慣れ
季節が一つ巡る頃には、削ることも、飾ることも、どちらも日常になっていた。
最初のうちは、毎回胸のどこかがざわついていたのだと思う。晩餐の皿数を決めるたび、衣装の生地を選ぶたび、花瓶に挿す花の量を調整するたび、その向こうにあるものを考えた。今これに使う分で、どこかの食卓が少し豊かになるのではないか。逆に、ここで貧しさを見せれば、その先で奪われるものはもっと大きいのではないか。そうやって、いちいち秤にかけていた。
けれど、秤にかけ続けるのは疲れる。
疲れた者から順に、いつしか考える手を止める。
これは必要なこと。
これは仕方のないこと。
これは国のため。
そういう言葉で一度包んでしまえば、そのたびに痛む必要はなくなる。
たぶん私も、そうして少しずつ慣れていった。
朝、侍女たちに整えられる。
昼、謁見や報告や署名をこなす。
夜、貴族や使節や聖職者の前で微笑む。
必要があれば晩餐を開き、必要がなければ簡素に済ませる。
簡素、といっても、王宮の簡素は城下の豪奢よりまだ上だ。そんなことも、分からないわけではない。
それでも、日々は流れる。
報告書は相変わらず数字の顔で届いた。収穫量はさらに落ち、北の備蓄は予定より早く減り、南では小さな暴動がいくつか起きた。税の取り立てを拒んだ村がある。街道で荷を奪う者が増えた。痩せた子供が、冬を越えられずに死んだ。そういう文が、黒い文字になって机へ置かれる。
私は読む。
読んで、必要な指示を出す。
軍をどこへ回すか。
備蓄をどこへ割くか。
どの貴族へ追加の負担を命じるか。
その一つ一つは、たしかに現実に触れているはずだった。
なのに、触れている感覚は少しずつ薄れていく。
数字は便利だ。
あまりに便利すぎる。
それが十か二十か百かで、人は一度安堵する。
顔ではなく数で見れば、判断が早い。
匂いも温度も声もない分、決めやすい。
それは王として必要なことだと、私は何度も自分に言い聞かせた。いちいち一人一人の痛みを肌で感じていては国など動かせない。王とは、そういうものではない。俯いて泣く誰かの手を取る役ではなく、その向こうにある大きな形を守る役だ。
その理屈は、今でも間違っていないと思う。
ただ、人は理屈だけで出来てはいないのだと、どこかで分かってもいた。
ある日の午後、衣装部屋で春の式典に向けた装いを選んでいた時のことだった。
侍女たちが幾枚かの布を広げて見せる。薄い金糸の入った白、落ち着いた青、深い紅。どれも今の国に相応しい“上品な豊かさ”を演出するためのものだ。露骨な豪奢ではなく、衰えてはいないと知らせるための豊かさ。そんなものが本当にあるのだと、いつの間にか私は疑わなくなっていた。
「こちらは少し華やかすぎるかと」
若い侍女が紅の布へ手を添えて言う。
「ええ。今は白の方がいいわ」
「白でございますか」
「重く見せたくないもの」
言ってから、自分で少しだけ引っかかった。
重く見せたくない。
何を、誰に対して。
けれど侍女たちは何の疑問もなく頷き、白の布を前へ出した。
以前なら、もう少し質素なものはないかと誰かが口にしたかもしれない。今では誰も言わない。言わなくなったのか、言えなくなったのかは分からない。
私が選ぶ。
皆が従う。
それが自然になっていく。
布の光沢を指先で確かめながら、私はふと尋ねた。
「侍女たちの衣装も、新しいものを一式揃えたのね」
「はい」
「必要だったかしら」
年嵩の侍女が、ほとんど間を置かずに答えた。
「陛下にお仕えする者がみすぼらしくあってはなりませんので」
その言い方が、あまりにも自然だった。
私は何も言えなくなった。
それは私自身が何度も口にしてきた理屈と同じだったからだ。
王がみすぼらしくあってはならない。
王宮がみすぼらしくあってはならない。
この国がみすぼらしく見えてはならない。
最初はそれが、他国に弱みを見せないための盾だった。
今では城の中の誰もが、それを当たり前の前提として受け入れている。
当たり前。
その言葉の怖さを、私はよく知っているつもりだったのに。
夕方、財務を預かる老臣が報告に来た。
皺の深い男で、以前はもっと口数が多かった気がする。近頃は、必要なことしか言わない。
「式典の費用についてですが」
「ええ」
「削れるところは削りました」
「そう」
「ただ、花の数と照明については、これ以上減らしますと見た目に出ます」
私は一瞬だけ考え、それから言った。
「では、そのままで」
「かしこまりました」
迷いは短かった。
短すぎたかもしれない。
以前なら、他に削れるものはないかともう少し細かく見たはずだ。けれど今の私は、“見た目に出る”と言われただけで答えを出していた。そこに疑問を差し挟むことの方が、むしろ奇妙に思えた。
老臣が去った後、私は椅子に背を預けた。
何かが少しずつ変わっている。
そのことに気づいていないわけではない。
ただ、その変化のどこまでが必要で、どこからが麻痺なのかが分かりにくくなっていた。
夜、寝所へ戻る前に、私は珍しく裏庭の方へ足を向けた。城の正面からは見えない場所だ。使用人たちが短い休憩を取るための石の腰掛けがあり、物資の運び込みにも使われる。灯りは少なく、空気が冷たい。
そこで、二人の下働きが小さな声で話しているのが聞こえた。
気づかれないよう足を止めるつもりはなかった。だが、私の姿が陰に紛れていたのだろう、向こうはしばらく気づかなかった。
「また花だって」
「今度の式典?」
「うん。正面の広間に飾る分、追加で」
「花なんて食えないのに」
短い沈黙。
それから、もう一人が慌てたように言う。
「馬鹿、聞かれたらどうするの」
「ここで誰が」
その時、風向きが変わって、私の纏っていた香が流れたのかもしれない。二人が同時にこちらを見て、顔色を変えた。慌てて膝をつく音がする。
「へ、陛下……」
私はすぐには声をかけなかった。
“花なんて食えない”。
その言葉が、思ったより素直に胸へ刺さっていた。
「顔を上げなさい」
二人は震えながら頭を上げる。若い。どちらも痩せている。頬の線が細い。目の下に影がある。
「今の言葉を咎めるつもりはないわ」
「申し訳ございません」
「けれど、なぜ花を飾るのかは考えたことがある?」
二人は答えられなかった。
当然だろう。そんな問いは、飢えている者に向けるにはあまりに冷たい。
それでも私は続けた。
「正面の広間へ入るのは、我が国の中でも外でも、それなりの立場を持つ者たちよ。彼らは一つ一つを見ている。花が枯れていれば、水が足りないと見る。花がないなら、彩る余裕もないと見る。そうして、この国は痩せたと判断する」
一人が、恐る恐る口を開いた。
「ですが……」
「何?」
「それで、何か……変わるのでしょうか」
若い声だった。
問いとしてはあまりに素直で、だからこそ答えにくい。
それで何か変わるのか。
私はその問いに、以前なら迷わず答えられたはずだった。
変わる、と。
見た目は力だ、と。
弱みを見せれば舐められる、と。
今も、その理屈は変わっていない。
変わっていないのに、目の前の痩せた顔を見ていると、答えがどこか空中に浮く。
「変わるわ」
結局、私はそう言った。
「少なくとも、何も見せないよりは」
二人は深く頭を下げた。
納得したのではなく、引き下がっただけだと分かった。
私はそれ以上そこに立っていられず、踵を返した。
背中に二人の視線を感じる。怒りではない。理解でもない。ただ遠いものを見るような気配だった。
その夜、寝台に入ってもなかなか眠れなかった。
花なんて食えない。
それで何か変わるのでしょうか。
どちらも正しい言葉に聞こえる。
だが王がそれを正しいと言ってしまえば、別のところで何かが崩れる。
そう信じてここまで来た。
信じてきたからこそ、今さら立ち止まれば、これまで削ってきたものの意味まで揺らぐ。
だから私は、翌朝も変わらず王冠を載せた。
重い。
けれど、その重さにもう驚きはない。
衣装も、香も、花も、銀器も、整えられた礼も。
最初は一つ一つに理由をつけていたのに、今ではそれがないと落ち着かなくなる。
鏡の前で、侍女が私の髪を整える。
白い布が肩へかけられ、飾りが耳元で小さく鳴る。
「本日は南の領主が拝謁に」
「ええ」
「新しい衣装でよろしいでしょうか」
私は鏡の中の自分を見つめた。
以前より少し痩せた顔。
それでも、きちんと整えればまだ美しい。
美しいということは、強く見えるということだ。
少なくともこの場所では。
「その方がいいわ」
「かしこまりました」
自然な返答だった。
誰も驚かない。
私も驚かない。
それが少し、恐ろしかった。
必要だったはずのものが、いつの間にか普通になる。
普通になったものは、疑われなくなる。
疑われなくなったものは、やがて手段ではなく秩序そのものみたいな顔をし始める。
私はそこまで分かっていて、なお、その秩序の中へ手を戻した。
窓の外では、春の気配がほんの少しだけ土を緩めていた。
けれど城下から上がってくる風は、まだ痩せた匂いがした。
見えていないわけではない。
ただ、見えていることと、選び直せることは違う。
私は今日も、整えられた姿で人前へ出る。
それがこの国を守ると、まだ言い切れるうちに。




