凪の日々
会う場所は決まっていた。村の者があまり来ない入り江の端、岩が風をよける小さな浜。潮が満ちているときだけ、ナギはそこまで来られた。
「今日は沖が騒がしい」
「なんで分かる」
「音が違う」
「海の中でも音って聞こえるのか」
「よく聞こえる」
ナギはそう言って笑った。俺には分からないことばかりだった。海の底の色、月が丸い夜に魚がどう動くか、嵐の前の水の重さ。ナギは俺の知らないことをたくさん知っていて、俺は陸のことを少しだけ教えた。火の匂い、干した網の手ざわり、村の祭りのうるささ、冬の風の冷たさ。
「いつか、火を見てみたい」
ナギが言ったことがある。
「危ないぞ」
「知ってる。でも、見てみたい」
その願いに、俺はうまく答えられなかった。火を見せてやる、とは言えなかったし、見せるなとも言えなかった。
会えない日があると、落ち着かなかった。
漁に出ていても、網を引きながら、今ごろ潮はどうだろうと考えてしまう。村の連中の話し声の向こうに、ナギの声を探してしまう。恋だと気づいたのは、そうしてからだった。
大げさなものじゃない。ただ、会いたいと思った。顔が見たい、声が聞きたい、それだけのことが、朝から晩まで頭のどこかに居座るようになった。
ある日、ナギは俺に言った。
「シンは、陸のひとだね」
「当たり前だろ」
「うん。でも、前よりそう思う」
「前は違ったのか」
ナギは少し考えて、それから首を振った。
「最初は、波打ち際のひとだった」
その言い方がおかしくて、俺は笑った。
「なんだそれ」
「いまは、シン」
短い言葉だったが、それだけで充分だった。
俺も言い返したかった。おまえは人魚じゃなく、ナギだと。そう言えばよかったのかもしれない。けれどそのときは、うまく言葉にならなかった。
波が静かに寄せては返していた。
あの頃の日々を思い出すと、名前どおり、凪いでいたのだと思う。風も波もないわけではない。ただ、荒れてはいなかった。壊れる気配が見えないほどに、静かだった。




