プロローグ
花には意味があるのだと、旅の行商が笑いながら話していたことがある。
都では花を一本渡すにも意味を持たせるのだという。愛だの、別れだの、待つだの、そんなものを花びらに託してしまうのだから、人間というのはおかしい、とその男は酒の席で言った。
俺はそのとき、ふうんとしか思わなかった。
花は花だ。咲いて、枯れる。それだけで充分だろうと。
あの日までは。
その日も俺は浜で、破れた網を繕っていた。潮風は少し冷たく、指先は塩でざらついていた。昼の海は穏やかで、鳥の声だけがやけに遠く聞こえる。こんな日は漁も悪くないだろうと、俺は黙々と手を動かしていた。
ふと、波打ち際のほうで何か白いものが揺れた。
最初は流木か、打ち上がった布切れかと思った。けれど目を凝らすと、それは髪だった。濡れた髪が陽を受けて、鈍く光っていた。
人がいる。
そう思って立ち上がり、砂を踏んで近づいた。
近づいて、足を止めた。
女だった。年は俺とそう変わらぬように見えた。けれど腰から下は、見慣れたどんな女とも違っていた。鱗が陽にきらめき、大きな尾びれが波に浸かって、ゆるく揺れていた。
息を呑んだ俺を見て、その女は先に口を開いた。
「……逃げないの」
声は、思っていたよりずっと人の声に近かった。
「逃げたほうがよかったか」
そう返すのが精いっぱいだった。
女は少しだけ笑った。笑うと、恐ろしいものには見えなかった。ひどくきれいで、ひどく妙だった。
「それ、何をしていたの」
「網を繕ってた」
「魚を捕るための?」
「そうだ」
女はうなずいた。波が寄せ、彼女の尾の先を洗っていく。俺はそこでようやく、自分が浜の草むらで摘んだ白い花を腰に挟んだままだったことに気づいた。作業の邪魔になるから捨てようと思って、そのままにしていたものだ。
女の視線が、その花に落ちた。
「きれい」
俺はなぜか、それを抜いて彼女に差し出していた。
「いるか」
女は少し目を丸くしてから、そっと受け取った。濡れた指が花びらに触れる。彼女はしばらくそれを眺め、それから小さく身をかがめて、足もとの波の中から貝がらを拾った。
薄青い、なめらかな貝だった。
「これ、あげる」
そう言って、俺の手のひらに置いた。
花と貝がら。
あのときは、それだけだった。
それだけのことが、こんなふうに残るとは知らなかった。




