削られる現実
晩餐の翌朝、城の中は妙に静かだった。
使節が滞在している間は、誰もが普段より一段だけ背筋を伸ばす。廊下を歩く速度、扉を開ける角度、言葉を切る間合いまで、少しずつ整えられる。だから静かなのは今に始まったことではない。けれどこの日の静けさには、疲れた者が息を潜めているような薄さが混じっていた。
昨夜の宴は表向き成功だった。
使節は満足げだったし、目立った失態もなかった。食卓は最後まで整って見えた。葡萄酒も切れなかった。給仕の手も震えなかった。王としての私も、少なくともあの場では綻ばなかった。
それなのに、胸の内が少しだけ重い。
原因は分かっていた。
昨夜、厨房の脇で聞こえたあの声だ。
これだけ残るなら……
そこから先は聞かなかった。聞かないまま通り過ぎた。
けれど、聞かなかったことと、耳に残らないことは別だった。
朝の支度を受けながら、私は鏡の中の自分を見ていた。侍女が髪を梳かす。櫛の歯がゆっくりと通る音がする。
「使節の方々は、本日中にお発ちのご予定だそうです」
年嵩の侍女がそう報告した。
「見送りの準備を」
「すでに」
彼女はいつも通り無駄がない。
だが、その指先がほんの少し細って見えた。
気のせい、ではないのかもしれない。
最近、城内の者たちは皆少しずつ痩せている。私もそれを知らないわけではない。厨房の配分は落ち、使用人の食事は簡素になり、暖を取る薪の量も調整されている。王宮が豊かに見えるためには、見えないところから削るしかない。そうしなければ表は保てない。
それは分かっている。
分かっているから、私は何も言わずにきた。
「今日の昼は軽く」
私がそう言うと、侍女は一瞬だけ手を止めた。
「かしこまりました」
「使節を見送った後は、しばらく人を入れないで」
「お休みになりますか」
「ええ。少し」
休みたいというより、考えたいのだと思った。
昨夜の成功と、その裏にあったものを。
窓の外では、朝靄の中を荷馬車が動いていた。城門の外へ向かう小さな列。使節の荷だろう。磨かれた箱と、護衛の槍が鈍く光っている。彼らはこの国をどう見て帰るのだろう。まだ整っていると見るか、うまく取り繕っていると見るか。そのどちらであっても、昨夜みすぼらしさを晒すよりはましだったはずだ。
そう思う。
思うしかない。
使節の見送りを終えた後、私は側近を呼んだ。
昨日、晩餐の量を抑えられないかと進言した男だ。深く頭を下げて私の前へ立つ。
「昨夜のことで」
「はい」
「率直に聞くわ。どれほど無理をしたの」
男は少しだけ目を伏せた。
すぐには答えない。
その間が、答えそのものだった。
「宮廷の備蓄から回した分がございます」
「それは知っているわ」
「加えて、北倉の予備を少し」
「北倉を?」
「はい」
私は椅子の肘掛けへ指を置いたまま、黙って男を見た。
北倉は本来、寒波や不作が重なった時のための余剰分だ。そこへ手をつけていたなら、余裕は思ったよりない。
「地方への配分には影響しないの」
「直ちには」
「直ちには、という言い方は嫌いよ」
「承知しております」
男の声は平らだった。
責めるでもなく、庇うでもなく、ただ事実だけを差し出す。
「昨日の晩餐は必要だったと思っている?」
そう問うと、男はほんのわずかに眉を寄せた。
「陛下がそうお考えであったことは理解しております」
「理解と賛同は違うわね」
「……違います」
思ったよりはっきりした答えだった。
私は少しだけ息を吸う。
「言ってみなさい」
「弱っていると見せれば、確かに舐められるでしょう」
「ええ」
「ですが、見せないために削り続ければ、内側から崩れます」
「ではどうしろと言うの」
「見せ方を変えるべきかと」
私は小さく笑った。
皮肉のつもりではなかったが、そう聞こえたかもしれない。
「貧しさを上品に見せろと?」
「いいえ。必要以上に豊かに見せるのをやめるのです」
必要以上に。
その言葉が少しだけ胸に刺さった。
私はすぐには返さなかった。
窓の外に目を向ける。遠くの空は鈍く曇っている。冬の空だ。何も約束してくれない色をしている。
「必要以上、ね」
「昨夜の食卓は、国のためであったと私も思います」
「それなら」
「ですが、それが続けば、やがて食卓の方が国を食い潰します」
静かな声だった。
強い言葉なのに、声が荒くないだけで妙に逃げ場がなくなる。
私はそれを不快だとは思わなかった。ただ、認めたくないだけだった。
「他国は昨日、我が国をまだ折れていないと見たはずよ」
「ええ」
「なら意味はあった」
「ございます」
「それで十分でしょう」
男はそれ以上言わなかった。
だが沈黙が、十分ではないと告げていた。
「下がっていいわ」
「はい」
彼が去ったあとも、部屋の空気は少し重いままだった。
昼前、私は一人で厨房へ向かった。
正確には、一人で向かったつもりだったが、当然ながら侍女と護衛が少し離れてついてくる。女王がどこへ行こうと、本当の意味で一人になることはない。
厨房の手前には、温い湯気と肉の匂いが漂っていた。だが近づくと、それは昨夜の残り香にすぎないと分かる。今この場で煮えている鍋は、もっと薄い匂いしかしなかった。
中へ入ると、料理長が慌てて頭を下げた。
「陛下」
「顔を上げて」
大鍋の中では、細かく刻んだ根菜が煮えている。肉は見えなかった。隣では黒パンが籠に並べられている。数はあるが、一つ一つは小さい。
「これは誰の食事?」
「城内で働く者どもへ回す昼食にございます」
「そう」
私は鍋を見つめた。
表面に薄い油が浮いている。具は少ない。
それでも温かいだけましかもしれない、と頭のどこかが勝手に言った。
「昨夜の残りは」
そう訊くと、料理長の肩がわずかに揺れた。
「一部は朝のうちに使用人へ」
「一部」
「保存の利くもののみでございます。痛みやすいものは処分を」
処分。
その言葉はやけに軽く響く。
「……処分したのね」
「申し訳ございません」
「責めているわけではないわ」
本当に責めてはいなかった。
責めるなら、もっと手前の判断を責めるべきだ。
「昨夜のために、どれほど無理をしたの」
料理長は目を伏せたまま答える。
「城内向けの配分を数日詰めております」
「数日」
「使節にお見せする料理は、皿数も見目も必要でしたので」
言い訳ではない。事実だ。
私自身が命じたことでもある。
「地方からの納め分は」
「変わりません」
「本当に?」
「……表向きは」
私は鍋から目を離した。
表向き。
その言葉が今日はやけに多い。
表向き、問題はない。
表向き、備蓄は足りている。
表向き、王宮は整っている。
表向き、国は弱っていない。
見せることのために生きていると、いつの間にか何もかもが表向きになる。
そこへ、厨房の奥から若い下働きの娘が盆を抱えて現れた。私に気づいて足を止める。顔色が悪い。頬がこけている、と思った次の瞬間、その娘の膝ががくりと落ちた。
盆が傾き、固い音を立てて木椀が床に転がる。
「おい!」
料理長が駆け寄る。
娘はすぐに起き上がろうとしたが、うまく力が入らないようだった。手首が細い。袖口から覗く肌が驚くほど白い。
「大丈夫です、すぐ――」
「座らせなさい」
私が言うと、周囲が一瞬だけ固まった。
料理長が慌てて娘を壁際へ移す。侍女が水を持ってくる。娘は震える手でそれを受け取り、何度も頭を下げた。
「申し訳、ございません……」
「謝る必要はないわ」
そう言いながら、私は自分の声が少し遠い気がした。
この娘は、昨夜の食卓を見ただろうか。見たとして、何を思っただろう。目の前に並ぶ肉や果物や甘味を、ただ遠く眺めていたのか。それとも、それが自分たちを守るために必要だと納得していたのか。
どちらにせよ、今この場で膝をついているのはこの娘の方だ。
「休ませなさい」
「は、はい」
「医師は」
「すぐに」
それ以上、私は何も言えなかった。
厨房を出てからも、娘の崩れ落ちる音が耳に残っていた。
木椀が転がる乾いた音。
痩せた手が床を掴む音。
自室へ戻る途中、私は廊下の窓から城下を見下ろした。冬の昼は薄い。遠くの市場には人影があるが、色が少ない。荷台の上の野菜も、以前よりずっと貧しく見えた。布を巻いた子供が二人、店先で何かをねだっている。女が首を振る。子供はすぐには離れなかった。
「陛下」
年嵩の侍女が小さく呼ぶ。
「何?」
「お昼を」
「要らないわ」
「ですが」
「要らない」
強く言ったつもりはなかった。
けれど侍女はそれ以上口を挟まず、ただ頭を下げた。
昼食を抜いたところで何が変わるわけでもない。
分かっている。
これは贖罪ですらない。気分の問題でしかない。
それでも、今ここで何事もなかったように食べる気にはなれなかった。
午後、書記官が地方からの報告書を持ってきた。
紙の上には数字が並んでいる。収穫量、流通量、徴税率、盗難件数、流民の数。どれも冷たい形をしていた。
私は目を通しながら、一つずつ問いを口にする。
「南の村で増えているのは?」
「離村者にございます」
「原因は」
「飢えと、徴税の重さかと」
「北は」
「備蓄の囲い込みを巡って揉め事が」
「死者は」
「報告上はまだ」
報告上は。
つまり、数えられていないだけかもしれない。
私は紙を置いた。
これが現実だ。
知らないわけではない。
見ていないわけでもない。
それでも、見えていることと、実感することは違う。
報告書の数字は、人の骨の浮いた頬ではない。
流民という語は、寒さの中で震える子供そのものではない。
言葉になった瞬間、現実は少しだけ遠くなる。
「宮廷の支出を、さらに削りますか」
書記官がそう訊いた。
私はすぐには答えなかった。
削れるところはもう削っている。
灯火、暖房、使用人の人数、厨房の配分。
だが“見せるために必要なところ”だけは、削るたびに危うくなる。
「いいえ」
結局、私はそう答えた。
「少なくとも今は。使節が戻って何を持ち帰るか、見極めるまでは」
「かしこまりました」
書記官は表情を変えなかった。
ただその無表情が、少しだけ堅く見えた。
日が落ちる頃、私はようやく小さなスープだけ口にした。湯気の立つ薄いスープだった。味は悪くない。悪くないけれど、どこか空虚だった。昨夜、銀器に盛られた濃い香りの料理たちを思い出して、胃のあたりが少しだけ冷たくなる。
私自身も食べていない。
城の中も削っている。
それでも足りない。
なのに見せることはやめられない。
窓の外はもう暗い。
城下の灯りはまばらだ。
風が強く、木々の枝が揺れていた。
他国に弱い事実を見られたら舐められる。
その考えは、今でも変わらない。
変わらないのに、それを守るために削られていくものの重さが、昨日より少しだけはっきり見えてしまった。
見えたからといって、すぐに選び直せるほど、私は軽くはなれない。
王であるということは、もっと重いものだと、ずっとそう信じてきたのだから。




