見えなくなるもの
春が来ても、国は軽くならなかった。
雪が消えれば少しは息を吹き返すと、毎年どこかで期待している。畑が色を戻し、往来が増え、痩せた者の頬にも多少は血の気が戻る。そういう当たり前の巡りを、人は都合よく信じたがる。
けれど、その年の春は違った。
城下へ届く報告は相変わらず重いままだったし、街道沿いの小競り合いも収まらない。南の村では種籾まで食べた家があるという。北では備蓄倉へ押し入ろうとした者が捕まった。市場では値の吊り上がった穀物を巡って殴り合いが起き、兵を出して鎮めた町もある。
季節が変わっても、人の腹はすぐには満たされない。
私はそれを知っている。
知っている、はずだった。
その日の午後、南の領主が拝謁に来た。
年配の男で、もともと頑丈そうな骨格をした人物だ。以前より背が少し縮んで見えたのは、年齢のせいだけではないのかもしれない。服はきちんとしていたが、袖口の擦り切れをごまかしきれていなかった。
彼は礼を尽くして膝をつき、決して無礼にはならない言葉で窮状を訴えた。
「春を越えましても、南の村々には余裕がございません」
「報告は受けています」
「徴税をこのまま維持いたしますと、来季の耕作に影響が」
「維持しなければ、王都の備えが崩れます」
「承知しております。ですが」
男はそこで一度、言葉を選ぶように黙った。
「民はもう、数字では耐えられぬところまで来ております」
数字。
その言い方に、私はほんのわずかに目を細めた。
彼は私を責めたのではない。
ただ、報告書の数字として扱われることと、実際に腹を空かせて立っていることは違うのだと、遠回しに言っただけだ。
「では、南はどうしろと言うの」
「一時的な減免を」
「その穴はどこが埋めるの?」
「……北と東に、まだ余力が」
「その言葉を他領の前でも言える?」
男は口を閉ざした。
言えないだろう。言えば次は領同士が食い合う。
私は肘掛けへ手を置いたまま、できるだけ穏やかに続けた。
「今は一箇所だけを軽くする時ではありません。均して持ちこたえさせるべき時です」
均して。
その語が、我ながら嫌に冷たく聞こえた。
男は深く頭を下げた。従う姿勢を見せながらも、その背中には諦めに近い重さがあった。
「かしこまりました」
その言葉は忠誠でも納得でもなく、ただ終わらせるための響きをしていた。
領主が去ったあと、私はしばらく玉座に座ったまま動かなかった。謁見の間は広く、天井が高い。磨かれた床へ差し込む光は美しい。こうしていると、この国はまだ整って見える。少なくとも、この部屋の中だけなら。
「お疲れでございますか」
控えていた侍女が小声で尋ねた。
「少しだけ」
「お茶をお持ちしましょうか」
「ええ」
侍女は静かに一礼して下がる。足音はほとんどしない。昔から礼儀のよく出来た子だったが、近頃はその静けさが、存在そのものを薄くしているように見えることがあった。
疲れているのは私だけではない。
その当たり前のことが、こういう時にだけ妙にはっきり見える。
だが見えたところで、すぐに何かを変えられるわけではない。
その夜、側近の一人が珍しく強く進言した。
彼は以前から、飾りを削ることに慎重な反対をしていた男だった。声を荒げることはないが、引くべきところでは引かない。
「春の式典について、再考を」
「再考?」
「規模を落とすべきかと」
私は書類から目を上げた。
「なぜ」
「城下の空気が危うくなっております」
「危ういのは今に始まったことではないわ」
「ええ。ですが今回は、見せ方が火に油を注ぐ恐れがございます」
火に油。
その比喩は露骨だった。
「式典は毎年のものよ」
「毎年のものでも、今年は違います」
「違うからこそ、崩してはいけないのではなくて?」
そう返すと、男は一歩も退かなかった。
「民は今、気高さよりパンを見ています」
「王はパンにはなれないわ」
「ですが、パンのない者の前で輝きすぎれば、敵になります」
部屋の空気が少しだけ冷えた気がした。
敵。
その言葉を、宮廷の中で、しかも私に向かって使う者は多くない。
「私が敵だと?」
「そうではありません」
「なら何」
「見えているものが違うのです」
私は立ち上がった。
机の向こうで、男は微動だにしない。
「私は見ているわ」
「はい」
「飢えも、流民も、税の重さも知っている」
「はい」
「その上で選んでいるの」
「存じております」
「なら、何が違うというの」
声を荒げたつもりはなかった。
それでも、最後の問いだけ少し鋭くなった。
男は視線を落とさないまま答える。
「知っておられることと、感じておられることが、もう同じではないのかと」
私は何も言えなかった。
それはあまりにも無礼で、同時にあまりにも正面から来る言葉だった。
怒るべきなのかもしれない。実際、一歩間違えば罰してもおかしくない。
けれど怒れなかった。
怒れない程度には、その言葉がどこかで当たっていたからだ。
「……下がりなさい」
しばらくして、ようやくそれだけを言った。
男は一礼した。勝ち誇るでもなく、怯えるでもなく。ただ重たい顔のまま去っていく。
一人になった部屋で、私は深く息を吐いた。
知っておられることと、感じておられることが、もう同じではない。
そんなことがあるのか、と最初は思った。
だが少し考えれば、答えは出る。
ある。
いくらでもある。
報告書で知る飢えと、目の前で見る飢えは違う。
数字で知る死者と、誰かの名前を持つ死者は違う。
必要な演出としての花と、食えない花を見上げる者の腹の減り方は違う。
私はそれを、最初はちゃんと分けていた気がする。
分けた上でなお、選ぶしかないと思っていた。
けれど今は、その境目が前より曖昧になっているのかもしれない。
必要だから飾る。
飾るのが当たり前になる。
当たり前になると、そこを削ることの怖さだけが先に立つ。
そうして、削られる側の感覚は遠くなる。
翌朝、私は城下の教会へ寄進する品目の一覧を見ていた。
穀物、乾物、薄布、薬草。量は少なくない。王としての慈悲を示す意味もあるし、実際に必要でもある。
それを見ながら、私は一瞬だけ思った。
これを式典に回す分から捻出すれば、もう少し増やせるのではないか。
その考えは、すぐ別の考えに押し返された。
寄進は内向きの善意に見える。
式典は外向きの防衛になる。
今、国を守るならどちらが重い?
私は結局、一覧の数字を変えなかった。
正しい判断だったのかどうかは分からない。
ただ、こういう時に私はもう迷う時間が短い。そこがいちばん危ういのだと、自分でも思う。
昼、私は珍しく上階の回廊から城下を眺めた。
風が強く、春の光はあるのに温かくない。広場には人が集まり、荷車が行き交っている。遠目に見る限り、街は普通に動いていた。
普通。
その言葉の中に、どれだけの無理が詰まっているのだろう。
広場の一角で、兵に何かを言い募っている女の姿が見えた。荷を抱えていた。兵は最初面倒そうに相手をしていたが、やがて首を振る。女はさらに身を乗り出す。最後には、近くの者に引き離されるようにしてその場を離れた。
声は届かない。
ただ、動きだけが見える。
「陛下」
後ろから侍女が呼ぶ。
「式典でお使いになる花の見本が届いております」
私は振り返った。
侍女の腕には白い花が抱えられている。小ぶりだが、花弁の縁が整っていて、香りも強すぎない。たしかに悪くない。正面の広間に置けば、清潔で高貴な印象になるだろう。
「こちらはいかがでしょうか」
私は花を見た。
白い。
静かだ。
よく整っている。
それを見た瞬間、回廊の下で兵へ詰め寄っていた女の動きが頭のどこかへ引っ込んでしまった。
そのことに、自分で少しぞっとした。
人は目の前のものへ意識を奪われる。
美しいものは特にそうだ。
整っているものは、考えを滑らかにする。
乱れたもの、飢えたもの、醜く取り乱したものは、視界の端へ追いやられる。
宮廷で暮らしていると、それがますます早くなる。
「……ええ、悪くないわ」
そう答えた声は、我ながらいつも通りだった。
「広間にはそれを。謁見の間はもう少し背の高いものを選んで」
「かしこまりました」
侍女は花を抱えたまま一礼する。
その顔は安堵していた。女王の機嫌を損ねずに済んだ、という安堵だ。
私は何も言わなかった。
夕方、城門の外で小さな騒ぎが起きた。
炊き出しの列が乱れたらしい。割り当てが少ない、横入りがあった、そんな程度のことだったと報告は上がってきた。死者はない。怪我人も軽い。兵で鎮めた。いつものように。
いつものように。
その報告を聞いた時、私は少しだけ考えて、それから別の書類へ手を伸ばした。
以前なら、もう少し詳しく訊いたかもしれない。
どんな者がいたのか。
何が足りなかったのか。
なぜ列が乱れたのか。
今は、死者がないと聞いた時点で、ひとまず次へ進めてしまう。
それがいけないことだと、頭では分かっている。
けれど国を動かすというのは、そうやって優先順位をつけることでもある。
そう言い訳して、私は見ないまま通り過ぎる。
夜、式典に向けた最後の打ち合わせが終わった後、私は自室の鏡の前へ座っていた。侍女が髪を解いていく。重みが抜け、肩が少し軽くなる。
「明日は晴れるそうです」
若い侍女が言う。
「それはよかったわ」
「広場にも人が集まるでしょう」
「そうね」
「陛下のお姿を見られれば、皆も安心するかと」
私は鏡越しに、その侍女を見た。
悪気なく、ただそう信じている顔だった。
安心。
王が整って見えることで、人は本当に安心するのだろうか。
するのかもしれない。少なくとも一瞬は。
だが腹は満たされない。
なのに、私は明日も整って出る。
出なければならないと、今でも思っている。
それが間違いだと認めるには、ここまで削ってきたものが多すぎる。
窓の外には、春の夜気が広がっていた。
城下の灯りは以前より少ない。
それでも王宮の上階だけは明るい。
私はその明るさの中に座っている。
見えていないわけではない。
ただ、もう同じ重さでは見えていないのかもしれない。
そのことを認めたくないまま、私は目を閉じた。




