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IRIS-Log-Archive  作者: IRIS
第八回世界覇蹴戦_IRIS.log

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一度も勝てない相手

 決勝の朝は、妙に静かだった。


 昨日までの浮ついた熱が、きれいに沈んでいる。勝ち上がってきた勢いが消えたわけじゃない。ただ、それより先に相手の名前が全部を重くしていた。


 天狼。


 その名を口にしただけで、皆どこか少しだけ黙る。


 大げさでも何でもなく、王者だった。

 強いだけじゃない。揺れない。

 多少押されても顔色を変えず、試合のどこで何をするかを最初から知っているような動きをする。うちみたいに、その場その場で泥をかぶりながら食らいつく感じとは、土台から違う。


 そして何より、俺たちは一度も勝てていない。


 練習試合でも。

 公式でも。

 何度やっても、最後にはあいつらが前にいる。


 あと少しだったこともある。

 先に点を取ったことだってある。

 ハヤトが決めて、いけると思った試合もあった。


 それでも終わってみれば負けていた。


 相手が強いという事実より、どうやっても勝てないかもしれないという感覚の方が、よほど厄介だった。


 朝の調整で身体を動かしながら、俺は何度も深く息を吐いた。足は悪くない。昨日の疲れは残っているが、動けないほどじゃない。むしろ、こういう日は変に軽い方が怖い。重さが少しあるくらいの方が、自分の身体をちゃんと信じられる。


「ユウ」


 呼ばれて振り返ると、監督がいた。


「少し来い」


 端へ寄る。監督はいつも通り、余計な表情をしない顔で俺を見た。


「お前、今日も前半から飛ばす気だろ」


「飛ばしますよ」


「抑えろ」


「無理です」


 即答すると、監督は少しだけ眉を動かした。


「無理じゃない」


「いや、無理です。最初から行かないと飲まれます」


「飲まれるのと、潰れるのは別だ」


 言ってることは分かる。

 分かるけど、こういう時に冷静に配分できるなら苦労してない。


「お前が落ちると、中盤が死ぬ」


 監督は静かな声で言った。


「前へ通すのはハヤトだけじゃない。お前が残ってるかどうかで、全体の顔が変わる」


 そう言われると、少しだけ黙るしかなかった。


 俺は自分が点を取る側じゃないと分かっている。

 その代わり、俺が止まると苦しくなるのも分かっている。

 だから余計に走るし、余計に無理をする。


「……分かってます」


「分かってるなら、潰れるな」


「努力します」


「曖昧だな」


「それ以上は約束できないです」


 監督は小さく鼻を鳴らした。怒っているわけじゃない。たぶんもう知っているんだ。こういう時の俺が、止まれるようなやつじゃないってことを。


 天狼の試合映像は何度も見た。


 守備の位置。

 前線の走り方。

 切り替えの速さ。

 誰がどこで圧をかけてくるか。


 全部頭には入っている。


 でも、入っているから勝てるわけじゃない。

 知っている上で止められないから、王者なんだ。


 昼前、控え室で着替えながら、皆どこか口数が少なかった。緊張しているのもあるし、下手に喋ると余計なことを考えそうなんだと思う。


 俺は靴紐を結び直して、立ち上がった。


「おい」


 何人かがこっちを見る。


「何だよ、その顔」


「いや別に」


「別にじゃねえだろ」


 わざと少し強めに言う。

 こういう時、黙ってる空気が一番嫌いだ。


「相手が天狼だから何だよ。名前で負けるのが一番だせえぞ」


 何人かが苦笑する。

 それでいい。

 少しでも顔が動けば、まだ大丈夫だ。


「どうせ強いのは分かってる。今さらびびって強くなるわけでもねえし、弱くもならねえよ」


「それはそうだけどよ……」


「だったらやるだけだろ。飲まれるな。走れ。声出せ。下向くな」


 自分で言いながら、ほとんど自分にも言い聞かせていた。


 その時、横でハヤトが立ち上がった。


「ユウ」


「何だよ」


「うるさい」


「うるせえよ」


「でもまあ、言いたいことは分かる」


 そう言って、あいつは少し笑った。


「どうせ最後は俺が決めるし」


 いつもの調子だった。

 その一言だけで、何人かが呆れたように笑う。

 空気が少し軽くなる。


「外したら許さねえぞ」


 俺が言うと、


「外す前提で喋んな」


 と返ってきた。


 そのやり取りだけで十分だった。

 こいつがこういう顔をしてるなら、まだやれる。


 会場へ向かう通路は、決勝だけあっていつもより音が大きかった。歓声も、アナウンスも、床へ響く足音も全部少しずつ重い。俺たちは並んで歩く。前にも後ろにも仲間がいて、その中心で呼吸を合わせる。


 隣でハヤトが小さく言った。


「なあ」


「ん?」


「今日さ、もし前半で俺が消えても」


「消えんな」


「いや、もしな」


「ねえよ」


「もし」


 少しだけしつこい。

 俺は仕方なく視線だけ向けた。


「……何だよ」


「お前が切るなよ」


 一瞬、言葉が出なかった。


 ハヤトが弱気ってほどじゃない。

 でもあいつなりに、天狼の重さを知っているんだと思う。何度もやって、何度も止められてきたから。決める側だからこそ、決めきれない時間の苦しさも知っている。


「お前が決めるまで、俺が何本でも通す」


 気づいたらそう言っていた。


「一本で決めろよ」


「偉そうだな」


「偉いからな」


 それで、あいつは少しだけ楽そうに笑った。


 たぶん俺たちは、こういうことでしか支え合えない。

 綺麗な言葉とか、泣ける約束とか、そういうのじゃなくて、ずっとやってきたことを当たり前みたいに口にするだけだ。


 それで十分だった。


 入場の直前、天狼の選手たちが向こう側に見えた。整っている。無駄がない。立っているだけで分かる。試合前なのに、もう完成しているチームの空気だ。


 悔しいけど、格好いいとも思った。


 だから余計に勝ちたい。


 強いやつに勝つ方が気持ちいいに決まってる。

 どうせ勝つなら、ずっと勝てなかった相手の方がいい。

 そういう馬鹿みたいな負けん気だけは、昔から消えない。


 入場の笛が鳴る。


 会場が沸く。

 照明がまぶしい。

 歓声の中で、自分たちの名前が呼ばれる。


 俺は前を見た。


 どうせ負けるって空気は、たぶん会場のどこかにある。

 青嵐はここまでよく来た、でも相手が悪い、そういう目もたぶんたくさんある。


 だから何だ。


 勝つ時は、そういうの全部ひっくり返す時だろ。


 整列して、握手して、配置につく。

 天狼の中盤のやつと目が合った。向こうは落ち着いている。こっちを舐めている感じではない。ただ、慣れている。こういう舞台に立って、こういう空気のまま勝つことに。


 俺はそいつから目を逸らさなかった。


 笛が鳴る前の数秒が、一番静かだ。

 会場がどれだけうるさくても、その時だけは自分の呼吸が聞こえる。


 俺は一度だけ拳を握って、すぐに開いた。


 勝てない相手なんて、いないとは言わない。

 たぶん本当にいる。

 それでも、今日そう決まるわけじゃない。


 まだ何も始まっていないんだから。

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