プロローグ
弱さは見せてはいけない。
それは、誰に教わった言葉だっただろう。
父だったかもしれない。母だったかもしれない。あるいは、王冠を載せられるよりずっと前から、この城の壁そのものがそう囁いていたのかもしれない。
とにかく、その言葉だけは、ずっと変わらずにここにあった。
弱いと知られれば、舐められる。
舐められれば、奪われる。
奪われれば、守るべきものは守れない。
それが国であっても、人であっても、きっと同じなのでしょう。
だから王は、強く見えなければならない。
飢えていても。
寒さに震えていても。
明日の備蓄が心もとなくても。
この国の土が、少しずつ痩せていたとしても。
それをそのまま顔に出すことは許されない。
窓の外では、冬を越えきれなかった木々が、細い枝を曇天に差し出していた。庭園は手入れされていても、土の色はどこか鈍い。以前ならもっと深く、湿っていたはずの色だ。噴水も今は止めてある。水を回す余裕がないのではないかと勘ぐられるのが嫌で、人目につく場所だけはきちんと磨かせているけれど、止まった水盤はやはりどこか寂しい。
王宮の中は静かだった。
静かすぎる、と最近は思う。
使用人たちは足音を忍ばせるようになった。侍女たちは口を開く前に一拍置く。廊下の向こうで聞こえる食器の触れ合う音さえ、小さくなった気がする。
皆、知っているのだ。
この国が少しずつ痩せていることを。
民の食卓から皿が減っていることを。
市場の声が荒くなっていることを。
そして周辺の国々が、こちらの綻びを嗅ぎ取ろうとしていることを。
それでも、見せてはならない。
「陛下」
背後から、控えめな声がした。
振り返ると、侍女の一人が深く頭を下げていた。年若い娘だが、最近は頬の線が前より少し鋭い。よく働く子だから目に留まるだけかもしれない。そう思うことにしている。
「ご準備が整いました」
「ええ」
私は窓辺から離れた。
今日もまた、他国からの使節が来る。名目は親善。けれど、そんなものを額面通りに受け取るほど私は幼くない。彼らは見に来るのだ。この国がどれほど弱っているのかを。こちらがどこまで笑っていられるのかを。銀器の輝き、食卓の皿数、王の頬の痩せ方、侍従の袖口のほつれ。そういうくだらないところにこそ、本当の国力は滲む。
だからこそ、見せてはならない。
通された衣装部屋で、私は差し出されたドレスへ目を向けた。深い青を基調に、銀糸の刺繍が裾から胸元まで流れている。派手すぎはしない。だが貧相にも見えない、ぎりぎりのところを狙った一着だ。
「これを」
「はい」
侍女たちが慣れた手つきで私を整えていく。下着、コルセット、幾重にも重なる布、飾り紐、首元の装飾。少しずつ呼吸が浅くなっていく感覚には、もうとっくに慣れた。
鏡の中の私は、まだ若かった。
若い女王。
その響きは時に甘く、時に危うい。
見くびられやすい代わりに、飾りようはある。
脆く見える代わりに、整えてしまえば印象は変わる。
侍女が私の髪を持ち上げ、後ろで留める。別の侍女が耳元へ飾りを足す。最後に王冠が運ばれてきた。
重い。
何度載せても、その重さだけは軽くならない。
けれど、軽くなってしまっては困るのかもしれないとも思う。これが重いものだと分かっているうちは、まだ私は王であることを忘れずにいられる。
「少しお顔色を明るくいたしましょうか」
「ええ、お願い」
頬に薄く色が乗せられる。唇にも、少し。過剰ではなく、疲れを隠すためだけの慎ましい手入れ。だがその慎ましさすら、今のこの国では贅沢と呼ばれるのかもしれない。
鏡の中の私は、少しだけ生気を取り戻したように見えた。
本当にそう見えるのなら、それでいい。
「陛下」
今度は年嵩の侍女が、鏡越しに私を見る。
彼女は言葉少なで、昔から余計なことを言わない。その彼女が、今日は少しだけためらうように唇を動かした。
「……本日の晩餐、予定通りでございます」
「そう」
「食材の手配も、問題なく」
問題なく、という言い方が少し引っかかった。
本当に問題がなければ、わざわざ口にはしない。
けれど私は、そこで何も聞かなかった。
聞いてしまえば、知ってしまう。
知ってしまえば、その顔で使節を迎えなければならなくなる。
私は鏡の中の自分を見つめたまま、静かに言う。
「十分に整えて。今夜、我が国が弱って見えることだけは避けなければなりません」
「……かしこまりました」
その返事は、少しだけ低かった。
けれど、誰も反論はしない。
反論できないのではなく、分かっているのだ。ここで質素を見せることが、慈悲深さではなく危うさとして受け取られる場合もあることを。
私は立ち上がった。裙が床を擦る。磨かれた石床に、青い布が静かに広がった。
美しい、と侍女が小さく呟いた。
それが私自身のことなのか、衣装のことなのか、あるいは今ここに作られた“王”という像のことなのかは分からない。
ただ、その美しさが今日も国の盾になるのなら、無駄ではないのでしょう。
そうでなければ困る。
扉が開かれる。
廊下の先には、光の差す謁見の間が待っている。
弱さは見せてはいけない。
私は背筋を伸ばし、顔を上げた。
この国がまだ折れていないと、誰もが信じられるように。




