表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
IRIS-Log-Archive  作者: IRIS
繋がれた心_IRIS.log

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

219/258

鎖の音

 馬車の中は、くさい。


 土と汗と、しょんべんと、古い藁が湿ったようなにおいが混ざって、鼻の奥にずっとへばりついている。息を吸うたび、それが腹の中まで落ちてくる気がした。


 狭かった。


 膝を立てる場所もない。前のやつの背中が近くて、横のやつの肩がぶつかって、馬車が揺れるたびに誰かの肘や膝が骨に当たる。痛い。でも、痛いって言うと、もっと痛いことになる。だから言わない。


 天井の板が、ぎし、ぎし、と鳴った。


 その音が俺は嫌いだ。次に何が来るのかわからない音だから。


 隅の方で、小さく鼻をすする音がした。


 誰かが泣いてる。


 やめろ、と思った。声には出さなかった。出したら、その声も拾われるかもしれないから。


 すす、っとまた音がした。細くて、今にも消えそうなのに、こういう音は消えない。大人の耳は、ああいうのだけよく聞く。


 俺は息を止めた。


 喉の奥がひゅっと細くなる。目の裏がじわっと熱くなる。だめだと思った時には、もう口の端が上がっていた。


 笑う。


 にこ、ってする。


 そうすると、少しだけましな時がある。いつからそうしているのかは覚えていない。たぶん、ずっと前からだ。泣くより先に、そういう顔になる。


 横のやつが俺の方を見た。


 暗くてちゃんとは見えないはずなのに、それでも見られたってわかった。びくっと肩が跳ねた。俺はもっと笑った。何もおかしくないのに。


 怖い時は、笑う。


 そうすると怒られないことがある。殴られても、泣かなかったってことで、もう一回は殴られないことがある。


 馬車が大きく跳ねた。


 前のやつが倒れてきて、額が俺の口にぶつかった。歯が唇の内側に食い込む。鉄みたいな味がした。


 でも俺は笑っていた。


 唇の中が切れていても、笑っていた。


「う、ぅ……」


 また、泣きそうな声。


 だめだ、と思った。


 その時、馬車の外から怒鳴り声が落ちてきた。


「うるせえぞ」


 みんなが固まる。


 外の足音が近づいてくる。板の向こうで、誰かが舌打ちした。錠の鳴る音。金具が擦れる音。俺の身体は勝手に縮んだのに、顔だけはもう笑っていた。


 扉が開く。


 細い光が差し込んだだけなのに、目が痛かった。外の空気が流れ込んでくる。冷たい。泥と獣みたいなにおいがした。


「泣いてんのはどいつだ」


 大人の声が落ちてくる。


 誰も動かない。誰も返事しない。息の音まで消えた気がした。


 俺は笑っていた。


 喉がつまって、胸がぎゅっとして、吐きそうなのに、口だけはちゃんと上がっている。自分でそうしようと思ったわけじゃない。手が熱いものに触れたら引っこむみたいに、勝手にそうなる。


「おい」


 その声が、こっちに落ちた。


 俺はびくっとした。腹の底まで冷たくなる。なんで俺だよ、って思った。思ったけど、口は先に動いた。


「へ、へい」


 変な声が出た。笑ったまま出したから、息が引っかかった。


 大人が俺を見る。暗がりの中でも、その目だけはよく見える気がした。値段を見る目だ。牛とか荷物とか、そういうのと同じ目。


「気持ちわりい顔してんな」


 言われた。


 でも俺は笑った。もっと笑った。やめられなかった。


 ぱしん、と頬が鳴った。


 顔が横にずれた。熱い。耳の奥で、きーんって音がした。


 泣きそうになる。


 だめだ。


 笑え。


 笑え。


 笑え。


 俺は口を上げた。


 目の奥が熱かった。鼻の奥も痛かった。でも、笑った。ちゃんと笑った。歯まで見えていたかもしれない。


 その顔を見て、大人は少し黙った。


「……ちっ」


 舌打ちが落ちてきた。


 もう一回くる、と思って肩をすくめたけど、来なかった。


 代わりに、隅の方から小さな悲鳴が上がった。


「や、やだ、やだぁ……」


 さっき泣いていたやつだ。


 ああ、と思った。


 次の音は、鈍かった。


 殴る音。転ぶ音。短い息。何かを引きずる音。


 見ないようにしようと思ったのに、目だけそっちを向いた。小さいやつが、藁の上にうずくまっていた。鼻水と涙で顔をぐしゃぐしゃにして、口をぱくぱくさせてる。魚みたいだった。


 大人はそいつの髪を掴んで持ち上げた。


「泣くなっつってんだろ」


 ぐいっと上に引っ張られて、小さいやつの喉から変な音が漏れた。


 俺は笑っていた。


 もう頬がひくひくしているのに、それでも笑っていた。


 そうしているしかなかった。


 怖い。

 でも泣かない。

 泣かない代わりに、笑う。


 そうしていると、次に引っ張られるのが俺じゃなくなる時がある。


 大人がその子を放り投げた。軽い音がして、また誰かの膝にぶつかった。すすり泣きが消えた。代わりに、細い呼吸だけが残った。


 扉が閉まる。


 暗くなる。


 金具の音がして、足音が遠ざかる。


 みんな、しばらく何も言わなかった。


 俺も言わない。笑ったまま、口を閉じた。頬が痛い。歯の裏に血の味が広がっている。舌でそこを触ると、また熱かった。


 横のやつが、小さく言った。


「なんで、おまえ、笑ってんだよ……」


 知らない。


 知らないけど、笑ってる。


 泣かなかったからだと思った。


 泣かなかったから、今ここにいる。

 泣いたら、ああなる。


 だから笑う。


 次に呼ばれても、次に叩かれても、先に笑う。そう決めているわけじゃない。体が勝手にそうする。


 馬車がまた大きく跳ねた。


 車輪の下で、石でも踏んだみたいだった。荷台の中で何人かが崩れる。俺も肩から倒れて、床板に手をついた。


 その時だった。


 遠くで、馬のいななきが聞こえた。


 変だった。


 今まで聞いたことのない鳴き方だった。高くて、ひっくり返るみたいな声。次の瞬間、外で誰かが怒鳴った。


「止めろ! 止め――」


 声が途切れた。


 地面が、持ち上がったみたいに揺れた。


 馬車が傾く。


 みんなの体が一斉に片側へ流れた。悲鳴。木の割れる音。金具のちぎれる音。何かでかいものがぶつかった音。俺は笑ったまま、何が起きたのかわからなくて、ただ床から放り上げられた。


 肩が板にぶつかった。背中を何かが踏んだ。息が詰まる。暗い箱の中で、上と下がぐちゃぐちゃになる。誰かの腕が首に引っかかって、誰かの足が腹に落ちてきた。


 馬がまた鳴いた。


 今度は近かった。すぐ外にいるみたいだった。


 箱が横倒しになる。


 荷台の中の体が全部、ひとつの壁に押しつけられた。俺の頬も板に押される。歯が唇の内側をまた噛んだ。口の中に血の味が広がる。


 笑ってる。


 まだ笑ってる。


 なんでだろうと思った。でも止まらない。怖い時は笑う。笑っとけ。そうすると少しましだ。そうしていると、少しだけ終わるのが早い。


 板のどこかが、ばきっと割れた。


 細い光が差した。


 次の瞬間、それが広がった。


 白い。


 目が痛いくらい、白かった。


 風が入ってくる。土のにおい。草のにおい。冷たい空気。暗い箱の中じゃない、外のにおいだった。


 誰かが俺の上で叫んだ。大人の声か、子どもの声か、もうわからなかった。


 また衝撃がきた。


 体が滑る。


 割れた板の隙間に、腕が抜けた。肩が抜ける。次は頭。木のささくれが額を引っかいた。痛い。けど、今はそれどころじゃない。


 箱の外へ、体が半分放り出される。


 地面があった。


 土だった。硬くて、冷たくて、ざらざらしていた。


 俺は転がった。


 何回か転がって、やっと止まった。口の中に土が入る。咳が出そうになる。でも笑ってた。息が変な音になっても、笑ってた。


 起きなきゃ、と思った。


 なんでかはわからない。でも起きなきゃいけない気がした。ここにいたらまずい。大人が来る。怒鳴る。引っ張られる。殴られる。


 起きなきゃ。


 腕に力を入れる。震えてうまくいかない。もう一回やる。今度は少し起きた。


 馬車はひっくり返っていた。


 車輪が一つ、ゆっくり回っている。馬の一頭が横倒しになって、脚をばたつかせていた。もう一頭はどこかへ走ったのか、見えなかった。大人がひとり、地面に膝をついて、何か叫んでいる。でも耳がきんきんして、言葉はわからない。


 少し離れたところに、黒い大きなものがいた。


 最初、岩かと思った。


 でも動いた。


 でかかった。馬よりずっと大きく見えた。形はよくわからない。ただ、そこにいて、動いた、ってことだけはわかった。


 大人が短く叫んだ。


 次の瞬間、その声が途切れた。


 俺は立ち上がった。


 足がもつれた。膝が笑った。笑ってるのは顔だけじゃなかった。でも倒れなかった。倒れたら終わる気がした。


 走る。


 そう思った時には、もう走っていた。


 どこへ行くかはわからない。ただ、馬車と大人と黒いものから遠ざかる方へ、足を出した。土を蹴る。石が刺さる。足の裏が痛い。木の根に引っかかって、つんのめる。手をつく。立つ。また走る。


 後ろは見なかった。


 見たら遅くなる気がした。


 笑ってた。


 息が切れて、喉が焼けるみたいに痛いのに、それでも口の端は上がっていた。頬がひきつって、もう痛いのか何なのかもわからない。


 でも笑ってた。


 前に木が見えた。


 背の高い木が何本も並んで、その向こうは暗かった。昼なのに暗い。風が枝を揺らして、葉がざわざわ鳴っている。


 森だ。


 怖い、と思った。


 でも後ろも怖かった。


 だったら前の方がましだった。


 俺はその暗い方へ走った。


 枝が腕を引っかいた。草が足に絡んだ。顔に葉が当たった。土のにおいが濃くなる。風が冷たい。足元は見えにくい。何度も転びそうになる。


 それでも止まれなかった。


 止まったら、捕まる。


 そう思った。


 誰にかはわからない。大人かもしれないし、さっきの黒いのかもしれない。でも、とにかく捕まる気がした。


 しばらく走って、やっと足がもつれた。


 今度は本当に転んだ。


 土に膝を打って、手のひらを擦りむいて、肩から倒れる。息が喉でつっかえた。口の中に草と土の味が広がる。


 起きようとしたけど、少しだけ動けなかった。


 耳の中では、自分の息だけが大きかった。


 はっ、はっ、って音がしている。


 生きてる、と思った。


 なんでか、それだけはわかった。


 でも助かったとは思わなかった。


 ここがどこかもわからない。後ろから何か来るかもしれない。暗いし、寒いし、腹も減ってる。喉も渇いてる。痛いところばっかりだ。


 なのに、笑っていた。


 頬の筋肉がもう勝手に固まっていて、やめ方がわからなかった。


 土の上にうつぶせのまま、俺は少しだけ顔を上げた。


 木ばっかりだった。


 細い幹。絡まる枝。見上げると、葉の隙間から小さな空が見えた。揺れていた。風のせいだと思った。


 ざわざわ、って音がする。


 鎖の音じゃなかった。


 でも俺には似たようなものに聞こえた。


 何かが鳴るたび、肩がすくんだ。


 誰かに呼ばれた気がした。もちろん、呼ばれてない。わかってる。でも体は勝手にそう思う。次に何か来る気がして、腹の奥が冷たくなる。


 笑え。


 そう言われた気がした。


 俺はもう笑っていた。


 だからそのまま、木の根元に体を寄せた。


 暗い土の上に膝を抱えて、小さくなる。そうすると少しましな気がした。少しだけ、見つかりにくい気がした。


 口の中はまだ血の味がした。


 頬は熱い。膝はじんじんする。手のひらは擦れてひりひりした。


 でも泣かなかった。


 泣けなかった。


 俺は笑ったまま、息を潜めた。


 森の音はずっと鳴っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ