よくある悲恋
最初に会いに行ったのは、事件当時二人が住んでいたアパートの近くで小さな雑貨屋をやっている老婦人だった。
資料の端に書かれていた名前と住所は古かったが、店はまだ残っていた。駅前から外れた細い道の途中、色褪せた庇の下に、洗剤やら乾物やら文房具やらが狭く並んでいる。店先の風鈴が、弱い風に鳴っていた。
昼を少し過ぎた時間で、客はいない。引き戸を開けると、奥から「いらっしゃい」と声がした。
簡単に名刺を出して事情を話すと、老婦人は目を細めた。
「新聞の人?」
「昔の件を少し調べていて。急ぎではないんですが、もし覚えていることがあれば」
「昔の件って、あの二人の?」
あの二人、という言い方をした。名前を出さなくても通じるらしい。
店の奥に通されて、俺は勧められるまま丸椅子に座る。老婦人は向かいに腰を下ろすと、しばらく考えるように指先で膝を叩いた。
「覚えてるわよ。だってあの頃はけっこう騒ぎになったもの」
「トワさんとレイさん、ですよね」
「そうそう。若くて、綺麗な子たちだった」
綺麗、か。
資料の中にはそういう言葉はなかった。けれど、記憶というのはそうやって余計な輪郭を連れてくる。
「店にも来てましたか」
「たまにね。日用品とか、簡単な食べ物とか。買うのはだいたいレイちゃんの方だったかしら。愛想のいい子でねえ。よく笑う子だったわ」
「トワさんは?」
「無口だった。でも、感じが悪いとかじゃないのよ。静かな子。ちょっと疲れてるのかなって思う時はあったけど」
ここまでは、資料で見た“献身的なレイと、寡黙なトワ”の像に近い。
「二人は仲が良かったですか」
そう聞くと、老婦人は少しだけ笑った。
「悪かったら一緒になんていないでしょう」
「たしかに」
「でも、うーん……どう言えばいいのかしらね」
そこで老婦人は言葉を選ぶように黙り込んだ。
店の外を自転車が通っていく音がする。遠くで犬が一度だけ吠えた。
「仲は良かったわよ。たぶん、本当に。少なくとも、他人から見ればそう見えるくらいには。いつも一緒だったし。片方だけ見かける方が珍しかったもの」
「かなりべったりしていた?」
「そうねえ。べったり、と言えばそう。若い恋人なんてそんなものだと思ってたけど」
「周囲とはあまり付き合わなかったと聞きました」
「それも本当。町内会の行事にもほとんど顔を出さないし、他所と深く付き合う感じではなかったわね。でも、今どきの子ってそんなものでもあるでしょう。だから、その時は別に変だとは思わなかったの」
“変だとは思わなかった”。
その一言は妙に引っかかった。変だと思うに足る何かが、後から付着した時にしか出てこない言い回しだ。
「事件の前に、何か違和感みたいなものは」
「違和感……」
老婦人は首を傾げ、視線を天井の方へ泳がせた。
「ううん。大きな喧嘩をしてるところも見てないし。物音がひどいとか、そういうのも聞かなかった。ただ……」
「ただ?」
「ちょっと気になるくらい、二人だけって感じだったかなあ」
その言い方は、資料の書き起こしとほとんど同じだった。
昔の記録をなぞっているのか、本当にそう覚えているのかは分からない。
「二人だけ、というのは」
「なんていうのかしら。若い恋人同士って、世界が狭くなるじゃない? 友達より恋人、家族より恋人、みたいに。でも、あの二人はもう少し、それが強かった気がするのよね」
「外から入りにくい?」
「そう。入れない、ってほどでもないの。話しかければ普通に話すし、買い物だってちゃんとする。でも、二人の間にある空気が、最初から出来上がってる感じ」
老婦人はそこで一度笑った。
「ほら、こっちが口を挟む隙がない若い子たちっているでしょう」
分からなくもない。
その程度のことなら、たしかに“よくある恋人同士”だ。
だが老婦人は、笑いながらも少し眉を寄せていた。
「可哀想だったのよ、最後は」
「可哀想?」
「だって、あんな終わり方」
終わり方。
人は事件の中身より、結末から過去を塗り直す。
「二人とも、もっと他にやりようがあったでしょうにって、あの時はみんな言ってたわ。若いんだし、別れるなり、誰かに頼るなり。ねえ」
「その“あの時みんな言ってた”というのは、やっぱり無理心中だと受け取られていたからですか」
「そうね。新聞にもそう出てたし、現場の様子も、なんだかそういう感じだったんでしょう?」
「そういう感じ、ですか」
「詳しいことは知らないわよ。警察でもないし。でも、誰かがそう言ったら、だいたいみんなそっちで覚えちゃうものよ」
俺は手帳に短く書きつける。
新聞に引っ張られた記憶
老婦人はそれを見て、小さく肩をすくめた。
「嫌ねえ。なんだか私まで、いい加減なこと言ってるみたい」
「実際、人の記憶なんてそんなものですよ」
「あなた、記者なのに冷たい言い方するのね」
「記者だから、かもしれません」
そう言うと、老婦人は少しだけ可笑しそうに笑った。
笑った拍子に、皺の寄った目元が柔らかくなる。
「でもね」
その声がふと静かになった。
「レイちゃんは、よく尽くしてたと思うのよ」
「尽くしていた」
「ええ。買い物袋を持つのも、支払いをするのも、店で喋るのも、だいたいあの子だったもの。トワちゃんの方は、後ろで立ってることが多かった。具合でも悪いのかなって思う日もあった」
「それは、トワさんがレイさんに依存していたように見えた?」
「依存、なんて言葉は難しいけど……そうねえ。支えられてたのはトワちゃんの方に見えたかもしれない」
「見えた、ですね」
「だって本当のところなんて分からないもの」
老婦人はあっさりそう言った。
「家の中のことなんて、外からじゃ見えないわ。買い物の時に片方がよく喋るからって、普段もそうとは限らないし。外では元気でも、家に帰れば逆かもしれないでしょう?」
その通りだった。
さっきまで“献身的なレイ”の像に寄りかけていた話が、本人の口で簡単に揺らぐ。
「ただ、皆そう思いたがるのよ。外で明るくて、よく動く方が支える側。静かで疲れて見える方が支えられる側。分かりやすいものね」
そう言って、老婦人は自分の膝をぽんと叩いた。
「でも、あの子たち、どっちがどっちだったのかしらね」
俺は顔を上げた。
その一言は、資料室で読んだ書き起こしにもあった。
同じ記憶を、同じ言葉で保っているのか。あるいは、昔にそう話した自分の記録を、どこかでなぞっているのか。
「今になると、よく分からないわ」
老婦人は、困ったように笑った。
「トワちゃんが黙って立ってるのを、弱そうだなって勝手に思ってただけかもしれないし。レイちゃんの方が、無理して明るくしてただけかもしれない。逆に、明るく見える方が相手を離さないようにしてることだってあるでしょう? ほら、人って、後からいくらでも意味をつけられるじゃない」
その言葉は、記者の俺がいちばんよく知っていることだった。
店を出たあと、俺は近くの公園のベンチに座って手帳を見返した。
晴れてはいるが、風は少し冷たい。ブランコが誰も乗らないまま揺れている。遠くで、子供の声がした。
手帳には、さっきの話が雑に並んでいた。
レイ=愛想がよい、買い物担当、よく笑う、尽くしていたように見える
トワ=無口、疲れて見える、後ろに立つ、支えられていたように見える
ただし外から見ただけ / 家の中は不明
“どっちがどっちか分からない”
よくある悲恋。
言葉にすれば簡単だ。
若い恋人。閉じた関係。どちらかがどちらかを支え、支えきれず、二人で壊れた。
それだけなら、記事一本にするのは難しくない。読者もすぐ理解する。
だが、理解しやすい話というのは、だいたい誰かが余分な部分を削っている。
次に向かったのは、二人が住んでいたアパートの大家の親族だった。本人はすでに亡くなっていて、当時の契約関係を曖昧に覚えている息子が、今は不動産管理の窓口に立っているらしい。
駅前の古びた雑居ビルの二階、小さな不動産屋だった。壁に貼られた物件写真が日に焼けている。
男は五十代くらいで、話を持ちかけると露骨に嫌そうな顔をした。
「何年も前の話ですよ」
「承知してます。少し確認したいだけで」
「遺族に許可取ってるんですか」
「記事にするかもまだ決めてません」
「じゃあなおさら、軽々しく掘り返されても困るなあ」
もっともだ。
俺は頭を下げて、できるだけ穏やかに言う。
「契約上の細かい情報までは要りません。生活ぶりについて、外から見て気になる点があったかどうかだけでも」
男は面倒そうに鼻を鳴らしたが、追い返すほどでもないと思ったのか、短く答えた。
「家賃は普通に払ってた。滞納はなかったです」
「生活が荒れているとか、近隣トラブルが多いとかは」
「そういう印象はない」
「住んでいた二人については」
「片方が出てきて応対することが多かったかな」
「どちらですか」
男は少し考えるように目を細めた。
「……たしか、トワだったか。いや、レイだったかも」
「覚えていない」
「そりゃそうでしょう。何年前の話だと思ってるんです」
それもその通りだ。
だが、資料の書き起こしでは“片方が出てきて応対することが多かった”までは残っていたのに、肝心の名前が抜けていた。今ここでも同じところが欠ける。
「印象として、どちらかが主導権を握っていたようには」
「主導権?」
男は少し眉をひそめた。
「そんな見方したことないな。若い同居人ってだけですよ。どっちも普通だった。少なくとも、うちに迷惑はかけてない」
「周囲と交流しない感じはありましたか」
「別に。愛想がいいってほどじゃないけど、無愛想でもない。今どきの若い人って、あんなものでしょう」
また同じだ。
“今どきの若い人”。
“よくある恋人同士”。
事件の前には、誰もそこに特別な物語を見ていない。
事件の後になって初めて、それらしい記号が拾い上げられる。
「事件の後、周囲の反応は」
男は露骨に嫌な顔をした。
「みんな勝手なこと言ってましたよ。片方が重かっただの、病んでただの、共依存だの。会ったことも大してないくせに」
「でも、そう見える材料があった?」
「さあね。ただ、そういう話って好きでしょう、みんな」
その言い方に、わずかに棘があった。
俺の仕事もその“みんな”の側に入っている気がして、少しだけ居心地が悪い。
礼を言って店を出ると、もう空は傾き始めていた。
駅までの道を歩きながら、俺は頭の中で証言を並べる。
老婦人の話。
不動産屋の話。
どちらも大きくは矛盾していない。
若い二人が同居していた。仲は悪くなさそうだった。周囲とは深く交わらなかった。外から見れば、少し世界が狭い恋人同士に見えた。
ここまでなら、本当に“よくある悲恋”の材料は揃っている。
だが、材料が揃っていることと、それが正しいことは別だ。
駅のホームで電車を待ちながら、俺は鞄から例の写真のコピーを取り出した。
ぼやけた二人の姿。
裏には鉛筆で、また仲直りしたらしい。
らしい、という言葉の頼りなさが、妙に目についた。
誰がそう見たのか。
何を見てそう思ったのか。
仲直りしたのは事実なのか。
そもそも喧嘩していたのか。
そのどれも分からないのに、その一文があるだけで、二人はすぐ“揉めては元に戻る恋人”の顔をし始める。
電車が滑り込んできて、風が足元を払う。
乗り込んで、つり革を掴んだ時、ふと資料の中の別のメモを思い出した。
実際にはトワの方が生活面を支えていた?
疑問符つきの、あの短い一文。
老婦人の話だけなら、レイが支える側に見えた。
だが資料のどこかでは、その逆を疑った誰かがいる。
もしかすると次に会う相手は、全く逆のことを言うかもしれない。
そうなれば、この“よくある悲恋”は少しずつ形を失う。
あるいは逆に、もっと都合のいい悲劇へ塗り直されるかもしれない。
車窓に映る自分の顔を見ながら、俺は小さく息を吐いた。
人は、見たことをそのまま覚えているわけじゃない。
見た瞬間から、もう意味を貼っている。
その意味が、後から事件の結末に引っ張られて整えられる。
整えられたものは、やがて“最初からそうだった”みたいな顔をする。
たぶん、次からが本番だ。
よくある悲恋として片づけられた二人が、本当にそういう輪郭だったのか。
それとも、周りがそう読んだだけなのか。
電車の揺れに合わせて、俺は手帳を開いた。
次の確認先の欄に、今日新しく聞いた名前を足していく。
元勤務先関係
近所のクリーニング店
レイの友人?
トワの元同僚?
最後に一行、別の向きへ矢印を引いた。
レイが支える側、という前提を外す
書いた字を見て、自分でも少し笑いそうになった。
前提を外す、なんて、取材の初歩みたいなことを今さら書いている。
それでも書かなければ、たぶんすぐに飲み込まれる。
よくある話は、強い。
分かりやすい物語ほど、人の頭に綺麗に収まる。
だからこそ、少しだけ疑っておいた方がいい。
あの二人が、本当に“よくある悲恋”だったのかどうかを。




