一度も勝てない相手
決勝の朝は、妙に静かだった。
昨日までの浮ついた熱が、きれいに沈んでいる。勝ち上がってきた勢いが消えたわけじゃない。ただ、それより先に相手の名前が全部を重くしていた。
天狼。
その名を口にしただけで、皆どこか少しだけ黙る。
大げさでも何でもなく、王者だった。
強いだけじゃない。揺れない。
多少押されても顔色を変えず、試合のどこで何をするかを最初から知っているような動きをする。うちみたいに、その場その場で泥をかぶりながら食らいつく感じとは、土台から違う。
そして何より、俺たちは一度も勝てていない。
練習試合でも。
公式でも。
何度やっても、最後にはあいつらが前にいる。
あと少しだったこともある。
先に点を取ったことだってある。
ハヤトが決めて、いけると思った試合もあった。
それでも終わってみれば負けていた。
相手が強いという事実より、どうやっても勝てないかもしれないという感覚の方が、よほど厄介だった。
朝の調整で身体を動かしながら、俺は何度も深く息を吐いた。足は悪くない。昨日の疲れは残っているが、動けないほどじゃない。むしろ、こういう日は変に軽い方が怖い。重さが少しあるくらいの方が、自分の身体をちゃんと信じられる。
「ユウ」
呼ばれて振り返ると、監督がいた。
「少し来い」
端へ寄る。監督はいつも通り、余計な表情をしない顔で俺を見た。
「お前、今日も前半から飛ばす気だろ」
「飛ばしますよ」
「抑えろ」
「無理です」
即答すると、監督は少しだけ眉を動かした。
「無理じゃない」
「いや、無理です。最初から行かないと飲まれます」
「飲まれるのと、潰れるのは別だ」
言ってることは分かる。
分かるけど、こういう時に冷静に配分できるなら苦労してない。
「お前が落ちると、中盤が死ぬ」
監督は静かな声で言った。
「前へ通すのはハヤトだけじゃない。お前が残ってるかどうかで、全体の顔が変わる」
そう言われると、少しだけ黙るしかなかった。
俺は自分が点を取る側じゃないと分かっている。
その代わり、俺が止まると苦しくなるのも分かっている。
だから余計に走るし、余計に無理をする。
「……分かってます」
「分かってるなら、潰れるな」
「努力します」
「曖昧だな」
「それ以上は約束できないです」
監督は小さく鼻を鳴らした。怒っているわけじゃない。たぶんもう知っているんだ。こういう時の俺が、止まれるようなやつじゃないってことを。
天狼の試合映像は何度も見た。
守備の位置。
前線の走り方。
切り替えの速さ。
誰がどこで圧をかけてくるか。
全部頭には入っている。
でも、入っているから勝てるわけじゃない。
知っている上で止められないから、王者なんだ。
昼前、控え室で着替えながら、皆どこか口数が少なかった。緊張しているのもあるし、下手に喋ると余計なことを考えそうなんだと思う。
俺は靴紐を結び直して、立ち上がった。
「おい」
何人かがこっちを見る。
「何だよ、その顔」
「いや別に」
「別にじゃねえだろ」
わざと少し強めに言う。
こういう時、黙ってる空気が一番嫌いだ。
「相手が天狼だから何だよ。名前で負けるのが一番だせえぞ」
何人かが苦笑する。
それでいい。
少しでも顔が動けば、まだ大丈夫だ。
「どうせ強いのは分かってる。今さらびびって強くなるわけでもねえし、弱くもならねえよ」
「それはそうだけどよ……」
「だったらやるだけだろ。飲まれるな。走れ。声出せ。下向くな」
自分で言いながら、ほとんど自分にも言い聞かせていた。
その時、横でハヤトが立ち上がった。
「ユウ」
「何だよ」
「うるさい」
「うるせえよ」
「でもまあ、言いたいことは分かる」
そう言って、あいつは少し笑った。
「どうせ最後は俺が決めるし」
いつもの調子だった。
その一言だけで、何人かが呆れたように笑う。
空気が少し軽くなる。
「外したら許さねえぞ」
俺が言うと、
「外す前提で喋んな」
と返ってきた。
そのやり取りだけで十分だった。
こいつがこういう顔をしてるなら、まだやれる。
会場へ向かう通路は、決勝だけあっていつもより音が大きかった。歓声も、アナウンスも、床へ響く足音も全部少しずつ重い。俺たちは並んで歩く。前にも後ろにも仲間がいて、その中心で呼吸を合わせる。
隣でハヤトが小さく言った。
「なあ」
「ん?」
「今日さ、もし前半で俺が消えても」
「消えんな」
「いや、もしな」
「ねえよ」
「もし」
少しだけしつこい。
俺は仕方なく視線だけ向けた。
「……何だよ」
「お前が切るなよ」
一瞬、言葉が出なかった。
ハヤトが弱気ってほどじゃない。
でもあいつなりに、天狼の重さを知っているんだと思う。何度もやって、何度も止められてきたから。決める側だからこそ、決めきれない時間の苦しさも知っている。
「お前が決めるまで、俺が何本でも通す」
気づいたらそう言っていた。
「一本で決めろよ」
「偉そうだな」
「偉いからな」
それで、あいつは少しだけ楽そうに笑った。
たぶん俺たちは、こういうことでしか支え合えない。
綺麗な言葉とか、泣ける約束とか、そういうのじゃなくて、ずっとやってきたことを当たり前みたいに口にするだけだ。
それで十分だった。
入場の直前、天狼の選手たちが向こう側に見えた。整っている。無駄がない。立っているだけで分かる。試合前なのに、もう完成しているチームの空気だ。
悔しいけど、格好いいとも思った。
だから余計に勝ちたい。
強いやつに勝つ方が気持ちいいに決まってる。
どうせ勝つなら、ずっと勝てなかった相手の方がいい。
そういう馬鹿みたいな負けん気だけは、昔から消えない。
入場の笛が鳴る。
会場が沸く。
照明がまぶしい。
歓声の中で、自分たちの名前が呼ばれる。
俺は前を見た。
どうせ負けるって空気は、たぶん会場のどこかにある。
青嵐はここまでよく来た、でも相手が悪い、そういう目もたぶんたくさんある。
だから何だ。
勝つ時は、そういうの全部ひっくり返す時だろ。
整列して、握手して、配置につく。
天狼の中盤のやつと目が合った。向こうは落ち着いている。こっちを舐めている感じではない。ただ、慣れている。こういう舞台に立って、こういう空気のまま勝つことに。
俺はそいつから目を逸らさなかった。
笛が鳴る前の数秒が、一番静かだ。
会場がどれだけうるさくても、その時だけは自分の呼吸が聞こえる。
俺は一度だけ拳を握って、すぐに開いた。
勝てない相手なんて、いないとは言わない。
たぶん本当にいる。
それでも、今日そう決まるわけじゃない。
まだ何も始まっていないんだから。




