人魚の噂
村で、また例の噂が出たのは、その頃だった。
夜、酒の席で男たちが笑いながら話していた。
人魚を食べると不老不死になる。
血は病に効く。
肝は薬になる。
もし本当に獲れたら大金になる。
そんな話は昔からあった。子どもの頃にも聞いたことがある。海に近づきすぎるなと脅すための話だと思っていたし、年寄りが面白がって言うだけの与太話だとも思っていた。
けれど、その夜は妙に耳についた。
「この前、沖で白い影を見たってやつがいたな」
「尾びれが見えたとか何とか」
「本当にいたら、まずは都に売るか?」
「馬鹿、食うに決まってるだろ」
どっと笑いが起きる。
俺は笑えなかった。
次にナギと会ったとき、何度も言おうとした。
しばらく来るな。
浅瀬に近づくな。
村の者に見つかるな。
言えばよかった。ただそれだけのことを、俺はうまく言えなかった。人間の村ではおまえを食う話で笑っている、などと、どうして口にできた。
「どうしたの」
ナギが尋ねた。
「別に」
「別じゃない」
月の細い夜だった。水面が暗く、ナギの顔もいつもより近く感じた。
俺はしばらく黙って、それからようやく言った。
「……しばらく、ここへ来るな」
ナギは瞬きをした。
「どうして」
答えられなかった。
村の連中が噂をしているから。人間は欲をかくから。おまえを見つけたら、きっとろくなことにならないから。
頭の中ではいくらでも言えたのに、喉のところで全部止まった。
ナギは俺を見つめたまま、やがて小さく笑った。悲しいのを隠すような笑い方だった。
「分かった」
それだけ言って、ナギは身を引いた。
別れ際、いつもより強く俺の手を握った。冷たい指先だった。
「じゃあ、シンが呼んで」
そう言って、ナギは海へ戻っていった。
俺はその背を見送ることしかできなかった。




