食い違う証言
次に当たったのは、レイが以前勤めていたとされる小さな喫茶店だった。
資料の古いメモには店名だけが残っていて、住所は半端に欠けていた。町名と通りの名前だけを頼りに歩き回って、ようやく見つけたその店は、駅から少し離れた裏通りにひっそりとあった。木の看板は色褪せているが、店先の鉢植えは手入れが行き届いていて、まだきちんと営業しているのが分かる。
昼営業の終わり際で、客は二組だけだった。珈琲の匂いが静かに漂っている。名刺を出して事情を話すと、店主の女は少し面倒そうな顔をしたが、手が空くまで待ってくれと言って、水だけ先に出してくれた。
四十代後半くらいだろうか。柔らかそうに見えて、目だけがよく動く人だった。
「レイのこと、ですか」
「ここで働いていたと」
「短い間だけね。ずっとじゃないけど」
店の隅の席で向かい合う。女はエプロンの裾で手を拭いながら、俺を値踏みするみたいに見た。
「今さら何なんですか」
「古い資料を整理していて、当時の記事と実際の印象に少しズレがあったので」
「ズレ、ね」
女は鼻で笑うような声を出した。
「新聞なんてそんなものでしょう」
その言い方に、昔何か思うところがあった気配が滲んだ。
「レイさんは、どんな人でしたか」
「器用な子だったわよ。少なくとも外ではね」
「外では」
「感じがよくて、愛想もいい。客受けも良かった。笑うのも上手。ちょっと頼りないふうを装うのも上手だった」
俺は手帳に書きながら顔を上げた。
「装う」
「そう聞こえたならそのままでいいわ」
女は言い直さなかった。
老婦人が言っていた“愛想のいい、よく笑う子”という印象と、言葉の表面だけなら似ている。だが底にある意味が違う。あちらは好意的な記憶で、こちらは少し刺がある。
「店では問題はなかったですか」
「大きな問題はないわ。ただ、あの子、境目が曖昧なのよ」
「どういう意味で」
「相手にどこまで踏み込んでいいか、どこから自分の話にしていいか、そのへんが緩いの。最初は人懐っこいで済むけど、長くいると疲れる人もいるタイプ」
少し意外だった。
資料の中に、そんな印象はなかった。
「具体的には」
「たとえば、昨日ちょっと元気なかったですね、どうしたんですか、って普通に聞いてくる。そこまではいいの。でも、こちらが少し返すと、じゃあ今日はこうした方がいいですよ、とか、私そういう人放っておけなくて、とか、すぐに自分の役目みたいな顔になるの」
「世話焼き、ですか」
「聞こえはいいけどね」
店主は肩をすくめた。
「相手に必要とされる位置に入るのが上手かったのよ。悪気があったかは知らない。でも、ああいう子は相手が弱ってると自然にそこに座る」
必要とされる位置に入る。
その言い方は妙に記憶に残った。
「トワさんのことは知っていましたか」
「何度か見た程度。迎えに来てたことがあるから」
「どんな印象でした?」
「静か。無愛想ではないけど、店の空気に馴染む人じゃなかった。レイがよく喋る横で、ほとんど口を出さない。ただ、ぼんやりした人って感じでもなかったわね」
「というと」
「見てるのよ、ちゃんと。何も言わないだけで」
その一言で、トワの像も少し変わる。
弱くて支えられるだけの人間ではなくなる。
「二人の関係は、どう見えましたか」
女は少し考え、窓の外を見た。通りを学生が二人、だらだら歩いていく。
「よくある恋人同士、って言えばそう見えた時もあるわ。でもね、あまり健全な感じはしなかった」
「健全じゃない」
「どちらかが一方的に殴るとか、怒鳴るとか、そういう分かりやすさじゃないの。ただ、二人とも相手の機嫌に敏い感じがした。レイはトワの沈黙をよく見てたし、トワはレイが喋りすぎる前に止めることがあった」
「止める」
「目で、ね。言葉じゃなく」
その場面が少し見える気がした。
店の隅、喋るレイ、静かなトワ。どちらも相手を気にしている。思いやっているとも、監視しているとも取れる。
「仲は良さそうでしたか」
「良い、のかしら。離れられない感じはあった」
それは資料の中にあった表現と同じだった。
だが“悲恋”に結びつけるような湿り気はない。
「依存関係だったと思いますか」
「依存なんて、後からつけるには便利な言葉よ」
店主は即答した。
「でも便利な言葉ほど、だいたい雑でしょう。あの二人が互いを必要としてたのはそうだと思う。でも、それをすぐ依存って言うと、分かった気になるじゃない」
俺は少しだけ頷いた。
「どちらが、より相手を必要としていたように見えました?」
その質問に、女は初めて少し面白そうに笑った。
「それを聞きに来たの?」
「まあ」
「だったら答えは、どっちも、ね」
「どっちも」
「レイはトワがいないと自分の立ち位置が崩れそうだった。トワはレイがいないと、自分の輪郭が薄くなる感じだった」
「輪郭」
「言い方は適当よ。でもそんな感じ。片方だけが寄りかかってるようには見えなかった」
これはかなり大きい。
老婦人の話だけなら、レイが支える側、トワが支えられる側に見えた。だがこの女の見方だと、二人はもっと対等に相手を使っている。
「別れ話みたいなものは聞いたことがありますか」
「直接はない。ただ、レイが一度だけ変なことを言ったのは覚えてる」
「どんな」
「“あの人、私がいなくても平気そうに見えるでしょ”って」
女はそこで少し間を置いた。
「でも、その言い方がね。安心してる人の言い方じゃなかった」
「不安だった」
「たぶんね。相手が本当に自分を必要としてるか、ずっと確かめてる感じ」
それが愛情なのか、執着なのか、習性みたいなものなのかは分からない。
「トワさんの方は」
「さあ。あの子はほとんど喋らなかったから。ただ、迎えに来た時に一回だけ、レイに向かって“もういいだろ”って言ったのを聞いたことがある」
「その言い方は苛立っていた?」
「苛立ち、というより、止めるのに慣れてる感じだった」
止めるのに慣れてる。
それは親密さの証拠にも見えるし、繰り返される摩擦の証拠にも見える。
喫茶店を出る時、店主は最後に言った。
「記事にするなら、あの子たちを可哀想な恋人みたいに綺麗にしないでね」
「まだ記事にするかは」
「する気がある顔よ」
そう言われて、少し苦笑するしかなかった。
「少なくとも、今は決めてません」
「そう。でも、よくある悲恋にはしない方がいいわ。あれはもっと、面倒な二人だった」
店を出て、俺は近くの公園の喫煙所脇に立って手帳を見返した。
レイ=人懐っこい / 必要とされる位置に入るのが上手い / 相手の機嫌に敏い
トワ=静か / 見ている / レイを止めるのに慣れている
どちらも相手を必要としていた
片方だけの依存ではない
ページの上で、最初の印象が崩れていく。
次に当たったのは、資料に名前だけ残っていたトワの元同僚だった。
今は運送関係の仕事をしているらしく、夕方なら話せるということで、営業所近くの自販機前で落ち合った。
三十代半ばの男で、日に焼けた首筋に汗が光っていた。紙コップの珈琲を片手に、露骨に怪訝そうな顔をする。
「トワのこと?」
「一緒に働いていたと聞いて」
「短い間だけな。真面目だったよ」
「どんなふうに」
「黙ってるけど、仕事はちゃんとやる。変に愛想振りまかないし、媚びないし、でも頼んだことはやる」
ここまでは“静かな人間”の像に収まる。
「レイさんのことは」
「一回か二回見たかな。職場の近くまで来てたことがあったから」
「印象は」
男ははっきり嫌そうな顔をした。
「正直、苦手だった」
「というと」
「距離が近い。なんか、最初から他人の生活に入ってきてる感じがする」
喫茶店の店主と似た表現だった。
ただしこちらはもっと直線的だ。
「トワさんとは仲が良さそうでしたか」
「良い悪いで言うなら、まあ悪くはなかったんじゃないか。でも、見てて疲れる二人だった」
「疲れる」
「片方が喋りすぎて、片方が黙りすぎるんだよ。で、喋る方は黙ってる方の顔色見てるし、黙ってる方は喋る方がどこまで行くか見てる。ずっと綱引きみたいだった」
綱引き。
それは第2話までの“よくある悲恋”とはまるで質が違う。
「トワさんは、支えられていた側に見えましたか」
「は?」
男はあからさまに首をひねった。
「逆だろ」
「逆」
「生活回してたのはトワの方だと思う。少なくとも働き方はそうだった。レイは不安定だったし、すぐ体調崩すとか予定変えるとか、そういうの多かったみたいだからな」
「みたい、というのは」
「トワがぼやいてたわけじゃない。周りが勝手に察してただけ。でも、あいつ、残業代が出る仕事を妙に気にしてた時期があってさ。必要だったんだろ」
資料の中のメモが頭をよぎる。
実際にはトワの方が生活面を支えていた?
「トワさんは、レイさんを負担に感じていたと思いますか」
「負担じゃないとは言わない。でも、切る気もなかったんじゃないか」
「それは情で?」
「知らない。情かもしれないし、責任感かもしれないし、そういう役回りに慣れてただけかもしれない」
男は紙コップの残りを飲みきって、空を軽く握り潰した。
「でも被害者面するタイプではなかったな、あいつは」
「被害者面」
「周りから見れば、黙って面倒見てる方が可哀想に見えるだろ。でも、トワは別に自分を可哀想だと思ってる感じじゃなかった。むしろ、自分がいないと駄目だろ、くらいに思ってたかもしれない」
それはかなり重要だった。
レイが必要とされる位置に入りたがる人間だったとしたら、トワもまた“自分がいないと回らない”位置に居続けることで関係を保っていた可能性がある。
つまり、片方が一方的に寄りかかっていたわけではない。
「二人の関係を、一言で言うなら」
そう聞くと、男は嫌そうに笑った。
「一言で済むなら苦労しないだろ」
「仕事柄、つい」
「じゃあ無理やり言うなら、似た者同士」
「どこが」
「相手がいないと困るくせに、そのことを認めたくないところ」
その言葉を、俺は少し丁寧に書き留めた。
帰り道、空はもう暗くなり始めていた。歩道橋の上で足を止め、俺は今日聞いたことを頭の中で並べ直す。
老婦人はレイを尽くす側に見ていた。
喫茶店の店主はレイを“必要とされる位置に入るのが上手い”と見ていた。
元同僚はトワを支える側、あるいは支える位置に居続ける側だと見ていた。
食い違っている。
だが、完全にバラバラというわけでもない。
どの証言にも共通しているのは、二人が互いを強く必要としていたらしいこと。
ただ、その必要の仕方が、見る人間によってまるで違う顔になる。
献身。
支配。
責任感。
依存。
役割。
似た者同士。
どれも当てはまりそうで、どれも少しずつずれている。
歩道橋の下を車の列が流れていく。ヘッドライトの白い線が、途切れずに続いていた。
俺は手帳の新しいページを開いて、真ん中に二本線を引いた。
左にレイ、右にトワと書く。
その下に、今日までの印象を箇条書きで並べた。
レイ
- 明るい
- 愛想がいい
- 世話焼きに見える
- 必要とされる位置に入る
- 相手に必要とされたい
- 不安定かもしれない
トワ
- 無口
- 受け身に見える
- だが見ている
- 生活面を支えていた可能性
- 止める側に慣れている
- 自分がいないと駄目だと思っていたかもしれない
そして二人の間に、矢印を両方から引く。
対等
両依存
相互監視
相互必要
書いてみると、最初に思っていたよりずっと厄介な関係に見えた。
可哀想な恋人同士、というほど単純じゃない。
どちらかが完全な被害者、というほど分かりやすくもない。
むしろ、どちらも相手を必要としていて、どちらも相手を消耗させていて、どちらもそこから離れる気が薄かったように見える。
資料の束の中にあった“悲恋”という言葉が、急に安っぽく見えた。
よくある悲恋。
そんなふうに呼んだ瞬間、この二人は理解しやすくなる。
理解しやすくなる代わりに、こぼれるものが多すぎる。
歩きながら、俺はふと考える。
もし事件が起きていなければ、周囲はこの二人をどう見ていたんだろう。
少し面倒で、少し距離感のおかしい、若い恋人同士。せいぜいその程度で終わっていたのかもしれない。
結末が先にあるから、人は過去から意味を拾う。
あの沈黙は予兆だった。
あの笑顔は無理をしていた。
あの言葉は支配だった。
あの世話焼きは執着だった。
何もかも、後からならそう見える。
だが、それは本当に当時そこにあった意味なのか。
それとも、後から貼られた札にすぎないのか。
アパートへ戻る電車の中で、俺は資料の束から一枚のコピーを取り出した。
警察発表を要約したらしい簡素な紙だ。現場の状況について、曖昧な表現で二、三行だけ書いてある。
同室内に生活用品の乱れあり
争った可能性も否定できず
詳細不明
争った可能性。
この一文があるだけで、また別の物語が立ち上がる。
喧嘩の末だったのか。
別れ話のもつれか。
あるいは日常の延長にすぎなかったのか。
詳細不明。
なのに、人はその先を勝手に埋める。
俺も埋めかけている。
そのことを自覚して、少しだけ嫌になる。
電車の窓に映る顔は、思ったより疲れて見えた。
古い事件の取材なんて、骨だけ追っているうちは気楽だ。だが、そこにいた人間の形が見え始めると、一気に厄介になる。
もう少しだけ調べるつもりだった。
けれど、ここまで来たら、たぶん途中ではやめられない。
次は資料そのものを洗い直す必要がある。
噂や証言だけじゃなく、紙に残ったもの。
残ったくせに欠けているもの。
俺は手帳の最後に短く書いた。
次、資料本体。
欠け方を見る。
食い違うのは、証言だけじゃないはずだった。




