プロローグ
人の噂話ほど信用にならないものはない。
そう思うようになったのは、いつからだったか。
最初からそうだったわけじゃない。子供の頃は、近所で流れる誰それの話を、ただ面白がって聞いていた気がする。あの家の息子は出来がいいだの、あそこの夫婦は仲が悪いだの、あの店は潰れるらしいだの。誰かが言い出して、別の誰かが頷いて、いつの間にかそれは本当らしい顔をして町の端まで歩いていく。
大人になって、記者になって、それがどれだけ形を変えるかを見た。
見た、と言っても、正確には見せられた、かもしれない。
誰かが見たものに、見ていないものが足される。
聞いた話に、言っていない言葉が混ざる。
覚えていたはずの景色に、後から意味が貼りつけられる。
そうして出来上がったものを、人は平気で事実と呼ぶ。
うちみたいな小さな出版社に回ってくる仕事の中には、そういうものの後始末が少なくない。華やかな特集も、大きなスクープも、そうそう転がっていない。地域欄の穴埋めみたいな記事、古い連載の整理、倉庫に積みっぱなしだった資料の仕分け。今の俺がやっているのも、その延長みたいな仕事だった。
薄暗い資料室の中で、俺は段ボールを一つずつ開けていく。
湿気を吸った紙の匂いがする。古いインクの、少し酸っぱいような匂いも混じっていた。背表紙の剥がれたファイル、輪ゴムが劣化して切れた紙束、コピーを重ねすぎて文字の輪郭が潰れた記事。誰が何のつもりでここまで溜め込んだのかも分からないものばかりだ。
開いた拍子に、紙の端がはらりと床に落ちた。
拾い上げる。新聞の切り抜きだった。見出しは半分黒く潰れて読めない。日付も欠けている。本文には、どこかで見たような語が並んでいた。
同居人。
若年男女。
死亡。
現場の状況から――
よくあるやつだな、と思った。
事故、事件、火災、失踪。町で何かが起きるたび、それを分かりやすい言葉に丸めて並べた記事は量産される。読む側もその方が楽だ。複雑なものは嫌われる。誰が悪かったのか。何が原因だったのか。何が正しかったのか。その形に整っていれば、人は安心して読める。
俺だって、そういう文章を書いたことがないわけじゃない。
段ボールの底に、妙に分厚い紙束があった。
ばらばらの紙を無理やり一つにしたような束だった。何度も綴じ直されたのか、左端にホチキスの穴がいくつも並んでいる。表紙代わりらしい薄い紙には、誰かの手書きで雑に文字が書かれていた。
トワ・レイ事案 関連
それだけだった。
ページをめくる。
切り抜き、手書きのメモ、誰かの聞き取りの写しらしいもの、ぼやけた写真、紙の端にだけ残った印字。並びも順番も揃っていない。資料というより、集めている途中で放り出された残骸に近かった。
最初の一枚に、赤ペンで線を引かれた一文があった。
恋人同士の無理心中として当時大きく報じられた――
その下には、別の筆跡で短く書き足されている。
本当に?
俺は少しだけ眉をひそめた。
別に珍しいことじゃない。記事の切り抜きに、後から記者がメモを入れることはある。違和感を書き残したのか、取材のあたりをつけただけなのかは分からない。ただ、その一言だけがやけに生々しく見えた。
本当に?
資料室の小さな窓から、夕方の光が斜めに差し込んでいた。紙の埃が、その中をゆっくり漂っている。束の中ほどに挟まっていた写真を引き抜く。若い男女が二人、どこかの道端で並んでいる。コピーが粗すぎて顔はよく見えない。笑っているようにも、無表情にも見えた。
写真の裏には、鉛筆でかすれた文字が残っていた。
また仲直りしたらしい
誰が書いたのか分からない。いつ書いたのかも分からない。
なのにその一文だけで、見えていたものが勝手に増える。喧嘩していたのかもしれない。何度も揉めていたのかもしれない。周囲はそれを見ていたのかもしれない。いや、ただそう噂されていただけかもしれない。
それだけで、もう余計なものが混ざり始める。
俺は写真を束の上に戻した。
たぶん、この仕事はただの整理で終わる。使われない資料に番号を振って、保管棚に戻す。それだけだ。古い事件を引っ張り出して記事にするほど、今のうちに余裕はない。そんなことは分かっていた。
分かっていたのに、俺は次の紙をめくっていた。
薄くなった活字の隙間に、途切れた名前がある。
トワ。
レイ。
数年前、この町で死んだ二人。
世間では、恋人同士の悲劇として片づけられた事件。
けれど、この束を作った誰かは、そこに引っかかっていた。
本当に?
俺は椅子に座り直して、紙束を手前に引き寄せた。
噂話ほど信用にならない。
それでも、その噂話がどういうふうに事実の顔をするのかは、少し気になった。




