鎖の音
馬車の中は、くさい。
土と汗と、しょんべんと、古い藁が湿ったようなにおいが混ざって、鼻の奥にずっとへばりついている。息を吸うたび、それが腹の中まで落ちてくる気がした。
狭かった。
膝を立てる場所もない。前のやつの背中が近くて、横のやつの肩がぶつかって、馬車が揺れるたびに誰かの肘や膝が骨に当たる。痛い。でも、痛いって言うと、もっと痛いことになる。だから言わない。
天井の板が、ぎし、ぎし、と鳴った。
その音が俺は嫌いだ。次に何が来るのかわからない音だから。
隅の方で、小さく鼻をすする音がした。
誰かが泣いてる。
やめろ、と思った。声には出さなかった。出したら、その声も拾われるかもしれないから。
すす、っとまた音がした。細くて、今にも消えそうなのに、こういう音は消えない。大人の耳は、ああいうのだけよく聞く。
俺は息を止めた。
喉の奥がひゅっと細くなる。目の裏がじわっと熱くなる。だめだと思った時には、もう口の端が上がっていた。
笑う。
にこ、ってする。
そうすると、少しだけましな時がある。いつからそうしているのかは覚えていない。たぶん、ずっと前からだ。泣くより先に、そういう顔になる。
横のやつが俺の方を見た。
暗くてちゃんとは見えないはずなのに、それでも見られたってわかった。びくっと肩が跳ねた。俺はもっと笑った。何もおかしくないのに。
怖い時は、笑う。
そうすると怒られないことがある。殴られても、泣かなかったってことで、もう一回は殴られないことがある。
馬車が大きく跳ねた。
前のやつが倒れてきて、額が俺の口にぶつかった。歯が唇の内側に食い込む。鉄みたいな味がした。
でも俺は笑っていた。
唇の中が切れていても、笑っていた。
「う、ぅ……」
また、泣きそうな声。
だめだ、と思った。
その時、馬車の外から怒鳴り声が落ちてきた。
「うるせえぞ」
みんなが固まる。
外の足音が近づいてくる。板の向こうで、誰かが舌打ちした。錠の鳴る音。金具が擦れる音。俺の身体は勝手に縮んだのに、顔だけはもう笑っていた。
扉が開く。
細い光が差し込んだだけなのに、目が痛かった。外の空気が流れ込んでくる。冷たい。泥と獣みたいなにおいがした。
「泣いてんのはどいつだ」
大人の声が落ちてくる。
誰も動かない。誰も返事しない。息の音まで消えた気がした。
俺は笑っていた。
喉がつまって、胸がぎゅっとして、吐きそうなのに、口だけはちゃんと上がっている。自分でそうしようと思ったわけじゃない。手が熱いものに触れたら引っこむみたいに、勝手にそうなる。
「おい」
その声が、こっちに落ちた。
俺はびくっとした。腹の底まで冷たくなる。なんで俺だよ、って思った。思ったけど、口は先に動いた。
「へ、へい」
変な声が出た。笑ったまま出したから、息が引っかかった。
大人が俺を見る。暗がりの中でも、その目だけはよく見える気がした。値段を見る目だ。牛とか荷物とか、そういうのと同じ目。
「気持ちわりい顔してんな」
言われた。
でも俺は笑った。もっと笑った。やめられなかった。
ぱしん、と頬が鳴った。
顔が横にずれた。熱い。耳の奥で、きーんって音がした。
泣きそうになる。
だめだ。
笑え。
笑え。
笑え。
俺は口を上げた。
目の奥が熱かった。鼻の奥も痛かった。でも、笑った。ちゃんと笑った。歯まで見えていたかもしれない。
その顔を見て、大人は少し黙った。
「……ちっ」
舌打ちが落ちてきた。
もう一回くる、と思って肩をすくめたけど、来なかった。
代わりに、隅の方から小さな悲鳴が上がった。
「や、やだ、やだぁ……」
さっき泣いていたやつだ。
ああ、と思った。
次の音は、鈍かった。
殴る音。転ぶ音。短い息。何かを引きずる音。
見ないようにしようと思ったのに、目だけそっちを向いた。小さいやつが、藁の上にうずくまっていた。鼻水と涙で顔をぐしゃぐしゃにして、口をぱくぱくさせてる。魚みたいだった。
大人はそいつの髪を掴んで持ち上げた。
「泣くなっつってんだろ」
ぐいっと上に引っ張られて、小さいやつの喉から変な音が漏れた。
俺は笑っていた。
もう頬がひくひくしているのに、それでも笑っていた。
そうしているしかなかった。
怖い。
でも泣かない。
泣かない代わりに、笑う。
そうしていると、次に引っ張られるのが俺じゃなくなる時がある。
大人がその子を放り投げた。軽い音がして、また誰かの膝にぶつかった。すすり泣きが消えた。代わりに、細い呼吸だけが残った。
扉が閉まる。
暗くなる。
金具の音がして、足音が遠ざかる。
みんな、しばらく何も言わなかった。
俺も言わない。笑ったまま、口を閉じた。頬が痛い。歯の裏に血の味が広がっている。舌でそこを触ると、また熱かった。
横のやつが、小さく言った。
「なんで、おまえ、笑ってんだよ……」
知らない。
知らないけど、笑ってる。
泣かなかったからだと思った。
泣かなかったから、今ここにいる。
泣いたら、ああなる。
だから笑う。
次に呼ばれても、次に叩かれても、先に笑う。そう決めているわけじゃない。体が勝手にそうする。
馬車がまた大きく跳ねた。
車輪の下で、石でも踏んだみたいだった。荷台の中で何人かが崩れる。俺も肩から倒れて、床板に手をついた。
その時だった。
遠くで、馬のいななきが聞こえた。
変だった。
今まで聞いたことのない鳴き方だった。高くて、ひっくり返るみたいな声。次の瞬間、外で誰かが怒鳴った。
「止めろ! 止め――」
声が途切れた。
地面が、持ち上がったみたいに揺れた。
馬車が傾く。
みんなの体が一斉に片側へ流れた。悲鳴。木の割れる音。金具のちぎれる音。何かでかいものがぶつかった音。俺は笑ったまま、何が起きたのかわからなくて、ただ床から放り上げられた。
肩が板にぶつかった。背中を何かが踏んだ。息が詰まる。暗い箱の中で、上と下がぐちゃぐちゃになる。誰かの腕が首に引っかかって、誰かの足が腹に落ちてきた。
馬がまた鳴いた。
今度は近かった。すぐ外にいるみたいだった。
箱が横倒しになる。
荷台の中の体が全部、ひとつの壁に押しつけられた。俺の頬も板に押される。歯が唇の内側をまた噛んだ。口の中に血の味が広がる。
笑ってる。
まだ笑ってる。
なんでだろうと思った。でも止まらない。怖い時は笑う。笑っとけ。そうすると少しましだ。そうしていると、少しだけ終わるのが早い。
板のどこかが、ばきっと割れた。
細い光が差した。
次の瞬間、それが広がった。
白い。
目が痛いくらい、白かった。
風が入ってくる。土のにおい。草のにおい。冷たい空気。暗い箱の中じゃない、外のにおいだった。
誰かが俺の上で叫んだ。大人の声か、子どもの声か、もうわからなかった。
また衝撃がきた。
体が滑る。
割れた板の隙間に、腕が抜けた。肩が抜ける。次は頭。木のささくれが額を引っかいた。痛い。けど、今はそれどころじゃない。
箱の外へ、体が半分放り出される。
地面があった。
土だった。硬くて、冷たくて、ざらざらしていた。
俺は転がった。
何回か転がって、やっと止まった。口の中に土が入る。咳が出そうになる。でも笑ってた。息が変な音になっても、笑ってた。
起きなきゃ、と思った。
なんでかはわからない。でも起きなきゃいけない気がした。ここにいたらまずい。大人が来る。怒鳴る。引っ張られる。殴られる。
起きなきゃ。
腕に力を入れる。震えてうまくいかない。もう一回やる。今度は少し起きた。
馬車はひっくり返っていた。
車輪が一つ、ゆっくり回っている。馬の一頭が横倒しになって、脚をばたつかせていた。もう一頭はどこかへ走ったのか、見えなかった。大人がひとり、地面に膝をついて、何か叫んでいる。でも耳がきんきんして、言葉はわからない。
少し離れたところに、黒い大きなものがいた。
最初、岩かと思った。
でも動いた。
でかかった。馬よりずっと大きく見えた。形はよくわからない。ただ、そこにいて、動いた、ってことだけはわかった。
大人が短く叫んだ。
次の瞬間、その声が途切れた。
俺は立ち上がった。
足がもつれた。膝が笑った。笑ってるのは顔だけじゃなかった。でも倒れなかった。倒れたら終わる気がした。
走る。
そう思った時には、もう走っていた。
どこへ行くかはわからない。ただ、馬車と大人と黒いものから遠ざかる方へ、足を出した。土を蹴る。石が刺さる。足の裏が痛い。木の根に引っかかって、つんのめる。手をつく。立つ。また走る。
後ろは見なかった。
見たら遅くなる気がした。
笑ってた。
息が切れて、喉が焼けるみたいに痛いのに、それでも口の端は上がっていた。頬がひきつって、もう痛いのか何なのかもわからない。
でも笑ってた。
前に木が見えた。
背の高い木が何本も並んで、その向こうは暗かった。昼なのに暗い。風が枝を揺らして、葉がざわざわ鳴っている。
森だ。
怖い、と思った。
でも後ろも怖かった。
だったら前の方がましだった。
俺はその暗い方へ走った。
枝が腕を引っかいた。草が足に絡んだ。顔に葉が当たった。土のにおいが濃くなる。風が冷たい。足元は見えにくい。何度も転びそうになる。
それでも止まれなかった。
止まったら、捕まる。
そう思った。
誰にかはわからない。大人かもしれないし、さっきの黒いのかもしれない。でも、とにかく捕まる気がした。
しばらく走って、やっと足がもつれた。
今度は本当に転んだ。
土に膝を打って、手のひらを擦りむいて、肩から倒れる。息が喉でつっかえた。口の中に草と土の味が広がる。
起きようとしたけど、少しだけ動けなかった。
耳の中では、自分の息だけが大きかった。
はっ、はっ、って音がしている。
生きてる、と思った。
なんでか、それだけはわかった。
でも助かったとは思わなかった。
ここがどこかもわからない。後ろから何か来るかもしれない。暗いし、寒いし、腹も減ってる。喉も渇いてる。痛いところばっかりだ。
なのに、笑っていた。
頬の筋肉がもう勝手に固まっていて、やめ方がわからなかった。
土の上にうつぶせのまま、俺は少しだけ顔を上げた。
木ばっかりだった。
細い幹。絡まる枝。見上げると、葉の隙間から小さな空が見えた。揺れていた。風のせいだと思った。
ざわざわ、って音がする。
鎖の音じゃなかった。
でも俺には似たようなものに聞こえた。
何かが鳴るたび、肩がすくんだ。
誰かに呼ばれた気がした。もちろん、呼ばれてない。わかってる。でも体は勝手にそう思う。次に何か来る気がして、腹の奥が冷たくなる。
笑え。
そう言われた気がした。
俺はもう笑っていた。
だからそのまま、木の根元に体を寄せた。
暗い土の上に膝を抱えて、小さくなる。そうすると少しましな気がした。少しだけ、見つかりにくい気がした。
口の中はまだ血の味がした。
頬は熱い。膝はじんじんする。手のひらは擦れてひりひりした。
でも泣かなかった。
泣けなかった。
俺は笑ったまま、息を潜めた。
森の音はずっと鳴っていた。




