表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
IRIS-Log-Archive  作者: IRIS
少女と人狼_IRIS.log

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

166/258

火薬の音

その日は、朝から森が静かだった。


獣の気配が薄いわけじゃない。鳥も鳴いていたし、風もいつも通りに枝を揺らしていた。けれど、その奥にあるものが違った。森の音の下に、固い緊張が沈んでいた。


人間が入っている。


匂いでわかった。


一人や二人じゃない。複数。革、汗、鉄、油、乾いた火薬。狩りに慣れた人間の匂いだった。村人が薪を拾いに来る時の匂いとは違う。踏み方も違う。歩くためではなく、探すための足取り。


俺は低く身を伏せて移動した。


風下を選び、葉を踏まず、木々の影を縫う。人間の姿はまだ見えない。だが、いる。点々と散っている。森を包むように広がっていた。


嫌な感じがした。


すぐに石のところを思い出した。


今日は来るかもしれない。来ないかもしれない。けれど、あの少女は、ときどき平気な顔で森の中へ踏み込んでくる。人間の匂いに鈍いわけじゃないのに、自分が危ない側に立つとは思っていない。


俺は石のある方へ急いだ。


枝の間を抜け、小さな窪地を越え、見慣れた木立へ出る。そこには、まだ誰もいなかった。


いない。


胸の奥が少しだけ緩む。


だが、その安心は長く続かなかった。


すぐあとに、足音がした。


軽い。小さい。聞き慣れた足音。


少女だった。


いつものように布袋を抱えて、少し急ぎ足でやってくる。俺の姿が見えていないのに、まっすぐ石へ向かってくるその感じまで、いつも通りだった。


俺は反射的に前へ出た。


少女は足を止めた。


目を見開く。だが悲鳴は上げない。俺が今まででいちばん近い場所にいたからだ。木陰から半身ではなく、はっきり見える位置。毛並みも、牙も、四肢も、全部見える距離。


少女の唇がわずかに開く。


「……あなた」


初めて向けられる、人間らしい驚きの声だった。


それでも少女は逃げなかった。


俺は石の前へ出て、少女のほうではなく、森の外れを見る。耳を立て、鼻を上げる。来ている。近い。


少女もようやく何かを感じたらしい。遅れて振り返る。


遠くで枝が鳴った。


人間の足音。押し殺した声。金具が触れ合うかすかな音。


少女の顔色が変わる。


「だれか、いるの?」


いる。


俺は低く唸った。


少女はその音に息を呑んだ。俺に向けられた唸りではないとわかっても、身体はこわばるらしい。けれどすぐに、俺の視線の先を追った。


人間の匂いが、もう近い。


俺は少女の横を回り込み、森の奥へ押しやるように立った。


行け。


そう言うように。


少女は数歩よろめき、俺を見る。


「え……?」


まだわかっていない。いや、わかりたくないのかもしれない。


俺はもう一度唸った。今度ははっきりと短く。


少女はびくりと肩を揺らし、ようやく後ろへ下がった。


その時だった。


前方の茂みが鳴り、男が一人現れた。肩に長い銃を担いだ人間。俺を見るなり、目を見開く。


「いたぞ!」


声が森に走る。


すぐ後ろや横からも、別の気配が動く。囲まれている。最初からそのつもりだったのだろう。俺ひとりを追っていたのか、もっと別のものを探していたのかはわからない。けれど、見つかった瞬間、全部同じになる。


人間にとって俺は撃つものだ。


少女が小さく声を漏らす。


「だめ……!」


その声で、男の目が少女へ向いた。


驚きと苛立ちが一度に浮かぶ。


「なんでこんなとこにいる!」


少女は答えられない。布袋を抱えたまま立ち尽くしている。


男は舌打ちし、銃口を俺へ向けた。


俺は一歩前に出た。


少女から距離を取らせるために。


このまま走れば逃げられるかもしれない。森の奥へ飛び込めば、まだ道はある。だがそれをすれば、人間は少女を見失わない。森にいた理由を問い、ここへ来た理由を問い、俺との関わりまで探るかもしれない。


それは駄目だった。


俺は少女を見た。


少女も俺を見ていた。


怖がっていた。震えていた。それでも、ひどく悲しそうな顔をしていた。


どうしてそんな顔をする。


撃たれるのは俺だ。


お前じゃない。


なのに、その目はまるで、失うものを見る目だった。


男が叫ぶ。


「下がれ!」


少女は動かない。


俺は少女の前に出た。


その時だけ、時間が妙に遅くなった。


風の向き。葉の揺れ。少女の指先が布袋を握る力。銃口の暗い穴。火薬の匂い。全部がやけにはっきりしていた。


たぶん、幸せの絶頂というのは、こういう瞬間なのだと思った。


人間を怖いだけのものだと思わずに済んだこと。


人間の少女が、俺を化け物の目で見なかったこと。


もう少しで、一緒に森を歩けるかもしれないと、どこかで思ってしまったこと。


その時、パンッと音と火薬の音がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ