飾るという選択
朝の謁見は、思っていたより穏やかに始まった。
使節団は東の国から来ていた。国境を接してこそいないが、交易と小競り合いの噂が絶えない相手だ。彼らはいつも柔らかく笑う。その笑みの奥で何を値踏みしているのか、分からないまま手を差し出してくる。
私は玉座に腰を下ろし、その笑みに笑みを返した。
「遠路はるばる、よく参られました」
声は落ち着いている。震えも掠れもない。昨夜はあまり眠れなかったが、喉の調子は悪くなかった。こういう時、自分の身体がまだ私に従ってくれることに少し安堵する。
先頭に立つ男は、年の頃なら父とそう変わらないだろう。丁寧に一礼しながら、目だけはきちんと上げてくる。
「陛下におかれましては、ますますご健勝のこととお慶び申し上げます」
「ありがとう。そちらの王にも、変わらぬ敬意を」
形式通りの言葉が行き交う。
贈答品が運び込まれる。
薄絹、香木、加工された金属細工。
どれも親善の証としては美しいが、同時に探りの道具でもある。こちらが何を返せるか。どんな顔で受け取るか。彼らはそういう細部を見ている。
謁見の間の柱は、昨日のうちに磨き直させた。壁に掛ける布も、色褪せの少ないものへ替えてある。花は庭園の奥からまだ形の良いものを選ばせた。香も焚いた。香りは豊かさの記憶を呼ぶ。こういう場所では、事実より先に印象が効く。
使節の男は、何気ない顔で周囲へ視線を巡らせていた。
天井の高さ。
銀器の数。
控える侍従の人数。
侍女の衣装の質。
こちらも同じように見ているのに、見られる側はやはり落ち着かない。
謁見を終え、いったん奥へ戻った時、側近の一人が私の後ろへ静かについてきた。年若くはない男で、声を荒げることのない人だ。
「まずは無難に終わりました」
「ええ」
「先方も、少なくとも表向きには満足そうでした」
「表向きで十分です」
私は歩みを緩めずに答える。
「本音を引き出そうとしても無駄でしょう。彼らが何を考えているにせよ、今日のところは“まだ衰えてはいない”と思わせられれば、それでいいのです」
男は一瞬だけ黙った。
そして、声をさらに低くした。
「晩餐について、もう一度ご確認を」
「必要?」
「量を少し抑えることは可能かと」
私は足を止めた。
窓の外、中庭の石畳に冬の薄い日差しが落ちている。噴水は止まったままだ。侍従が二人、何かを運んでいた。重そうな木箱。食材か、あるいは食器か。
「なぜ」
「……城内の蓄えにも、余裕があるとは言えません」
「余裕があるように見せることが必要なのです」
思ったより冷たく響いた声に、自分で少し驚いた。だが、言い直す必要は感じなかった。
「今夜の食卓が貧しく見えれば、明日にはこの国全体が貧しく見られます」
「ですが、陛下」
「一夜の食卓で国は測られるのよ」
側近は口を閉ざした。
私は彼を責めたかったわけではない。彼の懸念も分かっている。分かっているからこそ、なおさら譲れない。
使節が持ち帰るのは、数字ではない。
倉庫の残量でも、農地の痩せ具合でもない。
彼らが持ち帰るのは印象だ。
この国はまだ豊かに振る舞える。
この国の王は顔色一つ変えない。
宮廷はまだ整っている。
ならば、今すぐ圧力をかけるのは得策ではないかもしれない。
そう思わせられるのなら、食卓の数皿に意味はある。
「……かしこまりました」
側近はそれだけ言って頭を下げた。
私は頷き、再び歩き出す。
足音が石床に規則正しく返る。
その音は、思っていたよりずっと硬かった。
正午を少し過ぎる頃、私は城内の小さな礼拝室へ立ち寄った。静かな場所だ。今では灯される蝋燭の数も減らしているが、それでもここだけは不思議と空気が変わらない。古い石と薄い香の匂いが、時間の流れを鈍くする。
祈るために来たのではない。
ただ、少しだけ誰にも見られずに考える時間がほしかった。
他国に弱い事実を見られたら舐められる。
それは事実だ。
疑う余地はない。
ならば飾ることは悪ではない。
むしろ責務だ。
民が飢えていることを知らないわけではない。
冬を越えられずに死ぬ者が出ていることも、地方で小競り合いが起きていることも、税の負担に耐えられず土地を離れる者がいることも、報告は受けている。
だが、王までがやつれた顔を晒してどうする。
王宮の食卓を貧しくして、それで何が守れる。
慈悲深い王だと褒めてもらえる?
いいえ。そんなものは弱り切った国の自己満足でしかない。
私は椅子に腰掛け、指先で膝の上の布を整えた。
衣装の刺繍は美しかった。銀糸は細く、流れるようで、見る角度によって光り方が変わる。
こういうものを見るたび、少しだけ苦しくなることもある。
この一着で、いくつの食卓が満たされるのか。
考えたことがないわけではない。
けれど同時に、こうも思う。
この一着があるからこそ、王は王に見える。
王が王に見えるからこそ、国はまだ国として立っていられる。
どちらが正しいかではない。
どちらも必要なのだと、私は信じてきた。
礼拝室を出る時、廊下の角で年若い侍女が何かを落としていた。布に包まれた小さな籠。中には、厨房から運ばれる途中だったのだろう、丸いパンが二つ入っている。
侍女は慌てて膝をついた。
「申し訳ございません、陛下」
「怪我は」
「ございません」
そう答える声は小さい。
拾い上げる手首が、少し細い気がした。
私はほんの一瞬だけ、その籠を見た。
丸いパンが二つ。
少し硬そうな表面。
城内で働く者たちに回される簡素な食事だ。
侍女は私の視線に気づいたのか、慌てて籠を抱え込むようにした。恥じるような仕草だった。みすぼらしいものを王に見せてしまった、とでも思ったのかもしれない。
「落としたものは下げなさい。新しいものを」
「ですが――」
「そうしなさい」
「……はい」
私はそれだけ言って通り過ぎた。
後ろで侍女がどんな顔をしていたかは見なかった。
見れば、余計なことを考えてしまう気がしたから。
夕刻、晩餐の支度が整うにつれて、宮廷の空気は少しずつ張り詰めていった。
長い卓に白布が掛けられ、銀器が並び、燭台の火が増える。花瓶には香りの強い花が活けられた。冬の痩せた景色を忘れさせるための色だ。厨房からは肉と香草の匂いが流れてくる。量は決して多くない。それでも皿数はあるように見せる工夫がされていた。小さな一皿をいくつも重ね、余白を美しく飾り、視覚で豊かさを作る。
無駄ではない。
必要な演出だ。
私はそう思いながら席についた。
使節たちは、やはりよく見ていた。
料理を口へ運び、笑顔で賛辞を述べながら、その目は皿の中身だけではなく、給仕の手際や酒の質、卓の両端に控える者たちの落ち着きまで測っている。
「陛下の宮廷は、季節の彩りまで見事ですな」
使節の男が花瓶へ目を向けて言った。
私は静かに笑んだ。
「冬ほど、色を大切にしたくなるものです」
「まことに」
柔らかな応酬。
その裏で、互いに刃の感触を確かめている。
食事は滞りなく進んだ。
誰も飢えを口にしない。
誰も不足を口にしない。
それでいい。
今夜だけは、それでいい。
晩餐の終わり際、使節の男が葡萄酒を揺らしながら、ふと何でもない声で言った。
「この冬は、各地で厳しいと聞きます。陛下の国ではいかがですかな」
周囲の空気が、ほんのわずかに止まった。
私は杯を置いた。
表情は変えない。
「冬が優しい年など、そう多くはありません」
「なるほど」
「ですが、我が国には乗り越えるだけの強さがあります」
使節の男は一瞬だけ目を細め、それから穏やかに微笑んだ。
「心強いお言葉だ」
それだけで終わった。
だが、その短い往復のために、この晩餐全てがあったのだと私は思った。
彼は探っていた。
こちらが揺らぐかどうかを。
貧しさを認めるかどうかを。
私は認めなかった。
認めてはならないから。
晩餐を終えて自室へ戻る途中、ふいに厨房の脇を通りかかった。普段なら別の廊下を使うが、今日は人の流れの関係で遠回りになったのだ。半開きの扉の向こうから、くぐもった声が聞こえた。
「これだけ残るなら……」
「しっ、馬鹿」
足が止まりかけた。
だが止めなかった。
残り物の話だろう。
あるいは配分の話かもしれない。
聞くべきではない、と思った。
聞いてしまえば、今夜が別の色を帯びる。
今はまだ、その必要はない。
自室に戻って王冠を外した時、額に鈍い痛みが残っていた。侍女がそっと受け取る。肩から衣装の重みが抜けると、急に身体の芯が冷える気がした。
「お疲れでございます」
「少しだけ」
「温かいものをお持ちしましょうか」
「いいえ。休むわ」
鏡の前に一人きりになって、私は自分の顔を見た。
頬の色はまだ保たれている。
唇の端も下がっていない。
目元の疲れは、近くで見なければ分からない程度だ。
十分だ。
今日の私は、弱って見えなかった。
それでいい。
それで、この国が今日一日ぶんでも侮られずに済んだのなら。
窓の外はもう暗い。
遠くの町に灯りは少ない。
冬の夜は、何もかもを小さく見せる。
私はそっと目を閉じた。
飾ることは嘘ではない。
そうしなければ守れないものがあるのだから。
少なくとも今は、まだそう信じていた。




