本音の置き場
俺は、自分のことを嘘つきだと思ったことはない。
相手によって話し方を変えるのも、見せる顔が少し違うのも、全部その場をうまく回すためだ。本音を隠してるって言われたら、たぶんそうなんだろうけど、じゃあ誰が毎回全部本音で喋ってるんだよって話でもある。皆少しくらいは合わせてるし、削ってるし、飲み込んでる。俺がやってるのも、せいぜいその延長だと思ってた。
でも最近、たまに分からなくなる。
俺が飲み込んでるのは本音なのか。
それとも最初から、はっきりした形なんてないのか。
放課後、教室に残ってたのは数人だけだった。部活に行くやつはもういないし、帰るやつも帰ったあとで、残ってるのはだいたい同じような種類の人間だ。何となくだらだらしてるやつ、誰かを待ってるやつ、端末を見てるやつ。俺もその中の一人で、窓際の机に腰をかけていた。
「ユウ、今日暇?」
声をかけてきたのはミナトだった。
明るすぎず暗すぎず、誰とでもそれなりにやれるやつ。俺と似てると言えば似てるけど、あいつの方がもう少し一つの輪にちゃんと残ってる感じがある。
「まあ、別に」
「じゃあ寄ってかない?」
「どこ」
「駅前。ちょっとだけ」
少しだけ、って言い方は便利だ。
断りにくいし、行きやすい。
「いいよ」
そう返すと、ミナトは「よし」と笑った。
駅前の店は、前にも何度か来たことのある安いところだった。放課後の学生が多くて、席も少し狭い。けど狭いくらいの方が、変に会話が切れなくて楽なこともある。
最初は本当にどうでもいい話しかしてなかった。教師の愚痴、講義のだるさ、最近見た動画、誰が誰を好きっぽいとか、そういうやつ。俺はいつも通り笑って、いつも通り軽く返してた。
でも途中で、ミナトが急に飲み物の氷をかき混ぜながら言った。
「何かさ、最近ちょっとしんどいんだよな」
俺はその時、反射で「何が?」って返そうとして、少しだけ遅れた。
またか、と思ったからだ。
いや、別に嫌だったわけじゃない。
ただ、最近こういう瞬間が増えた気がして、そのたびに自分の返事が薄いことも分かっていた。
「何が」
結局、普通にそう聞く。
「家でも学校でも、何かずっと合わせてる感じ」
その言葉に、少しだけ手が止まった。
ミナトは俺を見ていなかった。
氷の音だけが小さく鳴る。
「別に嫌われてるとかじゃないし、仲悪いわけでもないんだけどさ。ずっとちょっとずつ気使ってる感じで、何か疲れる」
「へえ」
へえ、じゃないだろって自分でも思った。
でも、まず出たのがそれだった。
ミナトは苦笑した。
「今の返し、絶対あんま興味ないやつじゃん」
「いや、あるって」
「嘘」
「嘘じゃない」
そう言った時、自分の声が少しだけ軽すぎるのが分かった。
興味がないわけじゃない。
むしろ分かる話だった。
分かるのに、分かるって言うのが何か変な気がした。
「ユウってさ」
ミナトがようやく俺を見た。
「そういうの、あんま無さそうだよな」
「何が」
「合わせるの疲れるとか。本音どうこうとか」
俺は少し笑った。
「いや、普通にあるだろ」
「でもお前、どこでも同じ感じじゃん」
どこでも同じ。
その言葉に、今度は別の引っかかり方をした。
俺は本当にどこでも同じなんだろうか。
いや、違う。違うはずだ。相手によって話し方も笑い方も、微妙に変えてる。自分ではそう思ってる。
なのに周りから見ると“どこでも同じ”に見えるのかもしれない。
それは器用ってことなのか、輪郭がないってことなのか、少し分かりにくい。
「同じっていうか、まあ合わせてるだけだよ」
「それってしんどくないの」
「別に」
即答した。
ほとんど反射で。
でも、その直後に少しだけ間ができた。ミナトはそれを見てたのかもしれない。
「……本当に?」
そう聞かれて、俺は飲み物の水滴がついた机の上を指でなぞった。
本当に。
たぶん、完全な嘘ではない。
合わせること自体は別に苦じゃない。空気を読むのも、人に合わせて喋るのも、もう慣れてる。自然にできるし、うまくやれる自信もある。
でも、“しんどくない”って言い切ると、何かが少しだけ違う気もする。
「一人の方がましって思うよりは、全然」
結局そう答えた。
それはかなり本音に近かった。
ミナトは少し黙って、それから小さく笑った。
「それは分かる」
そこで会話はいったん落ち着いた。
深く続けようと思えば続けられたかもしれない。
でも俺は、そこで別の話題へ流した。
「てか来週のやつ、結局どうなったの」
「あー、あれね」
ミナトもすぐ乗ってきた。
たぶん向こうも、あそこで本気で踏み込む気はなかったのかもしれない。
それで終わりだ。
よくあることみたいに。
帰り道、駅から少し離れたところでミナトと別れたあと、俺はさっきの会話を思い出していた。
本当に?
あの一言だけが変に残る。
家に着いてからも少しだけ頭にあって、夕飯を食ってる時も、風呂の中でも、何かうまく消えなかった。
俺は、自分の本音を隠してるんだろうか。
そう考えて、すぐ違う気がした。
隠してる、っていうと、ちゃんとした本音がどこかにあって、それを出してないみたいに聞こえる。でも俺は、そこまで立派なものを持ってる気がしない。
たとえば誰かに「何が好きなの」と聞かれれば、答えられる。
遊びも、動画も、食べ物も、嫌いな教師の話も、それなりにある。
でも「どの時の自分が一番自然なの」と聞かれたら、少し困る。
教室の後ろで笑ってる時の俺。
真面目な話に合わせてる時の俺。
夜の通話で適当に突っ込んでる時の俺。
どれも嘘ではない。
でも、どれか一つが本物って感じもしない。
夜、何となく会話欄を開いたら、ミナトから短い連絡が来ていた。
今日はありがと
それだけだ。
俺は少し考えてから、
こちらこそ
と返した。
そのまま終わってもよかったけど、画面を閉じる直前に、もう一つだけ文を打ちかけた。
さっきの話、分かる気がする
そこまで打って、消した。
何で消したのか、自分でもよく分からない。
気恥ずかしかったのかもしれない。
重いと思われるのが嫌だったのかもしれない。
あるいは、その言葉が本当に本音なのか、自信がなかったのかもしれない。
結局、送ったのは短い返事だけだった。
画面が静かになる。
もしあそこで送っていたら、もう少し何か変わったんだろうか。
少なくとも、会話は続いたかもしれない。
でも続いたところで、俺はたぶんまた、相手に合わせた丁度いい温度の返事を探していただけな気もする。
それが嫌なのかどうかも、よく分からない。
窓の外は暗くて、隣の家の灯りだけが少し見えた。
誰かの生活が壁一枚向こうにあるっていうだけで、少しだけ安心することがある。変な話だと思う。
一人は嫌だ。
それは本当だ。
でも、誰かといればそれで満たされるわけでもない。
その間の、ちょうど霧みたいに輪郭のないところに、俺はずっといる気がした。
何となく落ち着かなくて、俺は端末を手に取った。
会話欄はいくつもある。
今からでも誰かに適当な連絡はできる。
通話に入ることもできる。
仮想空間の遊びの中へ行けば、誰かしらいるだろう。
そうやって、俺はいつも誰かのいる方へ行く。
本音を話したいからじゃない。
たぶん、一人の時間を薄くしたいだけだ。
その違いが、最近は少しだけ気になり始めていた。




