ぶら下がるもの
細長い何かは、木々の向こうでゆらゆら揺れていた。
一本じゃない。何本かある。
けど、それが何なのかは距離のせいでよく見えない。蔓みたいにも見えるし、布みたいにも見えるし、最悪、髪みたいにも見える。
「いや、あれ何だ……?」
自分の声が、思ったより低く出た。
すぐに咳払いして、いつもの調子に戻す。
「はい、皆さん注目。前方にちょっと気になる物体を発見しております。現時点では植物説が濃厚ですが、俺はまだ夢を捨てていません」
コメント欄を見る。
蔓だろ、帰れ、近づけ、の三種類くらいしかない。いや最後のやつはそうするよ。ここまで来て見ないわけにはいかないだろ。
俺はゆっくり近づいた。
足元を見る。
前を見る。
また足元を見る。
さっきまでは勢いで歩いていたけど、今は少しずつ慎重になっているのが自分でも分かる。別に何か見たわけじゃない。ただ、森の奥へ行けば行くほど、適当に進んじゃいけない気がしてくる。
木の根を跨ぎ、枝を避け、少し傾いた地面を下る。
近づくにつれて、ぶら下がっていたものの正体が見えてきた。
「あー……蔓だわ」
長く垂れた蔓が何本も、枝から下がって揺れていただけだった。
しかも途中で枯れて裂けてるせいで、遠目には余計気持ち悪く見えたらしい。
「いやでもこれはちょっと仕方ないだろ。髪っぽかったって今のは。正直」
自分でも半分笑いながら、スマホをその蔓に近づける。
白っぽく乾いた繊維が裂けて、先端がぼさっと広がっている。確かに遠目だと嫌な見え方をする。
「ほら。これ夜とか絶対見間違えるって」
言ってる最中、一本の蔓が風でふっと俺の肩に触れた。
「うおっ」
反射で半歩下がる。
すぐに蔓だと分かって、俺は自分で笑った。
「いや今のはびびるって! 急に触んな!」
コメント欄にも草が流れる。
その勢いを見て、少しだけほっとする。ちゃんとまだ繋がってる。配信は生きてる。大丈夫。
……何が大丈夫なのかは分からないけど。
俺は蔓の下をくぐって、また先へ進んだ。
ここまで来ると、木と木の間隔が狭い場所が増えてきた。横に避けながら通らないといけない場所もあるし、枝が低くて頭を下げないと進めない場所もある。広く見えるのに、実際は少しずつ通れる場所が限られている感じだ。
「地味に進みにくいな、ここ」
独り言みたいに呟く。
息を吸う。湿った土と草の匂いが強い。
なんだかさっきから、自分の声だけがやけに浮いて聞こえる。森に馴染んでないみたいに。まあ実際馴染んでないんだけど。
その時、前方の木の間を、白いものがすっと横切った。
「っ、いた!」
今度は叫びに近い声が出た。
俺はすぐにライトを向けて駆け寄る。
白い。人の服みたいにも見えたし、毛の塊みたいにも見えた。一瞬だけだったけど、確かに見えた。
「待って待って待って、今のは見ただろ!」
木の間を抜ける。
だが、何もいない。少し先に倒木があって、その手前に白っぽい塊が落ちているだけだった。
「……ビニール袋かよ」
木の根に引っかかった古い白い袋が、風に煽られて揺れていた。
俺はしばらく黙ってから、ため息まじりに笑う。
「いや、こんなとこにある方が嫌だろ逆に」
誰が捨てたんだよ。
そう思ったけど、口には出さなかった。こういう場所に人の気配がある痕跡って、なんか妙に嫌だ。
しゃがんでその袋を見た瞬間、ふと違和感が走った。
周りに、他のゴミが全然ない。
袋だけだ。
風で飛んできたにしても、こんな奥まで? いや、ありえるか。分からん。考えても仕方ない。
俺は立ち上がって、また前を見る。
そのまま歩こうとして、止まった。
「……あれ」
少し先の木の幹、その向こう側から、何か黒いものがはみ出しているように見えた。
布?
影?
いや、形がよく分からない。
さっきまでの誤認と同じかもしれない。
でも、今度のはちょっと嫌な見え方をした。
ただそこにあるだけなのに、“隠れてる”みたいに見える。
「いや、なんかあるな」
俺はゆっくり近づいた。
胸がどきどきしている。怖いのか、期待してるのか、自分でもよく分からない。
あと数歩、ってところで、風が吹いた。
黒いものがふっと揺れる。
「……服?」
木の幹に引っかかっていたのは、黒っぽい上着みたいな布だった。ぼろぼろで、汚れていて、片方だけ枝に掛かったまま揺れている。
俺は思わず顔をしかめた。
「いや、これは嫌だな……」
獣でもUMAでもない。
なのに、今までで一番気味が悪かった。
コメント欄を見る。
ほとんど流れていない。
さっきまでなら絶対、何かしら突っ込まれていたはずだ。なのに今は、ぽつ、ぽつ、と短い文字があるだけ。
やめとけ
帰れ
それはまずい
その三つが、妙に目についた。
俺は笑おうとして、少し失敗した。
「いや、まあ……服ってだけだし。別に、落ちててもおかしくは――」
言いかけたところで、すぐ後ろの近い場所から、ぐしゃ、と湿った音がした。
俺は反射で振り向く。
ライトが大きくぶれる。
映ったのは、木。
根。
落ち葉。
そして、その奥の暗闇だけだった。
何もいない。
何もいないはずなのに、今の音は、明らかに何かが地面を踏んだ音だった。
俺は数秒、そのまま動かなかった。
喉が乾いている。
でも、唾を飲む音だけがやけに大きく聞こえそうで、飲み込めない。
「……っは」
無理やり笑う。
「びっくりしたぁ。いや、今のはちょっと普通にびびった」
声が少し裏返った。
「たぶん……なんか小動物だな。うん。そういうことにしよう。そうしよう」
自分で言って、自分で頷く。
それから、スマホを持ち直して前を向いた。
「……もうちょいだけ。もうちょいだけ見て、戻るわ」
その言葉は、視聴者に向けたものでもあり、自分に向けたものでもあった。
少し先、木々の並びが途切れて、細い空間が真っ直ぐ奥に伸びている場所が見えた。
まるで、そこだけ道みたいに。
「……あれ、さっき通ったっけ」




