会いたい
それから、少女が来る日には必ずそこへ行くようになった。
石のそばの茂みは、もう俺の場所みたいになっていた。昼の匂い、土の湿り気、風に揺れる草の音、その全部に少女の声が混ざる。来ない日は少しつまらない。来る日は、朝から妙に落ち着かない。
そんなふうになるとは思わなかった。
人間は遠くから見るものだった。村の明かりを木の上から眺め、笑い声を聞き、家畜の匂いを嗅ぎ、近づかないまま夜へ戻る。それで十分だったはずだ。
けれど今は違う。
あの子がどんな顔で笑うのか、どんなふうにパンをちぎるのか、どんな時に少しだけ声をひそめるのか、そういう細かいことばかり覚えていく。覚えたところで意味はない。意味はないのに、勝手に残る。
ある日、少女は石に座るなりため息をついた。
「怒られちゃった」
俺は少し身を乗り出した。
「森のほうへ行くなって。危ないからって」
そりゃそうだろう、と心の中で思う。人間の大人としては正しい。森は危ない。人狼がいなくても、獣もいるし、足を滑らせる場所もある。何より、俺みたいなのがいる。
少女は膝を抱えた。
「でも、危ないからって、全部見ないままでいるのもつまんないよね」
その言い方が、いかにもこの子らしかった。
怖いもの知らずというほどではない。ただ、知らないままで終わるのを嫌う。たぶん村の中では少し変わっているのだろう。普通の子なら、大人に叱られたら泣くか、拗ねるか、少なくとも森に来る回数は減る。
でもこの子は来た。
来て、昨日より少しだけ奥まで歩いて、石のところまで座って、いつも通り何かを置く。
「今日はね、干した果物」
「これ好き?」
「私は好き」
返事がなくても平気な声で言う。
俺は少しずつ、その距離に慣れていった。
最初は少女が石に触れるだけで緊張したのに、今は二、三歩ぶんくらいなら近づける。もちろん、少女がこちらを真っすぐ見ればすぐ止まるし、姿を見せるつもりはない。それでも前より近い。少女の指先の形や、爪の先の白さまでわかるくらいには近い。
その日は風が強かった。
少女は頭に巻いていた布を押さえながら笑った。
「飛ばされそう」
ひとしきり風に髪を乱されたあと、ふいに真顔になって森の奥を見た。
「ねえ」
その呼びかけに、思わず耳が立つ。
「いるんでしょう?」
胸の奥が止まりそうになった。
見えていたのか。ずっと前から。俺が隠れているつもりで、全然隠れられていなかったのか。
少女は続ける。
「見えてなくても、わかるよ。だって、なくなってるもん」
石の上に置いた食べ物のことらしい。
それはそうだ。鳥や小獣のせいにするには、毎回きれいに消えすぎていた。
少女は少しだけ笑って、けれどその笑いは勝ち誇ったものではなかった。
「大丈夫。誰にも言わない」
そんなことを、人間に言われて安心できるものかと思う。口約束なんて風と同じだ。吹けば消える。けれど、なぜだかこの子の声は嘘くさく聞こえなかった。
「だって、せっかく来てくれてるなら」
来てくれてる。
俺がここへ来ていることを、そういう言い方で受け取るのか。
狙っているとか、潜んでいるとか、様子を窺っているとかじゃなくて、来てくれている。
その言い方に、胸の奥が変に熱くなる。
少女は自分の膝の上で指を組んだ。
「ほんとは、ちょっとだけ見てみたい」
呼吸が浅くなる。
「でも、嫌ならいいよ」
すぐにそう付け足す。
それが、ずるかった。
見たいと言うくせに、無理はしない。近づきたいと言うくせに、追い詰めない。だから余計に、こっちが近づきたくなる。
俺は茂みの中で前足を一歩だけ動かした。
草が擦れて、小さな音がした。
少女の肩がぴくりと揺れる。けれど逃げない。悲鳴も上げない。ただ、じっとこちらを見ている。怖がっていないわけではないのだろう。緊張の匂いはする。けれど、それ以上に、知りたいという匂いがした。
俺は木の影から、ほんの少しだけ顔を出した。
全部ではない。鼻先と、片目と、耳の先だけだ。
少女は息を呑んだ。
叫ばれると思った。
けれど、少女の口から出たのは、とても小さな声だった。
「……きれい」
その一言に、俺は固まった。
きれい。
怖いでも、気持ち悪いでも、化け物でもない。
きれい。
そんなふうに見られたことなんて、一度もなかった。
俺はすぐに引っ込もうとした。でも足が動かない。動けないまま、少女と視線が合う。少女の目はまっすぐで、驚いていて、それでもやっぱり嫌ってはいなかった。
「ほんとにいたんだ」
少女はそう言って、少しだけ笑った。
俺はそれ以上いられず、ぱっと身を翻して森の奥へ駆けた。枝を蹴り、土を跳ね、息が荒くなる。心臓がうるさい。逃げたくせに、逃げた先でもあの声が追いかけてくる。
きれい。
ほんとにいたんだ。
森の深いところまで来て、ようやく足を止めた。
水たまりに映った自分の顔を見る。狼に近い輪郭、鋭い歯、獣の耳、人とは違う目。見慣れた顔だ。きれいなんて言葉の乗る顔じゃない。そう思っていた。
でも、あの子はそう言った。
その日から、俺はもっと会いたくなってしまった。
見たいじゃない。遠くから眺めたいでもない。会いたい。
人間に対して、そんなことを思う日が来るとは夢にも思わなかった。




