今日も誰かといる
その週の終わり、講義が早く終わった日のことだった。
昼から曇っていた空は、夕方になる頃には完全に白く濁っていて、街全体が少しだけぼやけて見えた。雨が降るほどではないけど、空気は湿っている。こういう日は、人の輪郭まで薄く見える気がする。
放課後、俺は流れで数人と駅前へ行くことになった。
流れ、というのは本当に便利だ。
誰かが「どうする?」と言って、別の誰かが「行く?」と返して、その場にいるやつが何となくまとまる。そこに俺がいても不自然じゃない。むしろ自然だ。いつものことみたいに混ざれる。
今日は六人だった。
全員と仲が悪いわけじゃない。むしろ普通に話せるし、笑えるし、一緒にいて気まずくもない。だから店に入って席を分ける時も、俺は自然にその輪の中へいた。
「何頼む?」
「適当でいいや」
「ユウ甘いやつ好きそう」
「何だよそれ」
「何となく」
そんな会話をして、笑って、注文して、飲み物が来るまで端末をいじって、誰かが昨日見た動画の話を始めて、別のやつがその流れで教師の真似をして、皆で笑う。
楽しい。
ちゃんと楽しい。
そこに嘘はない。
俺はたぶん、この手の時間が嫌いじゃない。
誰かと一緒にいて、会話が適当に流れて、たまに笑いが起きて、沈黙もそんなに重くない。そういう時間は普通に好きだ。
なのに、その“普通に好き”って感覚の下に、何か薄いものがずっと残ってる。
飲み物が半分くらい減った頃、話題が急に変わった。
「そういえばさ」
一人が声を少し落として、向かいのやつを見た。
「お前ら、結局どうなったの」
「何が」
「とぼけんなって」
そこで、何人かが同時に笑った。
俺もつられて少し笑ったけど、話の前提が分からなかった。
何となく、前から続いてる話なんだろうなってことだけは分かる。
「いや、別にそんなんじゃないって」
「またまた」
「いやマジで」
周りは面白がってる。
その空気に合わせるのは別に難しくない。
でも、この笑いの芯がどこにあるのかは、俺には見えてない。
それから話は、いつの間にか“昔からのノリ”みたいな方へ流れていった。
「お前、あの時もそうだったじゃん」
「懐かし」
「いや、あれほんと最悪だった」
「でも結局毎回ああなるよな」
皆が笑う。
名前が飛ぶ。
前にも聞いたことがあるような話が混じる。
けど、どの出来事も俺は直接は知らない。
無視されてるわけじゃない。
誰かが気を遣って説明してくれることもある。
でも、説明された時点でそれはもう違う。
最初から共有されてる温度には入れない。
「ユウは知らんか、この話」
一人がそう言ってこっちを見た。
言い方は軽い。悪気もない。
「知らん」
「だよな、まだその時いなかったし」
まだその時いなかった。
何でもない一言だった。
でもそれで、俺がこの場に“今はいるけど、最初からいたわけじゃない”のがきれいに見える。
別に怒ることじゃない。
当然の話だ。
人にはそれぞれ前からの関係があるし、俺だって全部に入り込めるなんて思ってない。
それでも、その一言のあと少しだけ、自分の笑い方が分からなくなった。
話はそのまま続いていく。
俺は適当に相づちを打って、たまに笑って、説明されたところでは一応「へえ」とか「それはきついな」とか返す。
ちゃんとそこにいる。
空気も壊してない。
浮いてもいない。
でも、中心から少しだけ遠い。
それが途中から、やけにはっきり見えた。
店を出る頃にはすっかり暗くなっていた。
外は思ったより寒くて、何人かが肩をすくめる。
駅へ向かう途中も、皆まださっきの話の続きをしていた。
改札の前で自然に流れが分かれる。
方向の同じやつ同士でまとまって、手を振って、またな、と言い合って別れる。
俺もその中で誰かと一緒に歩き出した。
隣のやつが、何となく今日の話の続きみたいなことを言う。
「いやでも、あいつらほんと長いよな」
「そうなんだろうな」
「もう家族みたいなもんじゃね」
「かもな」
その“長い”の中に俺はいない。
“家族みたい”の外側に俺はいる。
なのに今こうして、一緒に歩いてる。
不思議でも何でもない。
そういう薄い繋がりがいくつもあるから、俺は一人にならずに済んでる。
でもたぶん、それだけでもある。
駅で別れて、家に帰って、夕飯を食って、部屋に戻る。
端末を見れば、会話欄はいくつも動いていた。
さっき撮った写真が送られてくる。
誰かが「今日ありがと」と書く。
別のところでは夜の通話に入るか聞かれてる。
仮想空間の遊びの方でも、今から来るならまだいる、と短い連絡がある。
俺は少しだけ迷ってから、通話の方に入ることにした。
理由なんてない。
何となくだ。
通話に入ると、すぐに何人かの声が重なった。
「ユウ来た」
「おつ」
「今日どうだった?」
どうだった、と聞かれても、別に何か特別なことがあったわけじゃない。
だから俺はいつも通り、適当に面白そうなところだけ拾って返す。
「普通。まあ人多かった」
「それな」
「今日だるかったわ」
また会話が回り始める。
誰かが喋って、誰かが笑って、沈黙は長く続かない。
その中にいれば、一人じゃない感じはする。
それでたぶん、十分なはずだった。
でも、ふと声が遠くなる瞬間がある。
俺がここで何を言っても、ちゃんと受け取られる。
いなくても、そのうち誰かが埋める。
いても不自然じゃない。
でも、いなくなっても世界はそのまま進む。
それって別に、俺に限った話じゃないのかもしれない。
人間関係なんて大体そんなものかもしれない。
でも“友達”って言葉を考えると、急にそこだけ輪郭が変わる。
話せる相手。
一緒にいる相手。
暇つぶしできる相手。
笑い合える相手。
それはいる。
ちゃんといる。
じゃあ、友達は?
その問いは、妙にまっすぐすぎて答えにくい。
通話は深夜まで続かなかった。
今日は皆どこか疲れていて、切り上げるのも早かった。
「じゃ、おつ」
「またな」
「明日どうする?」
そういう軽いやり取りで終わる。
俺も「また」と返して切る。
部屋が静かになる。
静かになった途端、今日一日の輪郭が少し薄くなる。
駅前で笑ったことも、昔話の輪に入れなかったことも、帰り道で誰かと歩いたことも、全部まだ覚えてる。
でも、どれも強くは残らない。
たぶん明日も、また誰かと話す。
明後日もそうだ。
それで日々はちゃんと埋まっていく。
埋まっていくのに、どこにも積もらない。
俺は布団の上に横になって、端末を胸の横へ置いた。
通知が一つ鳴る。
別の会話欄だ。
開けばまた誰かがいる。
少しだけ迷ってから、俺はそれを開いた。
短いやり取りをして、返事をして、向こうが笑ったような文を送ってくる。
俺もそれに返す。
それでまた、誰かと繋がる。
窓の外はぼんやり白い。
街の灯りが湿った空気に滲んで、輪郭が溶けて見える。
霧みたいだと思った。
何も見えないわけじゃない。
ちゃんとそこにある。
でも遠くまでははっきりしない。
近くにいるものの形も、少しずつ曖昧になる。
たぶん俺の人間関係も、ずっとそんな感じなんだろう。
それでも、完全な一人ではない。
今だって誰かの返事がある。
名前を呼ばれれば返せる。
笑えば、向こうも笑う。
だから俺は今日も、誰かのいる方へ手を伸ばす。
居場所はない。
それでも――
今日も誰かと一緒にいる。




