旅立ち
旅立ちの日の朝は、妙に早く目が覚めた。
まだ空は白みはじめたばかりで、窓の向こうに見える村の屋根も、畑の柵も、ぼんやりと輪郭しか分からない。なのにもう眠る気にはなれなくて、布団の中でしばらく天井を見てから、俺は大きく息を吐いて起き上がった。
ついにこの日が来たんだ、と思った。
荷物は昨日のうちにまとめてある。着替え、水筒、干し肉、固いパン、少しの薬草、予備の紐。それから、腰に下げる剣。
手に取ると、いつもの重みが掌に馴染んだ。
誓いの剣――なんて立派な名前はついているけど、見た目は別に特別なものじゃない。柄には使い込んだ跡があるし、鍔もぴかぴかというわけじゃない。でも、俺にとっては十分すぎるくらい大事な剣だった。嬉しいときも、悔しいときも、これを振ってきた。十歳で祝福を授かってからはなおさら、毎日欠かさず握ってきた相棒だ。
「……よし」
声に出してみると、少しだけ実感が湧いた。
今日は村を出る。
外の世界へ行く。
冒険者になる――と、そこまで大げさに言うと笑われるかもしれないけど、少なくともその入口には立つつもりだった。
顔を洗って外に出ると、朝の空気はまだひんやりしていて気持ちがいい。遠くで鶏が鳴いて、どこかの家の煙突から細い煙が上がっていた。いつもの村の朝だ。見慣れた景色のはずなのに、今日はなんだか全部が少しだけ違って見える。
井戸のそばで水を汲んでいたおばさんが、俺に気づいて目を丸くした。
「あら、アキ。もう出るのかい?」
「うん。日の高いうちに街道まで行きたくて」
「えらいねえ。あんたなら大丈夫だよ。無茶だけはするんじゃないよ」
「分かってる」
そう答えると、おばさんは笑って、包みに入った焼き菓子を持たせてくれた。
「道中で食べな。祝いだよ」
「ありがとう。帰ってきたら土産、買ってくる」
「そんな余裕があったらね」
軽く笑い合って別れる。
こういう何気ないやり取りが、今日は妙に胸に残った。
村の中央を抜けて、小さな教会へ向かう。旅立ちの前に顔を出しておきたかった。祝福を授かったときも、剣を握ることを決めたときも、神父さんにはずいぶん世話になったからだ。
朝の教会は静かだった。扉を押して中へ入ると、石造りの冷たい空気と、ろうそくの匂いが鼻に届く。祭壇の前で掃除をしていた神父さんが俺を見ると、すぐに目を細めた。
「おや、来ましたね」
「出る前に挨拶しておきたくて」
「そう言うと思っていました」
神父さんは箒を壁に立てかけ、俺の前まで歩いてくる。
「緊張していますか?」
「……少しだけ。でも、楽しみの方が大きいです」
「それは良いことです」
神父さんはそう言って、いつもの穏やかな顔で笑った。
この人は昔から、俺が焦っているときほど落ち着いて見えた。祝福を授かった日もそうだった。
十歳の誕生日、村の子どもは皆、教会で祝福を告げられる。俺もあの日、今と同じ祭壇の前に立っていた。何かすごい力だったらどうしようとか、逆に地味だったら嫌だなとか、そんなことばかり考えていたのを覚えている。
結局、授かったのは少し不思議な祝福だった。
神父さんはそのとき、少しだけ考え込むような顔をしたあとで、こう言った。
『祝福に優劣はありません。大切なのは、どう使い、どう生きるかです』
子どもだった俺には難しい言葉だったけど、そのあとに続いた一言は今でもはっきり覚えている。
『貴方の祝福は、きっと貴方の道を広げてくれるでしょう』
あの言葉が嬉しかった。
だから俺は、祝福が何であれ、自分で強くなろうと思えた。
「神父さん」
「はい」
「俺、ちゃんとやってみます」
何を、とは言わなかった。
強くなること。村の外を知ること。困っている人を助けられるようになること。胸の中にはいくつもあったけど、全部まとめると、そういう言葉になる気がした。
神父さんは頷いた。
「ええ。貴方ならできます」
「そんなに簡単に信じていいんですか」
「長く見てきましたからね」
少し照れくさくて、俺は頭をかいた。
祭壇の前で短く祈る。女神に。村の無事に。俺の旅路に。
そうして教会を出る頃には、空はすっかり明るくなっていた。
村の入口には、思っていたよりたくさんの人が集まっていた。
「おいアキ! 本当に今日だったのかよ!」
「昨日も言っただろ」
「いや、なんか実感なくてさ!」
同年代のやつらが口々に話しかけてくる。畑仕事帰りの大人たちも、わざわざ手を止めて見送りに来てくれていたらしい。正直、ちょっと驚いた。俺ひとりの旅立ちに、こんなに人が集まるとは思っていなかった。
「これ持ってけ、干し肉だ」
「水筒の紐、古そうだったから替えを結んどいたよ」
「街に着いたらまず宿を探すんだぞ」
「変な奴に声かけられてもついてくなよ」
「子どもじゃないんだから」
「村を出る奴は皆そう言うんだよ」
口々に言われて、笑ってしまう。
でも、ありがたかった。
誰かに期待されるのは、少し怖い。
けど、それ以上に嬉しい。
俺は荷物を背負い直して、みんなの顔を順に見た。見慣れた顔ばかりだ。小さい頃から世話になってきた人たちで、怒られたこともあるし、褒められたこともある。村は狭い。だから、良くも悪くも皆が皆を知っている。
その輪の中にいるのが当たり前だった俺が、今日からは外へ出る。
「行ってきます」
そう言うと、ほんの少しだけ空気が静かになった。
それからすぐに、あちこちから「行ってこい」「気をつけろ」「元気でな」と声が飛ぶ。背中を叩かれて、手を振られて、最後にはもう笑うしかなかった。
こんなに見送られたら、格好悪いことはできない。
「強くなって帰ってくるよ」
自然に口から出た言葉に、村の誰かが大きく頷いた。
街道へ続く土の道を歩き出す。
最初は振り返らないつもりだったのに、数歩進んだところで結局気になって振り向いた。
村は朝日に照らされて、やわらかく光っていた。
柵も、畑も、小さな教会も、全部がいつも通りそこにある。
帰る場所がある、と思った。
それだけで、足取りが少し軽くなる。
しばらく歩くと、村の音は少しずつ遠ざかっていった。人の声も、家畜の鳴き声も、風に混じって小さくなっていく。代わりに聞こえてくるのは、自分の足音と、荷物の擦れる音だけだ。
これまでも村の外れまでは何度も来た。薪を拾いに行くこともあったし、狩りの手伝いで森の近くまで行ったこともある。けど、今日の一歩はそれとは違う。戻るための道じゃなくて、進むための道だった。
不安がないわけじゃない。
知らない土地に行くんだ。強い魔物が出る場所だってあるかもしれないし、腕の立つ冒険者に自分の未熟さを思い知らされることもあるだろう。
でも、それでいいとも思っていた。
俺はまだ強くない。
村の中では剣を振れる方だとしても、世界の広さなんて知らない。だったら、知りに行くしかない。自分がどこまで通じるのか。何が足りないのか。どんな相手と出会うのか。
旅は、きっと楽しいことばかりじゃない。
けど、だからこそ価値がある。
昼前、街道の分かれ道が見えてきた。木の看板には、最寄りの町の名前が彫られている。ここから先はもう、村の延長じゃない。本当の意味で、外の世界だ。
俺は足を止めて、腰の剣に触れた。
「行こう」
誰に聞かせるでもなく呟く。
胸の奥で、祝福がかすかに熱を持った気がした。気のせいかもしれない。けれどその小さな感覚さえ、今の俺には旅立ちを後押ししてくれるものに思えた。
女神の祝福を授かった剣士として。
ひとりの冒険者見習いとして。
そして、アキというひとりの人間として。
俺は、まっすぐ前を向いた。
これから先で何が待っているのか、まだ何ひとつ知らない。
どんな仲間に出会うのかも、どんな景色を見るのかも、どんな困難にぶつかるのかも分からない。
それでも、不思議と怖くはなかった。
知らないからこそ、行きたいと思えた。
見たことのないものを見て、届かなかった場所へ行って、今よりずっと強くなりたいと、素直にそう思えた。
陽の光を浴びた街道は、どこまでも続いているように見えた。
だから俺は、その道の先へ向かって歩き出した。
自分の物語が、どこへ続いていくのかも知らないまま。




