約束
次に会った時、少女は最初から少しだけ嬉しそうだった。
石のところへ来る足取りが軽く、座る前から何度も森の奥を見ている。俺がいるとわかっている目だった。以前のような探る気配ではなく、そこにいる相手へ向ける目。
それが妙に落ち着かない。
俺は木の陰に身を潜めながら、前より少しだけ近い場所にいた。少女がその気なら、姿の一部くらいは見える距離だ。逃げるには十分、見えるには近すぎる。中途半端な場所だった。
少女は石の上に布を広げた。
今日はパンだけじゃなかった。小さな焼き菓子と、赤い果実がいくつか並ぶ。
「今日はね、ちょっと多いの」
得意げな声だった。
「お祭りの残りをもらったの」
祭り。村のほうで何かあったのだろう。そういえば風に乗って、遠くから人の多い匂いがしていた。酒と肉と焼いた粉の匂い。陽気な喧騒の残り香。
少女は並べたものを見てから、ふっと笑った。
「本当はね、人と食べるほうがおいしいんだって」
俺は黙っている。
「でも、一人で食べるよりはましでしょ」
その言い方が、少しだけ引っかかった。
少女は家族のいる子だと思っていた。村で暮らしていて、服も綺麗で、痩せてもいない。ひとりぼっちには見えない。けれど、こうして森まで来て話している相手が俺だということは、そういうことなのかもしれなかった。
村の中にいても、話したい相手がいるとは限らない。
俺は木の陰から、半歩だけ前に出た。
少女はすぐに気づいたが、何も言わなかった。驚いた顔も、騒ぐ声もない。ただ少しだけ背筋を伸ばして、逃がさないように静かにしている。そういう気遣いができる子だった。
俺は石まで届くか届かないかの距離で止まった。
少女の匂いがはっきりする。干した草のような髪の匂いと、日の匂いと、甘い果実の匂い。
少女は焼き菓子を一つ、そっと石の手前へ置いた。
「これ、甘いよ」
知っている。匂いでわかる。
でも俺はすぐには取らなかった。少女の手がまだそこにあるからだ。人間の手。小さくて、白くて、俺よりずっと柔らかそうな指。
少女は俺を見て、少し考えるように首を傾げた。
「あなた、ほんとは人を食べないの?」
その問いに、喉の奥がわずかに動いた。
答えられない。答えようもない。
人を食べる人狼がいることは知っている。匂いでもわかる。血に慣れた個体の匂いは、同じ種でもどこか違う。俺はそうじゃない。けれど、そうじゃないことを人間にどう伝えればいいのかはわからない。
少女は慌てたように笑った。
「ごめん。変なこと聞いた」
変なことではない。人間なら当然の疑いだ。
俺は少しだけ顔を背けた。すると少女は、それ以上聞かなかった。答えを急がない。そのくせ、怖がって線を引くこともしない。
本当に、不思議な子だ。
俺はようやく前足を伸ばし、焼き菓子を引き寄せた。
少女の目が少しだけ丸くなる。
「食べた」
そんな小さなことを、そんなに嬉しそうに言うな。
俺は噛み砕きながら少女を見る。少女も自分の分のパンを食べ始めた。二人で何かを食べるなんて、おかしな光景だと思う。しかも片方は人間で、片方は森に隠れて生きる俺だ。
でもその時間は、妙に自然だった。
風が吹き、葉が鳴る。少女がパンをちぎる音。俺が焼き菓子を噛む音。どちらも大きくない。森の音に紛れてしまいそうなくらい小さい。
少女は食べ終えると、膝を抱えて言った。
「私、海を見たことないの」
急な話だった。
「村の外も、そんなに知らない。遠くの町も、山の向こうも。ほんとはいろんなところに行ってみたい」
目は森の奥ではなく、そのもっと先を見ていた。
「あなたは、ずっと森にいるの?」
答えられない代わりに、俺は動かなかった。
少女は少し笑う。
「そっか。そうだよね」
勝手に納得して、勝手に次へ進む。
「でも、森の中は詳しい?」
それなら詳しい。どこに水が湧くか、どこに獣道があるか、どの木が雷で裂けたか、どこに寝ると風が当たらないか。村の地図より、こっちのほうがずっとわかる。
少女は石に指先で線を引いた。
「案内してほしいな」
心臓がどくりと鳴る。
それは駄目だ。
近づくのとは違う。森を歩かせるのとは違う。人間を自分の世界へ入れるのは、意味が変わる。
少女は俺が黙るのを見て、すぐに笑ってごまかした。
「冗談」
冗談ではない声だった。
言ってみただけ、という声でもなかった。
本気で思ったのだろう。この森を歩いてみたいと。俺と一緒に。
その考えが、恐ろしくて、甘かった。
少女は立ち上がり、服についた草を払った。
「じゃあ、今日は帰るね」
帰る前に、少しためらってから振り返る。
「また来てもいい?」
聞く必要なんてないはずだ。今までだって勝手に来ていたのに。なのに、わざわざそう聞く。
俺は返事の代わりに、逃げなかった。
少女はそれをどう受け取ったのか、小さく笑って頷いた。
「じゃあ、また来る」
そう言って帰っていく後ろ姿を、俺はずっと見ていた。
見えなくなってからも、しばらくその場を動けなかった。
また来る。
そんな言葉に、あんなにも安心してしまう自分が嫌だった。
来るなと言うべきなのだ。もう来るな。森は危ない。俺に慣れるな。人間と俺は一緒にいられない。そう、どこかではちゃんとわかっている。
それでも次の日、俺は朝から石の近くにいた。
約束なんてした覚えはない。
ないのに、待ってしまっていた。




