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IRIS-Log-Archive  作者: IRIS
気高き女王は凛と咲く_IRIS.log

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195/258

石の飛ぶ広場

 式典の日は、よく晴れた。


 空が高いと、それだけで国がまだ持ちこたえているように見えることがある。冷たい風は残っていたが、陽の差す石畳は明るく、王宮の白い壁も幾分やわらかく見えた。広場には早い時間から人が集まり始めていたと聞く。城下の者たち、商人、地方から来た者、王宮勤めの者、そして式典のために呼ばれた貴族たち。


 私はいつものように整えられた。


 白を基調に、銀糸の刺繍が光を拾う衣装。

 耳元に揺れる飾り。

 香りは淡く。

 顔色はよく見えるように。

 背筋は伸ばして。


 若い侍女が最後に王冠を差し出す。私は黙って受け入れた。額に重みが落ちる。もう驚かない。ただ、重いという事実だけが静かにそこにある。


「陛下、本日は広場へ出られる時間が少し長うございます」


「ええ」


「どうかお気をつけて」


 何に、と聞く必要はなかった。

 近頃、広場へ出る時は必ずこういう言葉が添えられる。明確な脅威があるわけではない。けれど空気が荒れていることは皆知っていた。顔を見たい者と、顔を見たくない者が同じ場所に集まる。そういう日だ。


 私は立ち上がり、鏡の中の自分を見た。


 美しい、とまでは自分で思わない。

 ただ、整っている。

 弱っては見えない。

 それでいい。


 広場へ出る階段を下りる間、外のざわめきが少しずつ近づいてきた。人の声は離れていると波のように聞こえる。意味を持たないまま大きさだけが伝わる。歓声にも、不満にも、期待にも、嘲りにも似た音。


 扉が開く。

 春の光が差し込んだ。


 正面の広場は花で飾られていた。白と薄紅の花々。旗が風を受けて揺れ、石畳には衛兵が並び、両側には貴族や聖職者たちが位置についている。その向こうに城下の民衆。数は多い。思ったより、多い。


 私は決められた歩幅で進んだ。


 歓声が上がる。

 拍手も聞こえる。

 その間に、別のざわめきが混じっていることにも気づく。


 近くで見れば、人々の顔色はさまざまだった。

 笑っている者。

 無表情な者。

 唇を固く結んだ者。

 こちらを見上げるだけで、何も示さない者。


 安心、という若い侍女の言葉を思い出す。

 この姿を見れば、皆安心する。

 そうかもしれない。そうでないかもしれない。


 少なくとも、今この広場にいる全ての者に、同じ意味では届いていない。


 式典そのものは滞りなく進んだ。祈り、宣言、祝詞、貴族からの挨拶。私は定められた文言を、定められた声量で口にする。王としての言葉は、個人の感情をほとんど要らない。ただ正しく響けばいい。


 だが、終盤に差しかかる頃から、広場の空気が少しずつ変わり始めた。


 最初は些細な揺れだった。

 後方で押し合いでもあったのか、ざわめきが一度だけ大きくなる。衛兵が視線を向ける。何事もないように戻る。


 次は、声だった。


 何を言っているのかは最初よく聞こえなかった。距離があったし、広場は広い。だが単なる歓声ではないと分かる程度には、尖った響きがあった。


 隣に控えていた側近が、ほんのわずかに身を寄せた。


「中へお戻りを」


「まだ終わっていないわ」


「陛下」


「まだよ」


 声を乱さずに言う。

 ここで露骨に引けば、それだけで“何かある”と認めることになる。


 ざわめきはまた膨らんだ。今度ははっきり、抗議の言葉が混じっている。


「返せ!」

「食わせろ!」

「花よりパンを!」


 その一つ一つが、風にちぎれながら広場を渡る。


 私は正面を見たまま立っていた。

 足元の石畳は明るく、掲げられた旗は相変わらず美しい。

 その美しさの中へ、荒い声だけが少しずつ混ざっていく。


 誰かが何かを投げた。

 遠くで、花飾りの一つが崩れる。

 衛兵が動いた。


 ここから先は速かった。


 押し合い。

 怒号。

 列の乱れ。

 逃げようとする者、前へ出る者、制止する衛兵、悲鳴。

 飾りとして並べられていた花瓶が一つ倒れ、石畳で砕けた。白い花が泥の上へ散る。


「陛下、こちらへ!」


 今度は二人の衛兵が私を囲むように前へ出る。

 側近の声も強くなる。


「中へ!」


 私はそこでようやく一歩下がった。


 下がる、という判断をしたのは私だ。

 逃げたのではない。混乱を広げないために、そうするべきだと判断した。


 そのはずだった。


 だが扉の方へ向かう途中、民衆の中から飛んだ叫びが、妙にはっきり聞こえた。


「何が王だ!」


 続けて、別の声。


「見えてるのか!」


 私は振り返らなかった。

 振り返るべきではないと思った。


 王が群衆の怒りに足を止める姿は、美しくない。

 そういう判断が、ほとんど呼吸のように先に立つ。


 だから私は、整えられた足取りのまま王宮の中へ戻った。


 扉が閉まり、広場の音が鈍くなる。

 それでも完全には消えない。厚い木の向こうで、人の怒号はまだ生きていた。


「正面を封鎖します」


「広場の衛兵を増員しろ」


「城門を――」


 周囲で指示が飛ぶ。

 私はその中に立ち尽くしていた。


 不思議と、震えはしなかった。

 怖くないわけではない。けれど取り乱すほどでもない。

 むしろ、こういう時に騒がないことこそが王の務めなのだと、身体の方が先に知っている。


「陛下」


 側近が私を見る。

 顔色は悪い。

 彼はずっと前から、この日を薄く予感していたのかもしれない。


「奥へ」


「いいえ」


「危険です」


「ここで私だけが奥へ逃げる方が危険でしょう」


 それは半分本心で、半分は意地だった。

 奥へ逃げたところで、この騒ぎがなかったことにはならない。

 そして何より、ここで慌てて姿を隠すことは、自分が弱っていると認めることに近かった。


 私は窓際へ歩み寄った。


 正面広場はここから少しだけ見える。

 花飾りの白が乱れ、人の列は崩れ、衛兵の槍が不規則に動いていた。

 遠目にも混乱は分かった。


 それでもまだ、私はどこかで思っていた。

 鎮まるかもしれない、と。

 鎮められるかもしれない、と。


 だが、その期待は長くは持たなかった。


 騒ぎはその日のうちに広場だけで終わらなかった。

 夜には城門の外で石が投げられ、翌日には税倉が襲われた。

 三日後には北側の兵舎で暴発が起き、兵の一部が命令を拒んだ。

 さらに数日もすれば、宮廷内の貴族たちの顔色まで変わり始めた。


 昨日まで“王家の威厳”を口にしていた者たちが、急に口数を減らす。

 支えると言っていた者ほど、よそよそしくなる。

 忠誠というものが、いかに空腹と恐怖に弱いかを、私はその時になって改めて見せつけられた。


「お逃げください」


 何人目かの進言だった。

 耳慣れた言葉になるほど、国は終わりに近づいている。


「どこへ」


 私はそう返した。


「東へ。山を越えればまだ――」


「王が国を捨てて?」


「命を繋げば、立て直す道が」


「立て直す?」


 私は小さく笑った。

 侮りではない。

 ただ、その言葉がもう空々しく聞こえた。


 立て直す。

 何を、どこから。

 この城を捨てて、怒りと飢えの前から背を向けて、それでなお王でいられるのなら、私は最初からこんな形にはなっていない。


「私は行かないわ」


「陛下」


「今さら命だけ選り分けるのは、あまり上品ではないもの」


 その言葉に、部屋の中がしんとした。

 誰も反論しなかった。

 反論できないのではなく、もう私が変わらないことを知っていたのだろう。


 それからの崩れ方は、静かだった。


 城門が破られ、内通した兵が出て、回廊を走る足音が増える。

 泣く者もいた。喚く者もいた。命乞いをする声も、物を運び出す音も、どこかで扉が壊れる音も、全部聞こえた。


 その中で私は、一度も走らなかった。


 逃げようと思わなかったわけではない。

 ただ、逃げる自分の姿がどうしても思い浮かばなかった。


 私に残っていたものが品位だけだったのか、意地だけだったのか、それとも区別のつかない何かだったのかは分からない。


 やがて部屋の扉が開かれ、私は捕えられた。


 手首を強く掴まれる。

 衛兵だった男の顔には見覚えがあった。彼は目を逸らした。

 忠誠を失ったのではなく、置く場所を変えただけなのかもしれない。


 私は何も言わなかった。


 泣き叫ぶことも、許しを請うことも、彼らを罵ることもしなかった。

 そうすることに意味を感じなかったし、何より美しくないと思った。


 石造りの廊下を引かれていく。

 靴音が響く。

 窓の外は不思議なほど晴れていた。革命の日がこんなに明るい必要はないのに、と場違いなことを考えた。


 広場へ出ると、民衆の熱気が一気に肌へ当たった。


 あの日の式典の時よりも近い。

 ずっと近い。

 花ではなく、人の息と汗と怒りの匂いがする。


 断頭台は広場の中央に据えられていた。

 磨かれてはいない木。

 乱暴に作られた階段。

 周囲には兵と群衆。


 誰かが叫ぶ。

 誰かが笑う。

 誰かが罵る。


 私はその中を歩かされた。

 衣装はもう乱れていた。王冠もない。髪も崩れている。けれど、背筋だけは伸ばしていた。


 群衆の顔が見える。

 痩せた者。

 怒りで赤くなった者。

 興奮で目を輝かせている者。

 泣いている者。

 石を握っている子供。


 そのどれもが、この国の一部だった。


 見えていなかったわけではない。

 ただ、遅かったのだろう。

 あるいは、見えたところで選ばなかった。


 階段を上がる。

 足元の木がわずかに軋む。

 両脇から腕を取られ、私は台の上に立たされた。


 誰かが何かを読み上げていた。

 罪状だろう。

 もう半分も聞いていなかった。


 私は広場を見た。


 空は青い。

 風が旗を揺らしている。

 遠くの建物の窓が光る。

 人の顔が、ひどくたくさんある。


 これが私の国だった。


 手首を固定される。

 肩を押される。

 冷たい木の感触が肌へ触れる。


 どこかで、女の泣く声がした。

 別の場所では、笑い声もした。

 怒号の中に、単なる見物の昂ぶりが混じっていることが分かる。


 人はこういう時、案外すぐに残酷になる。


 何かが飛んできて、足元へ落ちた。

 泥だった。

 次は小さな石。

 次は腐った野菜のようなもの。


 群衆はもう待ちきれないらしかった。


 私は顔を上げたままいた。

 喚かない。

 縋らない。

 最後まで、その程度のことは守りたかった。


 それが愚かだとしても、今さら変えようとは思えない。


 広場が揺れるように騒ぐ。

 罵声が重なる。

 石と泥とごみが飛ぶ。


 そして――


 硬いものが、頭に当たった。

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