いるかもしれない何か
少し奥に入っただけで、空気の感じって変わるもんなんだな。
いや、気のせいかもしれない。こういう場所にいると、ちょっとした変化でもそれっぽく感じるし、そう思い込んでるだけの可能性も全然ある。けど、さっきまでの森と今の森は、なんとなく違った。
湿気が増えたとか、寒くなったとか、そういう分かりやすい変化じゃない。
ただ、音が遠い。
風が吹いてるはずなのに、葉の擦れる音が薄い。鳥もいないわけじゃないんだろうけど、鳴き声がずっと向こうに引っ込んだみたいだ。自分の足音だけがやけに近くて、そのくせ落ち葉を踏む音が、変に吸い込まれる。
「……いや〜、いいね」
こういう時こそ、明るくいく。
俺は自分に言い聞かせるみたいに、少しだけ声を張った。
「こういう空気、嫌いじゃないんだよな。なんか、“いるならこういうとこだよね”って感じがして。分かる?」
スマホを自分に向ける。
画面の中の俺は、ちゃんと笑っていた。まあ、配信中の顔なんて半分くらいは作ってるもんだ。いつも通りだ。
「いやでも、ほんとに何か出たらどうしよ。俺、たぶん最初の一声は『うわ、でっか』だと思うわ。ごめんなさいとかじゃなくて」
コメント欄に草が流れる。
その流れを見て少し安心する。人の気配って大事だ。実際ここにいるのは俺一人でも、画面の向こうに誰かいるってだけで、ちょっとだけ現実に引き戻される。
「まあでもさ、襲われるとかはあんま考えてないんだよな。謎生物って、別に人間嫌いとは限らんじゃん。こっちが勝手に怖がってるだけで、向こうは『また来たのか』くらいかもしれんし」
言いながら前方を照らす。
木。
根。
落ち葉。
苔むした岩。
また木。
景色が代わり映えしないせいで、どれくらい進んだのかも曖昧だ。まだ全然戻れる場所にいるのか、それとも思ったより奥まで来てるのか、感覚がぼやける。
「……お?」
右前方の木の陰に、何か縦に長い影が見えた。
細い。
でもただの枝にしては、妙に立ってるように見える。
「ちょっと待って、あれ何?」
俺は自然と歩く速度を落とした。
ライトを向ける。影は動かない。人みたいにも見えるし、木の一部みたいにも見える。こういうのが一番困るんだよな。近づくまで分からん。
「いや待って、あれちょっとヤバくない? ほら、あそこ。木の横」
スマホ越しだと余計見づらいかもしれない。俺は少し腕を伸ばして角度を変えた。
「見える? 見えない? ……いやでもこれ、マジで立ってるっぽくね?」
じわじわ近づく。
足元の根を踏まないようにしながら、視線はずっとそっちの影に固定したまま。
あと数歩、ってところで、形がはっきりした。
「あ、折れた枝だ」
木の幹に寄りかかるように、大きな枝が一本立っていただけだった。
「いやでも今のはマジで仕方ないって! あれはちょっと立ち方が良すぎるだろ!」
自分でツッコミながら笑う。
コメント欄も案の定うるさい。ビビりすぎとか、今日は全部外れそうとか、もうUMAよりお前の反応が面白いとか。失礼だな。いやちょっと分かるけど。
「いいんだよ。こういうのを一個一個確認していくのが大事なんだから」
俺は枝の横を通り過ぎる。
その時、少し先の地面に新しい足跡みたいなものが見えた。
「ん?」
しゃがんでライトを近づける。
湿った土の上に、浅く窪みがいくつか並んでいる。獣の足跡、なのか? でも形がぼやけていてよく分からない。爪の跡も見えないし、蹄っぽくもない。ただ丸く沈んでるだけみたいだ。
「これ、なんかの足跡かな」
スマホを下に向けて映す。
「鹿? 猪? ……いやでも、俺そういうの詳しくないんだよな」
コメント欄に犬、鹿、靴跡、気のせい、などバラバラに流れていく。誰も分かってないじゃねぇか。
「まあ、動物いるのは当たり前か。この辺、人が少ないしな」
言いながら立ち上がる。
その時、視界の端を何か黒いものが横切った。
「うおっ」
反射でそっちを見る。
低い。速い。音も小さい。地面すれすれを滑るみたいに走って、すぐ見えなくなった。
「今の何!?」
俺は慌ててライトを向けた。
けど、もういない。茂みが少し揺れて、それで終わりだ。
「いや待って待って、今のはちょっとそれっぽくなかった?」
自分でも声が弾んでるのが分かる。
さっきまでの誤認とは違う。ちゃんと“生き物っぽい動き”だった。小さかったけど。
「いや、サイズ的には普通の動物っぽいけど……でも速かったな。見えた? みんな」
コメント欄が一気に流れる。
猫、たぬき、見えん、もう一回行け、などなど。
猫率高いな今日は。
「猫そんなにいる? いやまあいてもおかしくないけど。いやでも今のはちょっと、猫ってより……」
言いかけて、俺は口を閉じた。
前の方で、ぱき、と音がした。
枝を踏んだみたいな、乾いた音。
俺はそっちを見た。
ライトを向ける。木しかない。暗い幹が何本も立っているだけだ。
けど、確かに鳴った。
「……誰かいる?」
口をついて出た言葉に、自分で少し笑いそうになる。
誰かいたら困るだろ。いや、人間よりはマシか? どうなんだ。分からん。
「いや、すいません。今のナシ。つい聞いちゃった」
明るく言って流す。
だが、その後しばらくは、自分の声が少しだけ上滑りしている気がした。
気を取り直して歩き出そうとした時、コメント欄の流れがふっと鈍った。
さっきまで適当なことを言っていた文字が、少し減っている。
電波か? それともただみんな飽きただけか。まあ、どっちでもいいかと思いながら、俺はスマホの画面を確認した。配信はちゃんと続いている。映像も止まっていない。
「……よし。じゃ、もうちょい奥まで行ってみますか」
言葉にすると、不思議と本当に行ける気がした。
だから俺は、また前を向いた。
その少し先、木々の間に、暗さの質が違う場所があった。
影、というより、穴みたいな黒。
「お?」
俺は足を止め、目を細める。
「待って。あそこ、なんかない?」




