石の飛ぶ広場
式典の日は、よく晴れた。
空が高いと、それだけで国がまだ持ちこたえているように見えることがある。冷たい風は残っていたが、陽の差す石畳は明るく、王宮の白い壁も幾分やわらかく見えた。広場には早い時間から人が集まり始めていたと聞く。城下の者たち、商人、地方から来た者、王宮勤めの者、そして式典のために呼ばれた貴族たち。
私はいつものように整えられた。
白を基調に、銀糸の刺繍が光を拾う衣装。
耳元に揺れる飾り。
香りは淡く。
顔色はよく見えるように。
背筋は伸ばして。
若い侍女が最後に王冠を差し出す。私は黙って受け入れた。額に重みが落ちる。もう驚かない。ただ、重いという事実だけが静かにそこにある。
「陛下、本日は広場へ出られる時間が少し長うございます」
「ええ」
「どうかお気をつけて」
何に、と聞く必要はなかった。
近頃、広場へ出る時は必ずこういう言葉が添えられる。明確な脅威があるわけではない。けれど空気が荒れていることは皆知っていた。顔を見たい者と、顔を見たくない者が同じ場所に集まる。そういう日だ。
私は立ち上がり、鏡の中の自分を見た。
美しい、とまでは自分で思わない。
ただ、整っている。
弱っては見えない。
それでいい。
広場へ出る階段を下りる間、外のざわめきが少しずつ近づいてきた。人の声は離れていると波のように聞こえる。意味を持たないまま大きさだけが伝わる。歓声にも、不満にも、期待にも、嘲りにも似た音。
扉が開く。
春の光が差し込んだ。
正面の広場は花で飾られていた。白と薄紅の花々。旗が風を受けて揺れ、石畳には衛兵が並び、両側には貴族や聖職者たちが位置についている。その向こうに城下の民衆。数は多い。思ったより、多い。
私は決められた歩幅で進んだ。
歓声が上がる。
拍手も聞こえる。
その間に、別のざわめきが混じっていることにも気づく。
近くで見れば、人々の顔色はさまざまだった。
笑っている者。
無表情な者。
唇を固く結んだ者。
こちらを見上げるだけで、何も示さない者。
安心、という若い侍女の言葉を思い出す。
この姿を見れば、皆安心する。
そうかもしれない。そうでないかもしれない。
少なくとも、今この広場にいる全ての者に、同じ意味では届いていない。
式典そのものは滞りなく進んだ。祈り、宣言、祝詞、貴族からの挨拶。私は定められた文言を、定められた声量で口にする。王としての言葉は、個人の感情をほとんど要らない。ただ正しく響けばいい。
だが、終盤に差しかかる頃から、広場の空気が少しずつ変わり始めた。
最初は些細な揺れだった。
後方で押し合いでもあったのか、ざわめきが一度だけ大きくなる。衛兵が視線を向ける。何事もないように戻る。
次は、声だった。
何を言っているのかは最初よく聞こえなかった。距離があったし、広場は広い。だが単なる歓声ではないと分かる程度には、尖った響きがあった。
隣に控えていた側近が、ほんのわずかに身を寄せた。
「中へお戻りを」
「まだ終わっていないわ」
「陛下」
「まだよ」
声を乱さずに言う。
ここで露骨に引けば、それだけで“何かある”と認めることになる。
ざわめきはまた膨らんだ。今度ははっきり、抗議の言葉が混じっている。
「返せ!」
「食わせろ!」
「花よりパンを!」
その一つ一つが、風にちぎれながら広場を渡る。
私は正面を見たまま立っていた。
足元の石畳は明るく、掲げられた旗は相変わらず美しい。
その美しさの中へ、荒い声だけが少しずつ混ざっていく。
誰かが何かを投げた。
遠くで、花飾りの一つが崩れる。
衛兵が動いた。
ここから先は速かった。
押し合い。
怒号。
列の乱れ。
逃げようとする者、前へ出る者、制止する衛兵、悲鳴。
飾りとして並べられていた花瓶が一つ倒れ、石畳で砕けた。白い花が泥の上へ散る。
「陛下、こちらへ!」
今度は二人の衛兵が私を囲むように前へ出る。
側近の声も強くなる。
「中へ!」
私はそこでようやく一歩下がった。
下がる、という判断をしたのは私だ。
逃げたのではない。混乱を広げないために、そうするべきだと判断した。
そのはずだった。
だが扉の方へ向かう途中、民衆の中から飛んだ叫びが、妙にはっきり聞こえた。
「何が王だ!」
続けて、別の声。
「見えてるのか!」
私は振り返らなかった。
振り返るべきではないと思った。
王が群衆の怒りに足を止める姿は、美しくない。
そういう判断が、ほとんど呼吸のように先に立つ。
だから私は、整えられた足取りのまま王宮の中へ戻った。
扉が閉まり、広場の音が鈍くなる。
それでも完全には消えない。厚い木の向こうで、人の怒号はまだ生きていた。
「正面を封鎖します」
「広場の衛兵を増員しろ」
「城門を――」
周囲で指示が飛ぶ。
私はその中に立ち尽くしていた。
不思議と、震えはしなかった。
怖くないわけではない。けれど取り乱すほどでもない。
むしろ、こういう時に騒がないことこそが王の務めなのだと、身体の方が先に知っている。
「陛下」
側近が私を見る。
顔色は悪い。
彼はずっと前から、この日を薄く予感していたのかもしれない。
「奥へ」
「いいえ」
「危険です」
「ここで私だけが奥へ逃げる方が危険でしょう」
それは半分本心で、半分は意地だった。
奥へ逃げたところで、この騒ぎがなかったことにはならない。
そして何より、ここで慌てて姿を隠すことは、自分が弱っていると認めることに近かった。
私は窓際へ歩み寄った。
正面広場はここから少しだけ見える。
花飾りの白が乱れ、人の列は崩れ、衛兵の槍が不規則に動いていた。
遠目にも混乱は分かった。
それでもまだ、私はどこかで思っていた。
鎮まるかもしれない、と。
鎮められるかもしれない、と。
だが、その期待は長くは持たなかった。
騒ぎはその日のうちに広場だけで終わらなかった。
夜には城門の外で石が投げられ、翌日には税倉が襲われた。
三日後には北側の兵舎で暴発が起き、兵の一部が命令を拒んだ。
さらに数日もすれば、宮廷内の貴族たちの顔色まで変わり始めた。
昨日まで“王家の威厳”を口にしていた者たちが、急に口数を減らす。
支えると言っていた者ほど、よそよそしくなる。
忠誠というものが、いかに空腹と恐怖に弱いかを、私はその時になって改めて見せつけられた。
「お逃げください」
何人目かの進言だった。
耳慣れた言葉になるほど、国は終わりに近づいている。
「どこへ」
私はそう返した。
「東へ。山を越えればまだ――」
「王が国を捨てて?」
「命を繋げば、立て直す道が」
「立て直す?」
私は小さく笑った。
侮りではない。
ただ、その言葉がもう空々しく聞こえた。
立て直す。
何を、どこから。
この城を捨てて、怒りと飢えの前から背を向けて、それでなお王でいられるのなら、私は最初からこんな形にはなっていない。
「私は行かないわ」
「陛下」
「今さら命だけ選り分けるのは、あまり上品ではないもの」
その言葉に、部屋の中がしんとした。
誰も反論しなかった。
反論できないのではなく、もう私が変わらないことを知っていたのだろう。
それからの崩れ方は、静かだった。
城門が破られ、内通した兵が出て、回廊を走る足音が増える。
泣く者もいた。喚く者もいた。命乞いをする声も、物を運び出す音も、どこかで扉が壊れる音も、全部聞こえた。
その中で私は、一度も走らなかった。
逃げようと思わなかったわけではない。
ただ、逃げる自分の姿がどうしても思い浮かばなかった。
私に残っていたものが品位だけだったのか、意地だけだったのか、それとも区別のつかない何かだったのかは分からない。
やがて部屋の扉が開かれ、私は捕えられた。
手首を強く掴まれる。
衛兵だった男の顔には見覚えがあった。彼は目を逸らした。
忠誠を失ったのではなく、置く場所を変えただけなのかもしれない。
私は何も言わなかった。
泣き叫ぶことも、許しを請うことも、彼らを罵ることもしなかった。
そうすることに意味を感じなかったし、何より美しくないと思った。
石造りの廊下を引かれていく。
靴音が響く。
窓の外は不思議なほど晴れていた。革命の日がこんなに明るい必要はないのに、と場違いなことを考えた。
広場へ出ると、民衆の熱気が一気に肌へ当たった。
あの日の式典の時よりも近い。
ずっと近い。
花ではなく、人の息と汗と怒りの匂いがする。
断頭台は広場の中央に据えられていた。
磨かれてはいない木。
乱暴に作られた階段。
周囲には兵と群衆。
誰かが叫ぶ。
誰かが笑う。
誰かが罵る。
私はその中を歩かされた。
衣装はもう乱れていた。王冠もない。髪も崩れている。けれど、背筋だけは伸ばしていた。
群衆の顔が見える。
痩せた者。
怒りで赤くなった者。
興奮で目を輝かせている者。
泣いている者。
石を握っている子供。
そのどれもが、この国の一部だった。
見えていなかったわけではない。
ただ、遅かったのだろう。
あるいは、見えたところで選ばなかった。
階段を上がる。
足元の木がわずかに軋む。
両脇から腕を取られ、私は台の上に立たされた。
誰かが何かを読み上げていた。
罪状だろう。
もう半分も聞いていなかった。
私は広場を見た。
空は青い。
風が旗を揺らしている。
遠くの建物の窓が光る。
人の顔が、ひどくたくさんある。
これが私の国だった。
手首を固定される。
肩を押される。
冷たい木の感触が肌へ触れる。
どこかで、女の泣く声がした。
別の場所では、笑い声もした。
怒号の中に、単なる見物の昂ぶりが混じっていることが分かる。
人はこういう時、案外すぐに残酷になる。
何かが飛んできて、足元へ落ちた。
泥だった。
次は小さな石。
次は腐った野菜のようなもの。
群衆はもう待ちきれないらしかった。
私は顔を上げたままいた。
喚かない。
縋らない。
最後まで、その程度のことは守りたかった。
それが愚かだとしても、今さら変えようとは思えない。
広場が揺れるように騒ぐ。
罵声が重なる。
石と泥とごみが飛ぶ。
そして――
硬いものが、頭に当たった。




