の上で葉が鳴った。


 俺はまた肩をすくめた。


 笑う。


 反射みたいに笑う。


 でも、水はそのまま流れていた。何も言わない。何も怒らない。俺が笑っていても、笑っていなくても、同じみたいだった。


 俺は手を水で濡らして、口の横についた血をこすった。少ししみた。


 しばらくすると、腹が鳴った。


 大きな音じゃなかった。でも静かなせいで、自分にはやけに大きく聞こえた。恥ずかしいと思って、誰もいないのにまた笑った。


 食べるものは見当たらなかった。


 地面には草とか葉っぱとか、変な実みたいなのが落ちていたけど、どれが食べられるのかわからない。口に入れて死ぬやつもあるかもしれない。そういうのを昔、聞いたことがある。だから何も触れなかった。


 水だけ飲んで、また立つ。


 ずっとしゃがんでいたせいで、足がじんじんした。少しふらつく。木に手をついて、息を整える。どこへ行けばいいのかわからない。けど、この水のところにずっといるのもまずい気がした。誰かが来るかもしれない。あの黒いのが水を飲みに来るかもしれない。そう思ったら、もうそこにいられなかった。


 また歩く。


 森の中は、やっぱり怖かった。


 明るいところは見つかりそうで怖い。暗いところは何かいそうで怖い。枝が折れる音は足音に聞こえるし、鳥が飛ぶ音も誰かが跳んだみたいに聞こえる。自分の足音まで、誰かが後ろからついてくる音みたいだった。


 何度も振り返った。


 誰もいない。


 でも、いないことが逆に怖かった。


 しばらくして、また風が吹いた。


 木の葉が揺れる。ざわざわ、ざわざわ、って音がする。いっぱいの音なのに、誰もいない。そういうのが、気味悪かった。小屋の中なら、音には理由があった。誰かの足音、誰かの咳、誰かの泣き声、大人の怒鳴り声。そういうのだ。ここは違う。音だけあって、誰もいない。だから次に何が来るのかわからない。


 知らない音ばかりだった。


 知らないのは怖い。


 俺は歩きながら、時々木の幹に触れた。細いのも太いのもある。ざらざらしていて、湿っているところもあった。触るたび、何かされる気がしてすぐ離した。でも何もされなかった。


 何度か転んだ。


 根っこに足を取られた。石に躓いた。手をついて、泥が掌についた。膝もまた汚れた。痛かった。でも、泣かなかった。顔だけはまだ笑っていた。


 だんだん日が落ちてきたのか、森の中はもっと暗くなった。


 さっきより風が冷たかった。腹の虫がまた鳴る。喉は少しましだけど、身体は重かった。足は痛いし、眠かった。どこかに隠れたい。でも、どこが隠れるのにいいのかもわからない。


 やっと少し大きい木を見つけて、その根元に座り込んだ。


 幹が背中に当たる。固い。冷たい。


 でも後ろを何かに取られてないだけ、少しましだった。


 膝を抱える。


 口の端は、まだ上がっている。


 もう疲れた、と思った。けどその言葉も、口には出なかった。出したら、誰かに聞かれて怒られる気がした。


 葉の音がする。

 遠くで水の音がする。

 どこかで小さな鳴き声がする。


 全部、知らない。


 全部、怖い。


 俺は膝に顔をうずめた。


 眠ったらまずい気がした。けど、目は勝手に閉じそうになる。閉じたらそのまま何かが来るかもしれない。だから何回も顔を上げる。そのたびに、暗い木ばっかり見えた。


 空は少ししか見えなかった。


 細く、裂けたみたいに見えるだけだった。


 箱の中よりは広いはずなのに、俺にはまだそう見えなかった。


 森は、ただ怖かった。


 俺は笑ったまま、暗くなる木のあいだを見ていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ