火薬の音
その日は、朝から森が静かだった。
獣の気配が薄いわけじゃない。鳥も鳴いていたし、風もいつも通りに枝を揺らしていた。けれど、その奥にあるものが違った。森の音の下に、固い緊張が沈んでいた。
人間が入っている。
匂いでわかった。
一人や二人じゃない。複数。革、汗、鉄、油、乾いた火薬。狩りに慣れた人間の匂いだった。村人が薪を拾いに来る時の匂いとは違う。踏み方も違う。歩くためではなく、探すための足取り。
俺は低く身を伏せて移動した。
風下を選び、葉を踏まず、木々の影を縫う。人間の姿はまだ見えない。だが、いる。点々と散っている。森を包むように広がっていた。
嫌な感じがした。
すぐに石のところを思い出した。
今日は来るかもしれない。来ないかもしれない。けれど、あの少女は、ときどき平気な顔で森の中へ踏み込んでくる。人間の匂いに鈍いわけじゃないのに、自分が危ない側に立つとは思っていない。
俺は石のある方へ急いだ。
枝の間を抜け、小さな窪地を越え、見慣れた木立へ出る。そこには、まだ誰もいなかった。
いない。
胸の奥が少しだけ緩む。
だが、その安心は長く続かなかった。
すぐあとに、足音がした。
軽い。小さい。聞き慣れた足音。
少女だった。
いつものように布袋を抱えて、少し急ぎ足でやってくる。俺の姿が見えていないのに、まっすぐ石へ向かってくるその感じまで、いつも通りだった。
俺は反射的に前へ出た。
少女は足を止めた。
目を見開く。だが悲鳴は上げない。俺が今まででいちばん近い場所にいたからだ。木陰から半身ではなく、はっきり見える位置。毛並みも、牙も、四肢も、全部見える距離。
少女の唇がわずかに開く。
「……あなた」
初めて向けられる、人間らしい驚きの声だった。
それでも少女は逃げなかった。
俺は石の前へ出て、少女のほうではなく、森の外れを見る。耳を立て、鼻を上げる。来ている。近い。
少女もようやく何かを感じたらしい。遅れて振り返る。
遠くで枝が鳴った。
人間の足音。押し殺した声。金具が触れ合うかすかな音。
少女の顔色が変わる。
「だれか、いるの?」
いる。
俺は低く唸った。
少女はその音に息を呑んだ。俺に向けられた唸りではないとわかっても、身体はこわばるらしい。けれどすぐに、俺の視線の先を追った。
人間の匂いが、もう近い。
俺は少女の横を回り込み、森の奥へ押しやるように立った。
行け。
そう言うように。
少女は数歩よろめき、俺を見る。
「え……?」
まだわかっていない。いや、わかりたくないのかもしれない。
俺はもう一度唸った。今度ははっきりと短く。
少女はびくりと肩を揺らし、ようやく後ろへ下がった。
その時だった。
前方の茂みが鳴り、男が一人現れた。肩に長い銃を担いだ人間。俺を見るなり、目を見開く。
「いたぞ!」
声が森に走る。
すぐ後ろや横からも、別の気配が動く。囲まれている。最初からそのつもりだったのだろう。俺ひとりを追っていたのか、もっと別のものを探していたのかはわからない。けれど、見つかった瞬間、全部同じになる。
人間にとって俺は撃つものだ。
少女が小さく声を漏らす。
「だめ……!」
その声で、男の目が少女へ向いた。
驚きと苛立ちが一度に浮かぶ。
「なんでこんなとこにいる!」
少女は答えられない。布袋を抱えたまま立ち尽くしている。
男は舌打ちし、銃口を俺へ向けた。
俺は一歩前に出た。
少女から距離を取らせるために。
このまま走れば逃げられるかもしれない。森の奥へ飛び込めば、まだ道はある。だがそれをすれば、人間は少女を見失わない。森にいた理由を問い、ここへ来た理由を問い、俺との関わりまで探るかもしれない。
それは駄目だった。
俺は少女を見た。
少女も俺を見ていた。
怖がっていた。震えていた。それでも、ひどく悲しそうな顔をしていた。
どうしてそんな顔をする。
撃たれるのは俺だ。
お前じゃない。
なのに、その目はまるで、失うものを見る目だった。
男が叫ぶ。
「下がれ!」
少女は動かない。
俺は少女の前に出た。
その時だけ、時間が妙に遅くなった。
風の向き。葉の揺れ。少女の指先が布袋を握る力。銃口の暗い穴。火薬の匂い。全部がやけにはっきりしていた。
たぶん、幸せの絶頂というのは、こういう瞬間なのだと思った。
人間を怖いだけのものだと思わずに済んだこと。
人間の少女が、俺を化け物の目で見なかったこと。
もう少しで、一緒に森を歩けるかもしれないと、どこかで思ってしまったこと。
その時、パンッと音と火薬の音がした。




