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IRIS-Log-Archive  作者: IRIS
継ぎ接ぎだらけの証拠資料_IRIS.log

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186/258

食い違う証言

 次に当たったのは、レイが以前勤めていたとされる小さな喫茶店だった。


 資料の古いメモには店名だけが残っていて、住所は半端に欠けていた。町名と通りの名前だけを頼りに歩き回って、ようやく見つけたその店は、駅から少し離れた裏通りにひっそりとあった。木の看板は色褪せているが、店先の鉢植えは手入れが行き届いていて、まだきちんと営業しているのが分かる。


 昼営業の終わり際で、客は二組だけだった。珈琲の匂いが静かに漂っている。名刺を出して事情を話すと、店主の女は少し面倒そうな顔をしたが、手が空くまで待ってくれと言って、水だけ先に出してくれた。


 四十代後半くらいだろうか。柔らかそうに見えて、目だけがよく動く人だった。


「レイのこと、ですか」


「ここで働いていたと」


「短い間だけね。ずっとじゃないけど」


 店の隅の席で向かい合う。女はエプロンの裾で手を拭いながら、俺を値踏みするみたいに見た。


「今さら何なんですか」


「古い資料を整理していて、当時の記事と実際の印象に少しズレがあったので」


「ズレ、ね」


 女は鼻で笑うような声を出した。


「新聞なんてそんなものでしょう」


 その言い方に、昔何か思うところがあった気配が滲んだ。


「レイさんは、どんな人でしたか」


「器用な子だったわよ。少なくとも外ではね」


「外では」


「感じがよくて、愛想もいい。客受けも良かった。笑うのも上手。ちょっと頼りないふうを装うのも上手だった」


 俺は手帳に書きながら顔を上げた。


「装う」


「そう聞こえたならそのままでいいわ」


 女は言い直さなかった。


 老婦人が言っていた“愛想のいい、よく笑う子”という印象と、言葉の表面だけなら似ている。だが底にある意味が違う。あちらは好意的な記憶で、こちらは少し刺がある。


「店では問題はなかったですか」


「大きな問題はないわ。ただ、あの子、境目が曖昧なのよ」


「どういう意味で」


「相手にどこまで踏み込んでいいか、どこから自分の話にしていいか、そのへんが緩いの。最初は人懐っこいで済むけど、長くいると疲れる人もいるタイプ」


 少し意外だった。

 資料の中に、そんな印象はなかった。


「具体的には」


「たとえば、昨日ちょっと元気なかったですね、どうしたんですか、って普通に聞いてくる。そこまではいいの。でも、こちらが少し返すと、じゃあ今日はこうした方がいいですよ、とか、私そういう人放っておけなくて、とか、すぐに自分の役目みたいな顔になるの」


「世話焼き、ですか」


「聞こえはいいけどね」


 店主は肩をすくめた。


「相手に必要とされる位置に入るのが上手かったのよ。悪気があったかは知らない。でも、ああいう子は相手が弱ってると自然にそこに座る」


 必要とされる位置に入る。

 その言い方は妙に記憶に残った。


「トワさんのことは知っていましたか」


「何度か見た程度。迎えに来てたことがあるから」


「どんな印象でした?」


「静か。無愛想ではないけど、店の空気に馴染む人じゃなかった。レイがよく喋る横で、ほとんど口を出さない。ただ、ぼんやりした人って感じでもなかったわね」


「というと」


「見てるのよ、ちゃんと。何も言わないだけで」


 その一言で、トワの像も少し変わる。

 弱くて支えられるだけの人間ではなくなる。


「二人の関係は、どう見えましたか」


 女は少し考え、窓の外を見た。通りを学生が二人、だらだら歩いていく。


「よくある恋人同士、って言えばそう見えた時もあるわ。でもね、あまり健全な感じはしなかった」


「健全じゃない」


「どちらかが一方的に殴るとか、怒鳴るとか、そういう分かりやすさじゃないの。ただ、二人とも相手の機嫌に敏い感じがした。レイはトワの沈黙をよく見てたし、トワはレイが喋りすぎる前に止めることがあった」


「止める」


「目で、ね。言葉じゃなく」


 その場面が少し見える気がした。

 店の隅、喋るレイ、静かなトワ。どちらも相手を気にしている。思いやっているとも、監視しているとも取れる。


「仲は良さそうでしたか」


「良い、のかしら。離れられない感じはあった」


 それは資料の中にあった表現と同じだった。

 だが“悲恋”に結びつけるような湿り気はない。


「依存関係だったと思いますか」


「依存なんて、後からつけるには便利な言葉よ」


 店主は即答した。


「でも便利な言葉ほど、だいたい雑でしょう。あの二人が互いを必要としてたのはそうだと思う。でも、それをすぐ依存って言うと、分かった気になるじゃない」


 俺は少しだけ頷いた。


「どちらが、より相手を必要としていたように見えました?」


 その質問に、女は初めて少し面白そうに笑った。


「それを聞きに来たの?」


「まあ」


「だったら答えは、どっちも、ね」


「どっちも」


「レイはトワがいないと自分の立ち位置が崩れそうだった。トワはレイがいないと、自分の輪郭が薄くなる感じだった」


「輪郭」


「言い方は適当よ。でもそんな感じ。片方だけが寄りかかってるようには見えなかった」


 これはかなり大きい。

 老婦人の話だけなら、レイが支える側、トワが支えられる側に見えた。だがこの女の見方だと、二人はもっと対等に相手を使っている。


「別れ話みたいなものは聞いたことがありますか」


「直接はない。ただ、レイが一度だけ変なことを言ったのは覚えてる」


「どんな」


「“あの人、私がいなくても平気そうに見えるでしょ”って」


 女はそこで少し間を置いた。


「でも、その言い方がね。安心してる人の言い方じゃなかった」


「不安だった」


「たぶんね。相手が本当に自分を必要としてるか、ずっと確かめてる感じ」


 それが愛情なのか、執着なのか、習性みたいなものなのかは分からない。


「トワさんの方は」


「さあ。あの子はほとんど喋らなかったから。ただ、迎えに来た時に一回だけ、レイに向かって“もういいだろ”って言ったのを聞いたことがある」


「その言い方は苛立っていた?」


「苛立ち、というより、止めるのに慣れてる感じだった」


 止めるのに慣れてる。

 それは親密さの証拠にも見えるし、繰り返される摩擦の証拠にも見える。


 喫茶店を出る時、店主は最後に言った。


「記事にするなら、あの子たちを可哀想な恋人みたいに綺麗にしないでね」


「まだ記事にするかは」


「する気がある顔よ」


 そう言われて、少し苦笑するしかなかった。


「少なくとも、今は決めてません」


「そう。でも、よくある悲恋にはしない方がいいわ。あれはもっと、面倒な二人だった」


 店を出て、俺は近くの公園の喫煙所脇に立って手帳を見返した。


 レイ=人懐っこい / 必要とされる位置に入るのが上手い / 相手の機嫌に敏い

 トワ=静か / 見ている / レイを止めるのに慣れている

 どちらも相手を必要としていた

 片方だけの依存ではない


 ページの上で、最初の印象が崩れていく。


 次に当たったのは、資料に名前だけ残っていたトワの元同僚だった。

 今は運送関係の仕事をしているらしく、夕方なら話せるということで、営業所近くの自販機前で落ち合った。


 三十代半ばの男で、日に焼けた首筋に汗が光っていた。紙コップの珈琲を片手に、露骨に怪訝そうな顔をする。


「トワのこと?」


「一緒に働いていたと聞いて」


「短い間だけな。真面目だったよ」


「どんなふうに」


「黙ってるけど、仕事はちゃんとやる。変に愛想振りまかないし、媚びないし、でも頼んだことはやる」


 ここまでは“静かな人間”の像に収まる。


「レイさんのことは」


「一回か二回見たかな。職場の近くまで来てたことがあったから」


「印象は」


 男ははっきり嫌そうな顔をした。


「正直、苦手だった」


「というと」


「距離が近い。なんか、最初から他人の生活に入ってきてる感じがする」


 喫茶店の店主と似た表現だった。

 ただしこちらはもっと直線的だ。


「トワさんとは仲が良さそうでしたか」


「良い悪いで言うなら、まあ悪くはなかったんじゃないか。でも、見てて疲れる二人だった」


「疲れる」


「片方が喋りすぎて、片方が黙りすぎるんだよ。で、喋る方は黙ってる方の顔色見てるし、黙ってる方は喋る方がどこまで行くか見てる。ずっと綱引きみたいだった」


 綱引き。

 それは第2話までの“よくある悲恋”とはまるで質が違う。


「トワさんは、支えられていた側に見えましたか」


「は?」


 男はあからさまに首をひねった。


「逆だろ」


「逆」


「生活回してたのはトワの方だと思う。少なくとも働き方はそうだった。レイは不安定だったし、すぐ体調崩すとか予定変えるとか、そういうの多かったみたいだからな」


「みたい、というのは」


「トワがぼやいてたわけじゃない。周りが勝手に察してただけ。でも、あいつ、残業代が出る仕事を妙に気にしてた時期があってさ。必要だったんだろ」


 資料の中のメモが頭をよぎる。

 実際にはトワの方が生活面を支えていた?


「トワさんは、レイさんを負担に感じていたと思いますか」


「負担じゃないとは言わない。でも、切る気もなかったんじゃないか」


「それは情で?」


「知らない。情かもしれないし、責任感かもしれないし、そういう役回りに慣れてただけかもしれない」


 男は紙コップの残りを飲みきって、空を軽く握り潰した。


「でも被害者面するタイプではなかったな、あいつは」


「被害者面」


「周りから見れば、黙って面倒見てる方が可哀想に見えるだろ。でも、トワは別に自分を可哀想だと思ってる感じじゃなかった。むしろ、自分がいないと駄目だろ、くらいに思ってたかもしれない」


 それはかなり重要だった。


 レイが必要とされる位置に入りたがる人間だったとしたら、トワもまた“自分がいないと回らない”位置に居続けることで関係を保っていた可能性がある。


 つまり、片方が一方的に寄りかかっていたわけではない。


「二人の関係を、一言で言うなら」


 そう聞くと、男は嫌そうに笑った。


「一言で済むなら苦労しないだろ」


「仕事柄、つい」


「じゃあ無理やり言うなら、似た者同士」


「どこが」


「相手がいないと困るくせに、そのことを認めたくないところ」


 その言葉を、俺は少し丁寧に書き留めた。


 帰り道、空はもう暗くなり始めていた。歩道橋の上で足を止め、俺は今日聞いたことを頭の中で並べ直す。


 老婦人はレイを尽くす側に見ていた。

 喫茶店の店主はレイを“必要とされる位置に入るのが上手い”と見ていた。

 元同僚はトワを支える側、あるいは支える位置に居続ける側だと見ていた。


 食い違っている。

 だが、完全にバラバラというわけでもない。


 どの証言にも共通しているのは、二人が互いを強く必要としていたらしいこと。

 ただ、その必要の仕方が、見る人間によってまるで違う顔になる。


 献身。

 支配。

 責任感。

 依存。

 役割。

 似た者同士。


 どれも当てはまりそうで、どれも少しずつずれている。


 歩道橋の下を車の列が流れていく。ヘッドライトの白い線が、途切れずに続いていた。


 俺は手帳の新しいページを開いて、真ん中に二本線を引いた。


 左にレイ、右にトワと書く。

 その下に、今日までの印象を箇条書きで並べた。


 レイ

 - 明るい

 - 愛想がいい

- 世話焼きに見える

- 必要とされる位置に入る

- 相手に必要とされたい

- 不安定かもしれない


 トワ

 - 無口

- 受け身に見える

- だが見ている

- 生活面を支えていた可能性

- 止める側に慣れている

- 自分がいないと駄目だと思っていたかもしれない


 そして二人の間に、矢印を両方から引く。


 対等

 両依存

 相互監視

 相互必要


 書いてみると、最初に思っていたよりずっと厄介な関係に見えた。


 可哀想な恋人同士、というほど単純じゃない。

 どちらかが完全な被害者、というほど分かりやすくもない。


 むしろ、どちらも相手を必要としていて、どちらも相手を消耗させていて、どちらもそこから離れる気が薄かったように見える。


 資料の束の中にあった“悲恋”という言葉が、急に安っぽく見えた。


 よくある悲恋。

 そんなふうに呼んだ瞬間、この二人は理解しやすくなる。

 理解しやすくなる代わりに、こぼれるものが多すぎる。


 歩きながら、俺はふと考える。


 もし事件が起きていなければ、周囲はこの二人をどう見ていたんだろう。

 少し面倒で、少し距離感のおかしい、若い恋人同士。せいぜいその程度で終わっていたのかもしれない。


 結末が先にあるから、人は過去から意味を拾う。

 あの沈黙は予兆だった。

 あの笑顔は無理をしていた。

 あの言葉は支配だった。

 あの世話焼きは執着だった。


 何もかも、後からならそう見える。


 だが、それは本当に当時そこにあった意味なのか。

 それとも、後から貼られた札にすぎないのか。


 アパートへ戻る電車の中で、俺は資料の束から一枚のコピーを取り出した。

 警察発表を要約したらしい簡素な紙だ。現場の状況について、曖昧な表現で二、三行だけ書いてある。


 同室内に生活用品の乱れあり

 争った可能性も否定できず

 詳細不明


 争った可能性。

 この一文があるだけで、また別の物語が立ち上がる。


 喧嘩の末だったのか。

 別れ話のもつれか。

 あるいは日常の延長にすぎなかったのか。


 詳細不明。

 なのに、人はその先を勝手に埋める。


 俺も埋めかけている。

 そのことを自覚して、少しだけ嫌になる。


 電車の窓に映る顔は、思ったより疲れて見えた。

 古い事件の取材なんて、骨だけ追っているうちは気楽だ。だが、そこにいた人間の形が見え始めると、一気に厄介になる。


 もう少しだけ調べるつもりだった。

 けれど、ここまで来たら、たぶん途中ではやめられない。


 次は資料そのものを洗い直す必要がある。

 噂や証言だけじゃなく、紙に残ったもの。

 残ったくせに欠けているもの。


 俺は手帳の最後に短く書いた。


 次、資料本体。

 欠け方を見る。


 食い違うのは、証言だけじゃないはずだった。

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