三点差
最初の五分で、天狼の強さは嫌ってほど分かった。
うまいとか、速いとか、そういう言葉だけじゃ足りない。全部が早いのに慌ただしくない。奪うのも、散らすのも、詰めるのも、切り替えるのも、何をするにも迷いがない。こっちが一手考える間に、向こうはもう次の場所まで決めているみたいだった。
「寄せろ!」
「中切れ!」
「戻れ!」
声を出す。
でも、出しながら自分でも分かる。
押されてる。
中盤で球を受けても、前を向く前に二人来る。横へ逃がしても、その先でまた囲われる。後ろへ戻せば押し上げられる。視界のどこを見ても、天狼の選手が半歩先にいる感じがした。
前半十分で先制された。
右から崩されて、折り返されて、最後はきれいに流し込まれた。
守備のやつが悔しそうに地面を蹴る。
俺も中央まで戻りながら奥歯を噛んだ。
分かってた。
相手は強い。
先にやられることだってある。
でも、実際に一点入るとやっぱり腹の底が冷える。
「まだ一失点!」
俺はすぐに叫んだ。
「次! 切り替えろ!」
言わなきゃいけない。
誰かが言う前に。
空気が落ちる前に。
その後の数分、青嵐は少しだけ持ち直した。
ハヤトへ一回通す。
左へ散らす。
前線が無理やりでも運ぶ。
けど、天狼は揺れない。
俺たちが一本前へ出ると、その次には二本返してくる。
焦ってるわけじゃない。
ただ普通に、こっちの伸びた分を刈り取ってくる。
二点目は、俺の寄せが半歩遅れたところからだった。
中央で一瞬迷った。
縦を切るか、横を消すか。
その迷いの間に通された。
止めきれなかった。
最後はまた決められる。
〇―二。
会場の空気が少しだけ遠くなる。
歓声も、実況も、全部が膜一枚向こうへ行ったみたいだった。
俺は自分の腿を叩いた。
迷うな。
今のは俺だ。
あと半歩、じゃない。迷った一瞬が全部だ。
天狼の選手が静かに自陣へ戻っていく。
余裕があるように見えて、余裕だけじゃない。
この点差をどう扱えば勝てるか、もう知ってる動きだった。
その感じが一番腹立たしい。
前半の終わり際、三点目まで入った。
今度は完全に崩された。
サイドで引きつけられて、逆へ振られて、中央へ差されて、そのまま。
綺麗すぎて嫌になる失点だった。
〇―三。
一瞬だけ、頭が真っ白になった。
会場のざわめきが大きくなる。
青嵐側の応援も、声は出ている。
でもその中に、もう厳しいかもしれないって空気が混じってるのが分かる。
分かるから、余計に嫌だ。
ハーフタイムの笛が鳴った時、俺は一回もベンチを見なかった。見たら何かが切れそうな気がしたからだ。俯くのも嫌だった。だから顔だけ上げて、でも何を見てるのか自分でも分からないみたいなまま歩いた。
控え室の空気は重かった。
誰も喋らないわけじゃない。
でも皆、自分の呼吸の音を聞いている感じだった。
汗の匂い、湿った衣の感触、床へ落ちる水滴の音。そういう細かいものばっかりがやけにはっきりする。
俺は座る前に、壁を一回だけ拳で叩いた。
大きな音は出なかった。
中途半端で、余計に腹が立つ。
「ユウ」
監督の声が飛んだ。
顔を上げる。
怒鳴られるかと思った。
でも監督は、いつも通り低い声で言った。
「まだ死んでない」
その言葉だけで、部屋の空気が少し動いた。
「点差はある。だが終わってない」
当たり前の言葉だった。
でも、こういう時はその当たり前を誰かが口にしないと、本当に終わる。
「お前らが今見てるのは点差だ。相手もそれを見てる。だったら次の一点で変えろ」
監督の視線が一人ずつに落ちる。
「三点差なんて、追う側からしたらただの数字だ。問題は、ここで折れるかどうかだ」
そこで、監督は俺を見た。
「ユウ」
「……はい」
「お前が一番下向くな」
その一言が、思ったより深く刺さった。
自分でも分かってた。
一番下を向きたかったのは、たぶん俺だ。
点を取られて、止めきれなくて、中央で流れを握れなくて、相手の完成度だけがやけに目について。ここまで来たのに、やっぱり天狼には勝てないのかもしれないって、一瞬でも思った。
それが悔しかった。
「……まだいけます」
声が少し掠れた。
でも言った以上は、本当にそうしなきゃいけない。
控え室を出る前、俺は全員の顔を見た。
苦しい顔。
悔しそうな顔。
でも、まだ完全には死んでいない。
「一点だ」
俺は言った。
「まず一点返すぞ」
誰かが小さく頷く。
別のやつが膝を叩く。
「三点差とかどうでもいい。まず一点。次も一点。そうやって詰めるしかねえだろ」
「……おう」
「下向くな。お前ら全員、まだ走れる」
偉そうなこと言いながら、自分にも言い聞かせていた。
走れる。
まだ終わってない。
まず一点。
後半が始まってすぐ、青嵐は前に出た。
もう綺麗さなんか考えてる余裕はない。
寄せる。
奪う。
簡単でも前へ出す。
押し返されてもまた拾う。
天狼は相変わらず強かった。
でも前半ほど余裕のある顔ではなかった。こっちが死んでないと分かったからだと思う。
後半十分過ぎ、ようやく一本入った。
始まりは本当に泥臭かった。
俺が中央で相手とぶつかりながら何とか球を残して、右へ転がして、そこから低い球が入る。弾かれたこぼれ球に前線が足を伸ばして、押し込む。
綺麗じゃない。
でも入った。
一―三。
その瞬間、会場の音が少しだけ変わった。
青嵐側の声が大きくなる。
天狼側も、少しだけざわつく。
俺は点を取ったやつの背中を思い切り叩いた。
「まだある! もう一個!」
喉が痛い。
でも関係ない。
ここからだ。
次の一点で、本当に空気が変わる。
相手も分かっているから、すぐに締めに来る。
そこで潰されるのが今までの青嵐だった。
でも今日の俺たちは、まだ終わりたくなかった。
走る。
削る。
ぶつかる。
拾う。
気づけば、足の重さとか息の苦しさとか、そういうのをいちいち考えなくなっていた。きついのはきつい。でもその向こうにもう一点があるなら、止まる理由にはならない。
中央で球を奪った時、俺の前にほんの一瞬だけ道が開いた。
ハヤトが左から斜めに走る。
見えてる。
でも相手も切ってる。
一拍だけ迷いかけて、俺はそのまま縦へ持った。相手が寄る。そこで逆へ散らす。左のやつが深くえぐって、中へ入れる。ハヤトが飛び込んだ。
決まった。
二―三。
あと一点。
会場が揺れる。
青嵐のベンチが総立ちになっているのが見えた。
天狼の選手が初めて、少しだけ速く呼吸をしていた。
俺は腕を上げて叫んだ。
「行けるぞ!」
本当にそう思った。
いや、ここまで来たら思い込むしかない。
残り時間は多くない。
でも一点差。
まだ届く。
そこからの時間は、ほとんど記憶が混ざっている。
球を追って、声を出して、身体をぶつけて、奪って、失って、また追って。全部が速くて、全部が重い。何回も足が止まりそうになった。肺も痛い。喉は潰れかけてる。
それでも、終盤のある瞬間、俺はまた中盤で球を拾っていた。
前を見る。
相手が寄る。
味方が走る。
右へ出す。
折り返し。
混戦。
こぼれる。
最後は守備のやつが、何でそこにいるんだって位置から足を振り抜いた。
三―三。
同点。
その瞬間だけ、本当に会場がひっくり返ったみたいだった。
俺は何か叫んでたと思う。
隣にいたやつの肩を掴んで、めちゃくちゃ揺らしていた気もする。
誰かが俺の背中に飛びついてきて、別のやつが泣きそうな顔で笑っていた。
でも、まだ終わってない。
ここで浮くと死ぬ。
天狼はそういう相手だ。
「締めろ!」
俺はすぐに怒鳴った。
「まだ終わってねえ!」
その通りだった。
天狼は王者の顔で戻ってきた。
焦りは見えた。
でも崩れてはいない。
そこで切り替えられるのが、あいつらの強さなんだと思う。
試合は、まだ終わらない。




